ネリの懸念
甘ったれた考えから逃れようと、
「山田さんは、どうですか。リリーと組んでて」と、たずねる。
「……難しいな」
「むずかしい?」
「悪くはない。リリーは、頭の回転も速いし動きも機敏だ。だが、見てて危なっかしい」
手放しでほめるだろう、と予想していたので、その解答は意外だった。
「一気に勝負をつけたがるところがある」
彼は苦笑いをうかべた。
「性格だな。彼女はせっかちなんだ。むかしから」
ナオコはその言葉に、悔しさと憧れをおぼえた。兄妹間の気安さを感じた。
「逆ですね」
「なに?」
「山田さんは、けっこうのんびり屋じゃないですか」
「そんなことはないだろう」
むっとしたように言うので、ナオコは笑った。仕事以外の場面では、彼が意外にのんきな性質だと知っていた。ちょっとした優越が嬉しかった。
「兄妹って性質が反対になるらしいですよ。下は上を見て育つらしいので」
得意げに言うと、彼はしかめっ面をした。
「それで、吸血の話じゃないのか」と、話をそらしたので、
「あ、そうです。体調は、大丈夫そうですけれど。でも飲んでください」
と、手の甲を指さす。真新しい傷は浅いが、肉が少ないため痛みが大きかった。
「また目立つ場所に傷をつくって」と、ぼやかれる。「君は嫁に行くつもりがないのか」
ナオコは唇をとがらせた。
「ありますけれど」
「そう思うなら、もっと注意しろ。手の甲なんて、すぐに見えてしまうじゃないか」
「これくらいの傷でガタガタ言うような人、こっちから願いさげです」
「……そんなことを言うんじゃない」
まるでじゃじゃ馬娘に手を焼く父親のような顔で、彼はため息をついた。
「飯田さん、といったか。きみの彼氏。優しいのだろうが、なかなか頑固そうに見えたぞ。きっと、こんなケガを発見したら、内心穏やかじゃないと思うが」
ナオコは、予想外の名前にうろたえた。
「大丈夫ですよ、べつに大ケガってわけじゃないし……」
「そういう問題じゃないだろう。自分の大切なものが、よそで傷を負ったというのが」
山田は、急に言葉を切った。不服そうに鼻を鳴らして「とにかく気をつけろよ」と叩きつけるように注意する。
「わかりましたよ。とりあえず、飲んでください。そのために来たんですから」
手を差しだす。彼は自らの手でナオコの手首をつかみ、甲に口をつけた。
前髪の黒いツヤをながめたり、指先のくすぐったさをこらえながら、吸血が終わるのを待った。
ふと思いついて、
「山田さんが宮沢賢治が好きなのは、共感するからですか?」
と、たずねる。
傷口からくちびるが離れた。
彼は、ぼうっとした顔でナオコの手を握った。どきっとして、無表情になる。手が離れた。
「なんだって?」と、聞き返すので、無意識の行動だったのだと気づく。
ナオコは照れ隠しにせきばらいをしてから、
「宮沢賢治って妹さんがいたんでしょう?」と聞きなおした。
「だから、いろいろ思うところがあるのかなって。リリーのこととか、思いだすのかな、と」
「そういう部分もある」
彼は、案外素直にみとめた。
「だが、リリーのことじゃない」
「え?」
「宮沢賢治の作品における妹、ネリ的なもの、と呼ばれるが……これは賢治の分身だ。たんなる兄妹ではなく、自らの一部として見ていたんだろう」
山田が立ちあがり、本棚に置かれていた本を手にとった。
「ここに出てくる双子は、賢治と妹を象徴すると言われている。実際には年が離れているが、彼は、妹を双子であり分身のように感じていたわけだ」
「そんな読み方があるんですね」
感動していたが、山田が「巻末の解説を飛ばしたんだな」と、言いあててきたので、視線をそらした。
「リリーのことじゃないなら、だれを思いだすんですか」
冗談まじりに聞く。ふざけた解答を期待したのだが、
「だれでもいいだろう」と、すげなく返された。
彼女は、手を握られたときの熱を、むなしく感じた。
宮沢賢治を読んで、思いだす対象がリリーでないならば、他に思いあたるふしはない。自分の知らないだれかへ想いをよせているのだ。
「わたしは、宮沢賢治を読むと山田さんを思いだしますけど」
やりきれなさが、口をすべらせた。
あわてて「いつも読んでいるイメージがあるから」と、付けたす。
彼は虚を突かれたようだった。
「そんなに読んでいるか?」
「まえにオフィスで読んでいたし、それに、ほら、山田さんの本、何度も読み返した跡があるから。好きなのかなって」
「……だから、それを選んだのか?」
彼の目元が、サッと赤くなった。うぬぼれた発言だ、と感じたのだろう。
「いや、宮沢賢治は定番だからな」と、目線をそらす。
ナオコは、耐えられなかった。距離をとろうとする袖をひく。
「そうですよ」
うろたえた顔が、ナオコを見下ろした。
「そうです。山田さんが読んでるから、読んでみようと思ったんです」
言葉は、どんどん尻すぼみになっていった。今になって、恥ずかしさがせりあがってきた。
だが、袖から手を離せなかった。彼も、離すようにとは言わなかった。
「……読書の習慣をつけるなら」
奥歯にものが挟まったような言い方だった。
「次を貸してやる。好きなのを持っていくといい」
「ありがとうございます」と、蚊の鳴くような声で答えた。
奇妙な沈黙を破ったのは、着信音だった。机に置かれた携帯電話が震えている。
山田は、電話に出て一言二言話してから「行ってくる」と、立ちあがった。
「宿直ですか」
「ああ」
ナオコは、彼の後をついて部屋を出た。
まだ、少しだけ心音が早かった。そっと目をあげると、彼がこちらを見ていた。
「なんですか?」
ちょっと怒ったふうに聞いてみる。
「なんでもない」と、彼はすこしだけ笑った。
ああ、これはだめだな。
ナオコは、心底そう思った。
電球をよけながら歩く後ろ姿に、足元を伸びる長い影に、はねた後ろ髪に、こんなに参っている。
はしごの前についた。
「先にいけ」と、譲られたので、はしごに足をかける。
数センチ作ってある隙間に指をかけ、マンホールをずらす。
夜の公園に顔を出したとたん、ナオコは転げ落ちそうになった。
「……なんであなたがここにいるんですか」
マンホールのふたの横に、リリーがしゃがみこんでいた。
恐ろしいほどの真顔だ。
地面に上がりたかったが、射すくめられて動けない。先ほどとは別の意味で、心臓が高鳴る。
「いや、ちょっと」
ナオコは、はしごに手足をかけたまま、
「仕事、仕事のことで、ちょっと用があって」と、説明した。
「どうした」
足元から、心配そうな声が聞こえた。彼はまだ気づいていない。
リリーの顔が、さっと青ざめた。そして、油のうえを炎が走るように、怒りが顔つきを変えた。
それは、突発的な行動だった。
胸に衝撃を感じた。はしごから手足がはずれる。
驚きのあまり、声も出ず、落下した。一瞬だった。気づくと、山田の腕のなかにいた。
恐怖に見開かれた彼の瞳を真正面からみあげた。呼吸が止まっていた。心臓すらも鳴っていない気がした。
「す、すみません」
思わず謝った。彼の腕は、体重を支え切ってびくりともしていなかったが、相当に驚かせたのは事実だった。
山田は、無言のままナオコをおろした。別の意味で背筋が総毛だった。
おそるおそる上をみると、ぽっかり空いた夜空を背景に、リリーが凍りついているのが遠く見えた。
「リリー」
呼びかけは、静かだった。
リリーが穴から姿を消した。走る音が遠ざかっていく。
彼は何事もなかったかのように「ケガはなかったか」と、たずねた。
「あの、山田さん、リリーは」
「あの様子だと仕事には来ないだろう。まあいい」
はしごを上るように、うながされたので、なにも言えないまま地上にあがった。
青っぽい闇のなかで、彼の表情の冷たさに気づく。
「リリーのこと、探すなら手伝いますよ」
ナオコは、突き飛ばされていながら、リリーのことが心配だった。恐怖に彩られている彼女の顔が、頭から離れなかったのだ。
しかし、彼は「いい」と、すげなく返した。
「それより、家まで送っていく。仕事があるから、ほら、ちゃっちゃと歩け」
彼は、ナオコの腕を強くつかんだ。痛いくらいの力の根本に、心配性があると知っていた。
それでも、先ほどのような喜びはわいてこなかった。
言葉にできない不安が的中したと判明したのは、翌日の朝だった。