絵に描いた餅
バスの窓が濡れていた。底冷えする寒さに、湿度の高さがあいまって、居心地の悪い車内を作りだしていた。
ナオコは窓の水滴を指でなぞり、止みそうで止まない雨をながめた。
水曜日の午前11時半、乗客は、かしましく話している女性が二人と、彼女だけだった。
彼女は、窓に「26」と書いて、かわいた笑いをうかべた。
本日は11月19日。
ナオコの、26歳の誕生日であった。
今日は、先日の約束のとおりに飯田と会う約束だった。彼はわざわざ有給をとるそうで、ナオコは、喜びとやるせない気持ちをいだいた。
彼女は、このあいだの戦闘が忘れられなかった。
あの戦闘の後、病院で手当てをうけたナオコとケビンは、異常種のふるまいについて話しあった。
「Beware of the Carol」
ケビンが流ちょうにつぶやいた。
「キャロルに用心しろ……ねえ」
彼は頭をかきむしって「キャロルってなんだ?」と、つぶやいた。
「……ルイス・キャロルかな。もしかして」
ナオコの思いつきに、彼は目を輝かせた。
「それだ。きっとHRAにキャロルっつー化物がいるんだ」
ブージャムやスナークの例を考えると、その可能性は非常に高いように思えた。〈鏡の国〉も〈アリス〉も〈芋虫〉も、作者であるルイス・キャロルの作品から引用された言葉だ。
「よし、キャロルはそうだとして……あの〈虚像〉が、本当にアリスだったのかも問題だな。俺は見たことないから分からんが、なんで死んだやつが〈虚像〉になって出てくるんだ?」
「わからない」
ナオコは、かぶりをふった。
「ただ、そう見えたね」
「仮にあれがアリスだったとして、どうして唇の化物に変化する? それになんだよ、ホシイって。なにが欲しいんだ?」
ケビンは独り言をいいながら考えつづけていたが、ナオコは別のことに思いをはせていた。
〈虚像〉に食べられかけた瞬間を、思いだしていたのだ。
真っ黒い暗闇が目の前に広がって、どこかに通じているかのような、生ぬるい風を感じた。
ナオコは、あの一瞬に感じた感覚を忘れられなかった。
しかし、その懸念は胸の内にしまった。ただでさえ混乱した状況のなかで、余計なことに気を取られる必要はないと考えたのだった。
それから三日間、ナオコは資料室を訪れたり、ほかの〈芋虫〉に聞き取りをしたりと調査を行ったが、キャロルが何者なのかは分からずじまいだった。
ナオコは、マルコか山田、もしくはリリーであれば、知っている可能性があると考えていた。
だが、いまの彼らに質問をするのは、少し難しかった。
というのも、異常種が発生した翌日から、彼ら三人に関してある噂が立っていたのだ。
「マルコさんが、タッカーに手を出したらしい」
オフィスでひそかに聞いたのは、そんな話だった。
「まあ、無理もないかもしれないな。マルコさんは唯一の山田以外の本社組で、親しみがあるだろうし。異国の地にきて、こう、急速に距離が縮まったんだろう」
「しかし、ここ最近は、仕事が終わると執務室に入り浸りだそうじゃないか。風紀の乱れを感じる」
「そりゃあ、まあな」
「あんなにお兄ちゃんにべったりだったのになあ」と、いう声も聞こえた。
「まあ、兄弟と恋人じゃあ違うだろうが……これは山田が怖いな」
当初、ナオコは噂を信じがたく思っていた。リリーが別の人間に心惹かれるすがたが、想像つかなかったのだ。
だが、その噂の真相を、彼女は間接的に知ることになった。
それは昨日の朝、吸血をさせる目的で、彼の私室を訪れたときのことだった。
ナオコは、異常種の出現を不安に感じていた。
普段ならブージャムが対処するはずの異常種が〈芋虫〉の手に回る状況は、山田が頻繁に駆りだされていることと示すと考えたのだ。
彼の苦しそうな表情を想像すると、居ても立ってもいられなくなった。
それで、もしリリーがいたら、そそくさと帰れば良いと思いながら、部屋の扉をノックしたのだった。
山田はすぐに現れたが、そのすがたを見て、ナオコはぎょっとした。
「や、山田さん!?」
「……君か」
彼は、大きなためいきをついた。
「吸血はいらない」
「大丈夫ですか……?」
ナオコは、まじまじと山田を見た。
そのすがたは、悲惨なくらいにボロボロだった。あごのところに無精ひげが生えているし、シャツにもしわが寄っていた。
彼は、ひたいを片手でおさえて「大丈夫だ」と返したが、少しも元気のない声だった。
「ちゃんとご飯食べてますか? なんだか、元気ありませんけれど」
「食べている」
彼は、ぼんやりとしていた。その様子が異様で、ナオコは困ってしまった。
顔色はさほど悪くないので、たしかに吸血は要らなさそうだ。だが、こんな状態の彼を放っておくわけにもいかない。
「話なら聞きますよ」と、ナオコは提案しかけた。
だが、背後から「ナオコさん、なんのようですか?」と、とがった声が聞こえたので、肩をはねあげた。
リリーは目を三角にすると、犬を追い払うような手つきでナオコを扉の前からどかした。
そしてわざとらしく兄の腕を絡めとり、愛くるしく顔をのぞきこんだ。
「ほら、シホ。しゃきっとしてくださいな。いつ出動命令がかかるかも分からないんですから」
その声は、無理に明るくしているような調子だった。
山田はリリーをちらりと見ると、再びためいきをついた。
そしてナオコに視線を向けて、帰るように示すと、扉をしめた。
ナオコは、その様子をみて噂の内容に納得し、さらに山田の心境に同情した。
元気がないのは、リリーがマルコへ傾いたことに落ちこんでいるからである、と思ったのだ。
ナオコには兄弟がいないので分からないが、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた妹に恋人ができたら、面白くはないだろう。
マルコに関しても、いささか不安に思った。
資料室でほおにキスをされたことや、これまでの少し過激なアメリカンジョークと照らしあわせると、リリーを本命だと断定するのは怖いような気がした。
それに、このあいだ山田の私室で見たときは、あきらかに様子がおかしかった。
ナオコは、だんだんとマルコのことも心配になった。
山田は心配するな、と言っていたが、やはり今度執務室を訪ねるべきだろう。
ついでだから、その機会にキャロルの件に関しても質問してみよう……彼女はそう決めて、やっと今日のデートに集中する心づもりになった。