絵が描けないから、あなたが必要
美術館を出るころには、日が暮れはじめていた。
ご飯をおごるとの約束を忘れていなかったナオコは、彼を食事に誘ったが、断られてしまった。
「きっと夜になったら彼氏から連絡がくるだろう」と言われて、すっかり飯田のことを忘れていたと気づく。
あわてて携帯を確認すると、18時頃には会えるだろう、とのメッセージが届いていた。
「ほらな」と、山田は得意げにした。
しかし、ナオコは名残惜しさが諦め悪くあがいているのを自覚していた。
だから「今日はいきなり呼び出してすみませんでした」と、電車のなかで謝ったときも、本当は飯田への申し訳なさのほうが勝っていた。
「いい経験になった」と山田は返した。
「誘ってくれてよかった」
「そう言ってもらえると……」
ナオコは、行儀よくお礼の言葉をのべようとしたが、それは「誕生日だろう?」という確認によって途切れてしまった。
彼女はふいをつかれてしまい、間抜けな声をあげた。
「だ、だれのですか」
「君に決まっているだろう。誕生日だから、デートの予定を組んでいたんじゃないのか」
「そうですけど……」
なぜ知っているのだろう、との疑問が顔に出ていたのか、山田は「去年相浦と新藤が盛大に祝っていたからな。さすがに覚えている」と、説明した。
たしかに去年の誕生日は、独り者の自分のために、彼らがオフィスにケーキを持ちこんで祝ってくれた。しかし『盛大に』なんて形容詞がつくほど派手にやってはいない。
ナオコは、身勝手な期待が胸を焦がすのを、あわてて止めた。
きっとそのときは、自分のことが目の上のたんこぶだったから、嫌な意味で目についたのだろう。
「だから、これは祝いだ」
彼は堂々と告げると、カバンの中から四角い包みをとりだした。
「受け取れ」
電車が、ガタンゴトンと揺れていた。
ナオコは、突き出された包みを凝視した。こんな状況は、まるで想定していなかった。
「ほら」
彼は、受け取るようにせまった。
「なんだ、予想外だったか」
「……はい」
ナオコは、こくりとうなずいた。
「なんでですか」
彼は、彼女がすんなり受け取るものだと思いこんでいたのか、当惑した表情をうかべた。
「なぜと言われても」
「今日はたしかに、わたしの誕生日です。というか、そういうことになってます」
実際のところ、自分がいつ生まれたかなんて、彼女にはわからなかった。今日が誕生日であると決まっているのは、中村家に引き取られた日だからだ。
山田は、彼女の説明を聞くと「そのような理由なら、なおさら祝うべきなんじゃないのか」と言った。
「まあ、ほら。たいしたものじゃないから受け取っておけ」
なかば強制的に箱をにぎらされたナオコは、いまだに信じられないような気分だったので、感激も感動もできなかった。
ただ、つり革につかまっている山田が、横目で自分の反応をつぶさに見ていると気付き、顔が熱くなっていくのを感じた。
「……家、帰って開けますね」
「そうしろ」
それから別れるまで、ほとんど会話はなかった。
ただ、胸の深い部分が彼と繋がっているような錯覚をおぼえた。
彼は、自分にかぎりなく近い存在で、もしかすると爪の先くらいは、自分そのものなのかもしれない。そんな風に思う自分が、彼女は恐ろしかった。
それは好意とも愛しさとも異なる、どこか呪いじみたもので、時折交わされる視線の優しさが、その気持ちを加速させた。
ほんとうに、この人が必要だ。ナオコは心の底から思って、泣きたかった。
電車の中は、ざわめいていた。
その後、渋谷で飯田と合流してから、謝罪とめいっぱいの誕生日祝いをうけた。
ナオコは、とてもうれしく思ったが、どこかうわの空だった。
飯田からは、質のいいマフラーをもらった。彼女は喜んだが、やはり頭のかたすみを占領するのは、ぶっきらぼうに渡された箱のことだった。
自宅の玄関口についたナオコは、ずっと大切に抱えていた包みを開けた。
彼女は、声をあげて笑った。
箱にはブックカバーが収まっていた。渋い赤にそめられた革のうえに、メッセージカードで一言『少しは活字を読め』と、流れるような字で書いてある。
彼女は、丁寧にカバーを取りあげると、カバンの中にあった本に被せた。本のタイトルは『銀河鉄道の夜』だ。二週間ほどまえに、ふと思い立って購入して以来、少しづつ読み進めている。
本を胸にだきしめると、それが彼自身であるかのように思えた。
「きもちわるいなあ」
彼女は独りで笑いながら、立派な装丁になったそれを天井にかかげた。