光
翌々日の夜、ナオコはそわそわした気持ちで『かぶら屋』の席についていた。
本日の仕事を終えたあと、彼女はマルコの執務室をおとずれ、少し話ができないかとたずねた。
すると、夕飯にさそわれた。
「自分は後から向かうから、19時にいつもの店で」
彼は、そう言って笑みをうかべた。
山田の私室で会ったときとはうってかわった様子だったので、ナオコは安心した。彼の精神面も、懸念だったのだ。
店内は薄暗く、木材のかんじが橙色の照明に映えていた。どの席でもお酒が入りはじめて賑やかだった。ナオコは酒樽の名前をながめて、時間をつぶした。
19時になる前に「おまたせ」と、マルコが近づいてきた。
「いえ、ぜんぜん」
ナオコは、ほほえんで、メニューを彼の席にむけた。
「夜だと、またおいしそうなものが増えるんですね」
彼はジャケットを椅子にかけて、席についた。
「そうなんだよね。昼にもまして、食欲をそそられて困るよ……ね、これ食べない? 七輪で焼いてくれるやつ」
二人は季節のおすすめを何品かと、日本酒を注文して、乾杯をした。
「おいしいですねえ」
ナオコは料理に舌鼓をうちながら、いつ言いだそうかと機をうかがっていた。話さなければならないことが複数個あったが、どれも切り出しづらかった。
彼女が迷っていると、さきにマルコが、
「山田くんの精神分離機のこと、あらためて聞いたよ」
と、話題をふった。
ナオコは、七輪に乗ったエイヒレをひっくり返そうとしたが、箸を止めた。
「そう、なんですね」
「うん。リリーくんから、彼のサポートをしてやってくれって頼まれた。本社からの任務もほかの〈芋虫〉に分担させるべきだし、副作用のほうも」
ナオコの脳裏に、吸血を目撃されたときの、マルコの表情がよぎった。
「……あのとき見たことは、リリーくんにはさすがに言わなかったけど」と、彼は苦笑した。
「その、すみませんでした」
彼女は、すかさず謝罪した。
話さなければならないことの筆頭は、それだった。
「はしたないすがたを見せてしまって」
「はしたない?」
「あんまり、見ていて気分の良いものではなかった……ですよね」
ナオコはしょんぼりしながら、彼をうかがった。マルコは、面白そうにうなった。
「うーん、でもさ、ナオコくんは、ぼくのために黙っておいてくれたんでしょ?」
「山田さんの副作用について、ですか?」
「本社から彼が隠れて任務を受けていたこと。それをぼくに話さなかったのは、アルフレッドについてぼくが話したからでしょ?」
マルコは、エイをひょいとつまみあげ、焼き加減をみた。
ナオコがうなずくと、彼は「やさしいね」と軽く言った。
「ここの人は、ほんとうにやさしい。本社がぼくに隠し事をしていたからって、しかたのないことだと思うよ。ぼくは、経営者としてぺーぺーなわけだし、アルフレッドが信用しなかったのも、理由あってのことだ」
マルコは、エイヒレをじいっと見ている。
頭上で揺れる提灯のせいだろうか、赤い和紙をとおした光に照らされているのに、彼の肌は、プラスチックのように白く平たく見えた。
「申し訳ありません」
ナオコは、頭をさげた。彼がいかように言おうとも、自分があのとき正直に報告しなかったことは事実だった。
「こちらこそ、気を遣わせてごめんね」
マルコは笑った。だが、視線は合わないままだ。
いつも目のなかをのぞきこむようにして話すのに、今日はそうしない。
ナオコは、不安になった。これまでなら、好奇心に満ちた彼の瞳に、落ち着かなくさせられていたのだが。
彼女の不安をよそに、マルコは、
「それで、話したいことってなにかな」
と、話題をふった。
ナオコは、気を取り直して椅子にすわりなおした。
「その、奇妙なことをたずねるんですけれど」
「うん。なあに?」
「キャロルって、マルコさん何のことだか知っていますか?」
やかましい声が、すぐ隣の席から聞こえて、ナオコは肩をはねさせた。数人の大学生客が店員と親し気に肩を叩きあっている。どうやら、注文をとりにきた拍子に、友人の存在に気づいたようだ。
げらげらと笑い声をあげる彼等をしり目に、ナオコは目の前の人物へと視線をもどした。
彼は首をひねっていた。
「きゃろるって、マツダ・キャロル? それともバンドのキャロル?」
「あ、えっと」
ナオコは肩をおとした。当てが外れてしまった。
「ちがうんです」
「ぼくに聞けば答えがわかりそうだと思ったのは、うちの会社に関することだからかな。よかったら詳しい話を聞いてもいい?」
彼は、神妙な様子でたずねた。
ナオコは、このあいだ現れた〈虚像〉がキャロルに気をつけろ、との忠告をしてきた件を伝えた。また、それがルイス・キャロルを示しているとの推測をたて、ブージャムと同様にHRAで使われている暗喩だと考えたと話した。
彼は、興味深そうに話を聞いていた。そして、聞き終えると、左上をむいて思索にふけった。
「もしかすると、だけど」
ナオコは、身を乗り出して聞く体制に入った。
「アルフレッドが、かつて話していたことに関連するかもしれない」
マルコは、ちらりと彼女の表情をうかがった。話してよいものかと迷っているようだった。
「じつはぼくも、ずっとそれについて調べていたんだけど」
「あのファイルのことですか?」
以前、資料室でもらったファイルの内容を思いだす。核戦争に関わる資料ばかりがはさまっていた。
「うん……そうなんだけど」
「無理に話さなくても、大丈夫ですよ」
マルコは「いや」と苦笑して、いったん間を置いたあとで、
「ナオコくんは〈鏡の国〉ってなんだと思う?」
と、たずねてきた。
ナオコは、きょとんとした。
「そうたいてきべつせかい……」と答えてみるが、彼が求めている答えではない気がした。
「ナオコくん、エヴァンゲリオンの世界って本当にあると思う?」
「え?」
「だから、エヴァって実在すると思う?」
彼は、にやにやしながら話をつづけた。
「箱根のパラレルワールドでは、本当に碇シンジや綾波レイがエヴァに乗って使徒と戦っていると思う?」
「え、あ、思わないです……」
「だよね」
彼は、くすくす笑った。
「本当に宇宙でガンダムがびゅんびゅん飛んでいて、宇宙戦艦ヤマトが地面を割って出てきて、時々ウルトラマンが三分間だけ地球を助けにくる、そんな世界がたくさんあると思う?」
ナオコは首を横にふった。
「そうなんだよ、アニメはアニメだ。現実じゃない。現実はただ一つ。世界も一つ。だから代えがきかなくて、すばらしいんだろうね」