絵に描いた誕生日
バスは渋谷駅東口で停車した。
ナオコは、薄暗い高架下を人ごみと共に歩き、山手線の改札口をぬけた。昨日までは比較的暖かったのだが、今日は雨のために肌寒い。
彼女はホームに着くと、カーディガンの前をあわせて、自販機で温かい飲み物でも買おうかと悩んだ。
そのとき携帯が鳴った。飯田からだ。
待ち合わせ時刻は、上野駅に12時のはずだった。ナオコは、不思議に思いながら電話に出た。
数分後、彼女は真顔で電話を切った。
「だいじょうぶですよ」「あやまらないでください」「ほんとうにへいきですから」を、一生分言いきった気分だった。
「これだから営業マンは……」
そう毒づいた彼女を、横にいたサラリーマンが同情の目で見た。
今ばかりは暴言を許してほしい、とナオコは思った。
ドタキャンされたのだ。
誕生日の、しかも約束の30分前にドタキャンである。暴言の一つも飛び出るだろう。
飯田の説明は真摯だった。
世話になっている営業先の引継ぎを、先日後輩に行ったこと。その引継ぎがうまくいかず、本日発注ミスが発覚したこと。その謝罪に後輩と向かわなければならないこと。
しかたがない、とナオコは心のなかで繰り返した。もはや怒る気力もなければ、悲しむ元気もなかった。
飯田は、できるかぎり早く向かいますから、と言ってはいたが、この類の問題が発生して、早めの退勤ができるわけがない。
有給を取り消してまで出勤する彼をかわいそうに思う気持ちもあったが、ナオコにとっては、それよりもホームに滑りこんできた、巨大な緑色と銀色の芋虫みたいな車両に乗りこむべきか否かが重要だった。
サラリーマンは、彼女を憐れむように横目でみて、いの一番に列車に乗りこんだ。
ナオコは、その後を追った。このまま家に帰って映画三昧でもかまわなかったが、それではあまりにも悲しい気がしたのだ。
しかし、上野公園をてくてく歩いて、老人会や留学生の団体が集まる国立西洋美術館の前にくると、後悔の念がわいてきた。
26歳の誕生日にひとりで美術館なんて、なにかを悟っているかのようだ、と思った。そしてナオコは、なにも悟っていなかったし、悟るつもりもなかった。
彼女は美術館のまえを通りすぎて、あてもなく公園を歩いた。奥に進めば進むほど、人通りは少なくなっていった。
動物園の前に到達した。彼女の口からは、もはやため息すら出なかった。
帰路につこうと、来た道を引き返す。
ナオコは陰鬱な気持ちだったが、それでも26歳の大人であるという自覚が、彼女を前向きにさせようと頑張った。
ありったけの贅沢を許すことにしたのだ。
まず新宿に行く。そこでちょっといい服を買う。渋谷にもどったら、ツタヤでビデオを3本くらい借りて、それから東急の地下で法外に高くてとびっきりにおいしそうなケーキを買うのだ。
そう心に決めると、すこしだけ気分があがった。
ナオコはなんとか明るい気持ちになって、駅へとつま先を向けた。
しかし、ある思いつきによって足を止めてしまった。
バカげた考えだと思いつつ、携帯でスケジュールを確認する。11月19日、月曜日。ナオコは思わず喉をならした。
特殊警備部は基本的にシフト制だが、5課3班の休みは下半期に入って、おもに月曜日だった。
つまり、今日、彼は休みの可能性が高い。
ナオコは、ほぼ意識しないまま、彼の連絡先を表示した。見慣れた電話番号を穴のあくほど見つめる。
ためらいがちに画面に触れていた彼女は、思いきって通話ボタンを押した。
誕生日を祝うような年ではないが、それでも、この日に彼と少しでもかかわりを持ちたい。そんなささやかな願いだった。
ナオコは、携帯を耳に押し当てながら、雨音の少ない木陰へと寄った。
傘を傾けて空を見上げると、雨脚はだんだんと弱まっていた。
電話は震えつづけている。胸の高鳴りは、徐々に小さくなっていった。
これは出ないな、と苦笑する。
「山田だが」
ナオコは、携帯を取り落としそうになった。
「も、もしもし。中村ですが」
「ああ、なにか用か」
彼女は動揺を必死でしずめながら、山田がいまどこにいるのか考えた。私室だろうか。それとも本社からの任務にあたっていて、外にいるのだろうか。
「えっと、今どちらにいます?」
「……部屋にいる」
山田は、不思議そうに答えた。
「そうですか」
彼女は咳払いをした。
「あの、今日ってなにかしていますか」
「特段なにもしていないが」
「え、ええっと、そうですか」
ナオコは焦っていた。
幸か不幸か、彼を誘える状況になってしまった。
傘をもつ手が、つるりとすべった。
彼女は「うわっ」と声をあげ、慌てて傘をつかみなおし、柄を肩にのせた。
その慌てっぷりを聞いた山田が「外にいるのか?」と、たずねてきた。
「あ、そうです」
ナオコは、一人でうなずいた。
「いま、上野公園にいて」
「ほう。デートか」
山田は、カンの鋭さを発揮した。しかし、予定が取り消されたとは思わなかったのか、
「これから待ち合わせか? なんだ、のろけか」と、せせら笑ったので、ナオコは苦笑した。
「いや、ドタキャンされまして」
「……は?」
いっきに山田の声が固くなった。
「その、仕事で来れなくなっちゃったって言われて。えーと」
ナオコは、もはやどうでもよくなっていた。
どうせ断られるのだから、言ってしまったもの勝ちだ。
「山田さん、ひまなら上野まで来ません? ごはんくらいなら、おごりますから」
彼女は、冗談めかして伝えた。言ってみると、かえってすっきりした気持ちになった。
これで拒否されたら、逆に実らない思いも吹っ切れるというものだ。
玉砕する覚悟も時には大事だな……なんてセンチメンタルに浸っていると、
「一時間ほど待て」との声がした。
ナオコは、ぽかんとした。
「え、来るんですか?」
「君が来いと言ったんだろう」
「いや、そうですけれど」
ナオコは、急にハッとした。
山田が、リリーとマルコの件に関して傷心中であると思い出したのだ。
ナオコは、蛍光灯で無理やり照らされたような罪悪感をおぼえた。やはり電話なんて掛けなければよかった……そう後悔する良心を、歓喜が押しやった。
「一時間くらいなら全然待てます」
彼女は、明るい声で告げた。
「駅前のカフェにいますから……ついたら連絡ください」
「承知した」
電話は、あっさりと切れた。
蛍光灯のなかでも、卑怯だとしても、それでもうれしかった。ナオコはごめんなさい、と誰に向けるでもなく謝った。
そして、飯田のこともリリーのことも、今日だけは考えまいと思った。
今日だけは、夢を見たかった。