絵を描けない男
改札をぬける山田を発見したナオコは、彼のもとに近寄った。
彼は、私服姿だった。シャツの上から黒いカーディガンをはおっている。リリーになにか言われたのか、無精ひげもなくなっていて、健康そうだった。
山田はナオコに同情するような視線をむけ、
「よく頑張ったな」
と、サッカーの決勝戦で負けた子供をなぐさめる親のように言った。
「こんなに張りきった姿を見てもらえないとは、哀れとしか言いようがない」
「どうせドタキャンされた女ですよ……」
彼女は怒ったふりをしたが、内心では喜びをこらえていた。
「これも、よく似合っているな。なかなか」
山田はナオコの着ているカーディガンをつまんで、口角をあげた。それは、今年の8月に彼からもらった物だった。
得意げな顔で「見立てがいい」と自画自賛するので、思わず笑ってしまった。
「いっぱい着させていただいています」
「それは僥倖」
二人は、上野公園まで歩いた。雨はもう止んでいて、すんだ空気がただよっていた。
「……もうあれから、四カ月近くが経つのか」
歩きながら、山田がつぶやいた。
「山田さんになぐられかけたときだ」と、ナオコは笑う。
「あれは、君が危険もかえりみずに飛びこもうとするから……」
彼は、心外そうに言った。
「でもひどかったですよ、いきなり記憶を消そうとしたり、なぐろうとしたり」
「実力がないのに突っこんでいくほうが問題だろう」
言い争いながら、ナオコは、自分たちの関係性もずいぶん変わったようだ、と考えた。
彼女は、話しつづけている山田の横顔を盗み見た。
整った顔は、あのときとさして変わらないように見えた。
変わったのは、自分自身のほうだ。彼女は、ひそかにほほえんだ。彼の一挙一動の意味が分かるようになっている。
「おい、なにを見ているんだ」
山田がわずかに眉をひそめた。
こうするときは怒っているのではなく、困っている。
ナオコがなにも言わないで、にこにこしているので、彼は余計に眉間のしわを濃くした。
「なにか面白いことがあったか? それともデートがふいになったショックで精神に異常をきたしたのか?」
「いえ」
彼は、けげんそうに首をかしげた。こうした子供じみた表情をすると知ったのも、ごく最近のことだ。
やがて彼は「分からん」と言ったかと思うと、足を速めて、ナオコの正面に立った。
「なんですか?」
山田はあごに手をあて、興味深そうに見下ろしている。
「山田さん?」
急に不安になって、彼のそでをちょいと引っ張った。
すると、唐突に破顔して「いや」と、手をふった。
「やはり分からんな」
ぴんときた。どうやら自分の真似をしていたらしい。
彼は、にやにや笑いながら「しかし、こうされることの不安は共有できたな」と、言った。
「あまり人をじろじろと見るものではない」
ナオコには、彼がそういう茶目っ気を出したことが意外に思えた。
山田は、公園へとつづく階段を軽やかにのぼっていく。その背中を眺めていると、彼はふりかえった。
「ほら、早くいくぞ」
彼も変わったのかもしれない、とナオコは思った。そして、その考えの傲慢さを恥じたが、そうであればいいと心から願った。
それも、落ち葉の中を歩いている青年が、あまりに自然に笑うからだ。
国立西洋美術館にたどりついた。平日の午後はすいていて、門の横に設置された掲示板に、特設展の宣伝が貼られていた。
山田は庭にはいると、ロダンの『地獄の門』をみあげて「また、ここに来ることになるとは」と感嘆とも呆れともつかない声をあげた。
「二度とこれは観たくないと思っていた」
「そんなこと言わないでくださいよ……それとも、あんまり好きじゃなかったですか?」
不安になって、そうたずねると、彼はかぶりをふった。
「好きか否かの判断基準がないんだ」
入場券を2枚買って、館内に入る。
山田は、美術館へ来るのは初めてのようだった。建物のなかを見渡して、珍しそうな顔をしている。
「ここへは君が来たいと言い出したのか?」
「はい。最近行ってないなって思って」
ナオコは、話しながらほおをかいた。文化的な側面を強調しているようで気恥ずかしかったのだ。
ただ両親ともに文化的な場所を好むために、美術館や博物館を訪れる習慣が彼女にはあった。
山田は「そうなのか」と、感心した。
「俺は、こういうことにはまったく詳しくないから、教えてくれ。うるさくない程度に」
「うるさくない程度ってどれくらいですか」と、ナオコは笑った。
二人は、まず特設展を観にいった。
山田は、熱心に絵を見ていた。「ばろっく」などとつぶやきながら解説を読み、分からないことがあると声を低くしてたずねてきた。
もともと好奇心旺盛な性質なのだろう、とナオコは思った。彼の背景を知ったいまとなっては、それはとても眩しいことのように思えた。
特設展を巡ったあとは、常設展に足をむけた。
ほとんど人がいなかったので、二人はのんびりと作品を観てまわった。
ナオコにとっても、山田と作品を鑑賞するのは新鮮だった。学生のころは両親や友達と行くことが常だったが、彼は独特の視点で作品を観ているようで、それが面白かった。
特に彼が興味を示したのは、二階の一角にひっそりと飾られていた絵画だった。
ナオコがトイレから帰ってくると、彼はまじまじとそれを眺めていた。
風景画だ。キャプションに目を走らせるとクールベの《狩猟者のいる風景》という絵画であると分かった。こんな場所に行ったことはないが、26年間生きてきて、一度くらいは夢に見たような、そんな当たり前の自然のすがたが、キャンバスには描かれていた。
山田は、見とれるような顔で絵具のかたまりを眺めていたかと思うと、
「クールベというのは、どこの国の人間なんだ?」と、たずねた。
「フランスですよ」と、ナオコは答えた。
「たしか19世紀の画家で〈オルナンの埋葬〉って絵が一番有名です」
「こういう絵をよく描く画家なのか?」
「いや、〈オルナンの埋葬〉は、こういう絵じゃなかったような……」
「そうなのか」
山田は意外そうにうなずくと、再び絵に視線をもどした。よっぽど気に入ったのだろう。
ナオコは、携帯でこの絵について調べてみた。そして「なるほど」と、声をあげた。
「この絵、クールベの故郷であるオルナンを描いているんですね。だから」
「だから?」
「うーんと、なんだかなつかしい感じがするのは、そういうことかあと」
ナオコは、照れ笑いをうかべた。こういう話をすると、否応なく恥ずかしくなってしまうのだ。
しかし山田は、しごく真面目な表情で「分かる気がする」と、共感した。
「ほかの風景画とちがって、あまりロマンチックではないと思ったんだ」
「ろまんちっく?」
「そうだな、なんと表現すればよいのか……見たままというよりも、あるがまま、と言おうか。なぜか行ったことがあるような気にさせられると思ったんだ。そういう原風景に訴えかける絵なんだろうな、これは」
ナオコは、胸のうちに優しい驚きをえた。それは、彼女も感じたことだったからだ。
「山田さんがこういう絵が好きだなんて、なんだか意外です」
けして嫌味ではなくそう言ったのだが、彼は自分でも似合わないと思っていたのか「そうだろうな」と、少々ぶっきらぼうに返した。
「行ってみたいだろう。こういう場所に」
「なんでですか?」
「自然が延々とつづいて、静かで、退屈そうだ」
そう言う彼は、いつか火星に行きたいと願う少年のようだった。
ナオコは、彼がこういったものを愛する理由をようやく理解した。そして、その切なさを吐き出すように、口をひらいた。
「山田さん」
「なんだ」
彼女は、かしこまって告げた。
「休み、とってくださいね」
「……どうしたんだ、いきなり。休みなら今とっているだろう」
「ううん、違います。もっと長いお休み、とってください。それで、行ってください。自然が延々とつづいて、静かで、退屈なところ」
ナオコは真剣だった。
山田はあっけにとられていたが、ふと苦笑した。
「そうだな、いつか」
彼は、叶わない願いを口のなかにふくんで、そのほろ苦さを楽しむように笑った。
「いつか、行こう」