The world is mine
静かな町を、青年が歩いていた。先ほどまで強く吹いていた夜風は、やんでいた。
コンクリートの塀が左右に立ち、彼の影をのばしていた。
耳元で、鐘の音がなった。
「言いたいことでも?」
街灯が、彼の肌を照らした。人形のように白く、のっぺりとした頬の下、うすく綺麗な形の唇は弧をえがいていた。彼女に見せびらかした作り笑顔が、まだ剥がれていなかった。
アパートの壁にうつっている青年の影が、ヘビのように形を変えた。
影はしなり、ゆがみ、文字になった。それらの文字は、あいかわらず反転していた。
RETTAMEHTSTAHW。
彼は文字を無視して、歩を速めた。
文字が追いかけてくる。
RETTAMEHTSTAHW。
RETTAMEHTSTAHW。
RETTAMEHTSTAHW。RETTAMEHTSTAHW。RETTAMEHTSTAHW……文字は面白がるように、左右の壁や塀、ついには、道いっぱいに文字を広げた。
RETTAMEHTSTAHW。
「うるさいな!」
青年が怒鳴った。
そのせいで、町を包む静けさが、いっそう際立った。
彼は、大きく息をついた。怒りと、やるせなさと、悲しみが混然一体となって、胸を貫いていた。
曲がり角に、寂しくかかっていた古い黒板から、カリカリと音がした。
彼はそちらを見て、舌打ちした。
不思議なことに、白いチョークがひとりでに浮き上がり、黒板の文字をたたいた。
RETSYORUOYSIDLROWEHT。
「シェイクスピアか」
彼は、そのチョークをあざけった。
「化物が人間の文化を騙るなんて、ちゃんちゃらおかしいよ」
それでも、その文字から目をそらせなかった。
彼には、分かっていた。
もう手の施しようがないほど、自分がそれに侵食されていることも、それゆえに、頭がおかしくなるくらい彼女が恋しいことも。
「この世界は、ぼくのものじゃないよ」
その言葉は、傷つきすぎた心から流れる血のようだった。
「この会社も、アルフレッドも、山田くんも、あの子も、みんな、ぼくのものじゃない」
中村ナオコが山田志保に抱く気持ちを、彼はずっと知っていた。それこそ、彼女が気づくよりもずっとまえ、彼ら三人が出会ったときから、それは少しずつ迫っている予感だった。
それでも、彼は彼女に恋をしつづけていた。
黒板が、再びかりかりと音をたてた。
文字が書きかわっていた。
「The world is my oyster」
彼は、そう声にだした。苦笑いをうかべ、見えないだれかに話しかけた。
「君は、ぼくを思い通りに動かしたいだけだろう」
返ってくる言葉は、どこにもなかった。
「まあいいか」と、諦めたように頭上を見る。
一等目立つのは、オリオン座だ。三連ならんだ宝石は、手のなかに落ちてこない真珠のように思えた。
「アレも完成するし、あとは野となれ山となれってことだ。わかるかい? 日本のことわざなんだけど」
彼は、再び歩きだした。
もう迷うことはなかった。ただ、シャンデリアを背にした彼女のほほえみを思いだして、ときおり目がくらんだ。あの男に恋する彼女は、なんと醜くて、綺麗だったか。
手に入らないものへの執着を胸に、それでもあがくのは、茨の道を進むからだ。
そして、彼女は、自分と同じ道をすすむ。
「この世界は、ぼくのものじゃないよ。キャロル」
彼は、独り言をいった。
「ぼくの世界は、ずっと前から」
午後22時36分、町には、だれの姿もない。