反射
マルコは話をつづけた。
「じゃあさ〈鏡の国〉は、だれかの妄想だと思う? エヴァやガンダムや戦艦ヤマトやウルトラマンみたいに、だれかが楽しむために作った想像の産物なのかな」
ナオコは、彼がなにを言いたいのか分からなかったので、
「ちがうんですか」
と、不安げに聞きかえした。
「いや、違わないよ。〈鏡の国〉はある。でもね、ナオコくん」
マルコは、ほほえんだ。
「存在しているものは、だれかが存在してほしいと願ったものなんだ。アニメもそうだよね、ある意味では存在する。立体ではないけれど、言葉として、映像として、存在している」
彼の目は、らんらんと輝いていた。それは、好奇心と探求心がもたらす輝きだった。
「ぼくが思ったのはさ、〈鏡の国〉が、最初からあったわけではないってことなんだ」
「どういう意味ですか」
「だれかが作ったんだよ、その国を」
ナオコは、急速に口がかわいていくのを感じた。
「つくったって、だれが」
彼女は、ハッとした。
「キャロルが?」
マルコは、笑みを深くしてうなずいた。
「アルフレッドの日記に書いてあった。彼は、HRAを立ち上げるよりもずっと前に、ある何者かに〈鏡の国〉の存在を示唆されているんだ」
「でも、HRAができたのは、アリスを発見したからなんじゃ」
いつか観たVTRでは、そう説明されていた。
「あれは建前だと思う」
彼は、首を横にふった。
「考えてもみてよ。〈鏡の国〉が発見されたのは1984年、その翌年にHRAは立ち上げられている。その時には、すでに向こうと現実世界を隔てる〈鏡面〉の研究は成功段階に達していた……いくらアルフレッドが優秀であれ、早すぎると思わない? もっと前から〈鏡の国〉の存在を知っていたからこそ、事前に研究できたと考えるほうが、自然だよね」
ナオコは、非現実に迷いこんでしまったような感覚にとらわれた。
なんとか内容を呑みこもうと、コップに手をつける。話がかみ砕けないのは、酒で頭がぼんやりしているせいではなかった。
「ぼくが核戦争について調べていたのも、それが関係しているんだ。HRAの立ち上げ時期や、アリスが発見された時期は、ちょうど戦争が終わったあとだよね。ひとつの世界を作り上げるなんて大儀なことをやってのけるわけだから、世界的な大事件が関わっているんじゃないかと思ったんだ」
新聞の切り抜きが、ナオコの頭のなかで旋回していた。
核戦争、キューバ危機、そして失われた恋人を悼むとの走り書き。
「戦争で失われるなにかを〈鏡の国〉によって取り戻そうとした……?」
マルコはほほえんだ。
「……日記にね、こう書かれていたんだ。『後悔しても、もう遅い。我々は恐るべきことを行ってしまった。破滅へと至る道筋の中でも、茨の道を選んでしまった』ってね」
ナオコは、彼が以前たずねた質問を思いだした。これはアルフレッドの言葉だったのだ。
「どういう意味でしょうか」
「わからない。でも、きっと問題はさらに根深いところにあるんだと思う。ある破滅に至るシナリオを食い止めるために、HRAは作られた」
マルコは、あくまでも淡々としていた。
「つまり、ぼくたちは尻ぬぐいをしているわけだね。アルフレッドの、そしてその何者か……キャロルの」
ナオコは信じがたく思った。だが、彼の話は突拍子がないゆえに、真実であるようにも思えた。
七輪の火が消えてしまったので、店員を呼び止めて、火をつけなおしてもらった。
店員が去ったあとで、彼女は、
「どうしてわたしに話してくれたんですか」と、たずねた。
マルコは目をぱちぱちさせた。
「だって、キャロルについて聞いたでしょ。だから、できるかぎりのことを話したんだよ」
「でも、これは……わたしみたいな平社員に話していいことでは」
「ああ、なるほど」
彼は苦笑した。
「これは、あくまでぼくの考えにすぎないから。HRA本社の人間も知っているのか知らないのか分からない。そもそも、気にしていないかもしれない。彼らは、現段階の〈鏡の国〉の様子にしか興味がないし、それに、仮にぼくの考えが正しくても、それでなにかが変わるわけじゃない……そうだろ?」
ナオコは、うなずいた。ただ、それにしても恐ろしい話には他ならなかった。
「マルコさんとしては、その考えが正しいと思っているんですよね」
「うん。でも、真実だとは思わないで」
ナオコは、ぎくりとした。
彼は、ようやく目を合わせてきた。その青い色には、自分を試すような色があった。
彼女は、ためらいがちに、しかしまっすぐに、青年を見た。
真実がどこにあるのか、ナオコには分からない。
彼女は、ただ目の前にある事実を信用するしかなかった。
そして事実とは、どこか様子の変わってしまったマルコと、それでも時折見せる素の表情だ。
店を出たのは、20時半だった。
「ちょっと歩かない?」と、マルコが誘った。
ナオコも、まだ話したりなかったので、すんなり承諾した。
辺りは、すっかり暗かった。十一月は、夜だけ冬の顔をしている。
街灯の寂しい光を見ていたマルコが、なにかを思い立って顔を輝かせた。
「ね、ナオコくんって、イルミネーションとか興味ある?」
「はい、好きですよ」と、彼女は素直にうなずいた。
「恵比寿寄ってかない? イルミネーション、このあいだ始まったよね。ここからならそんなに遠くないし、散歩がてら」
ナオコは「いいですよ」と言いかけたが、リリーのことが頭をよぎって、返答につまる。
すると、マルコはがっかりしたように「ダメ?」と聞いた。
そういう表情をされると弱い。
「ダメじゃないです」
「ありがとう、ナオコくん」
そう言ったマルコは、これまでどおりの彼だった。