表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
103/173

絵に描いた餅

 バスの窓が濡れていた。底冷えする寒さに、湿度の高さがあいまって、居心地の悪い車内を作りだしていた。

 ナオコは窓の水滴を指でなぞり、止みそうで止まない雨をながめた。

 水曜日の午前11時半、乗客は、かしましく話している女性が二人と、彼女だけだった。

 彼女は、窓に「26」と書いて、かわいた笑いをうかべた。


 本日は11月19日。

 ナオコの、26歳の誕生日であった。

 今日は、先日の約束のとおりに飯田と会う約束だった。彼はわざわざ有給をとるそうで、ナオコは、喜びとやるせない気持ちをいだいた。

 彼女は、このあいだの戦闘が忘れられなかった。






 あの戦闘の後、病院で手当てをうけたナオコとケビンは、異常種のふるまいについて話しあった。


「Beware of the Carol」

 ケビンが流ちょうにつぶやいた。

「キャロルに用心しろ……ねえ」


 彼は頭をかきむしって「キャロルってなんだ?」と、つぶやいた。


「……ルイス・キャロルかな。もしかして」


 ナオコの思いつきに、彼は目を輝かせた。


「それだ。きっとHRAにキャロルっつー化物がいるんだ」


 ブージャムやスナークの例を考えると、その可能性は非常に高いように思えた。〈鏡の国〉も〈アリス〉も〈芋虫〉も、作者であるルイス・キャロルの作品から引用された言葉だ。


「よし、キャロルはそうだとして……あの〈虚像〉が、本当にアリスだったのかも問題だな。俺は見たことないから分からんが、なんで死んだやつが〈虚像〉になって出てくるんだ?」


「わからない」

 ナオコは、かぶりをふった。

「ただ、そう見えたね」


「仮にあれがアリスだったとして、どうして唇の化物に変化する? それになんだよ、ホシイって。なにが欲しいんだ?」


 ケビンは独り言をいいながら考えつづけていたが、ナオコは別のことに思いをはせていた。

〈虚像〉に食べられかけた瞬間を、思いだしていたのだ。

 真っ黒い暗闇が目の前に広がって、どこかに通じているかのような、生ぬるい風を感じた。

 ナオコは、あの一瞬に感じた感覚を忘れられなかった。

 しかし、その懸念は胸の内にしまった。ただでさえ混乱した状況のなかで、余計なことに気を取られる必要はないと考えたのだった。


 それから三日間、ナオコは資料室を訪れたり、ほかの〈芋虫〉に聞き取りをしたりと調査を行ったが、キャロルが何者なのかは分からずじまいだった。

 ナオコは、マルコか山田、もしくはリリーであれば、知っている可能性があると考えていた。


 だが、いまの彼らに質問をするのは、少し難しかった。

 というのも、異常種が発生した翌日から、彼ら三人に関してある噂が立っていたのだ。


「マルコさんが、タッカーに手を出したらしい」


 オフィスでひそかに聞いたのは、そんな話だった。


「まあ、無理もないかもしれないな。マルコさんは唯一の山田以外の本社組で、親しみがあるだろうし。異国の地にきて、こう、急速に距離が縮まったんだろう」


「しかし、ここ最近は、仕事が終わると執務室に入り浸りだそうじゃないか。風紀の乱れを感じる」


「そりゃあ、まあな」


「あんなにお兄ちゃんにべったりだったのになあ」と、いう声も聞こえた。


「まあ、兄弟と恋人じゃあ違うだろうが……これは山田が怖いな」


 当初、ナオコは噂を信じがたく思っていた。リリーが別の人間に心惹かれるすがたが、想像つかなかったのだ。

 だが、その噂の真相を、彼女は間接的に知ることになった。


 それは昨日の朝、吸血をさせる目的で、彼の私室を訪れたときのことだった。

 ナオコは、異常種の出現を不安に感じていた。

 普段ならブージャムが対処するはずの異常種が〈芋虫〉の手に回る状況は、山田が頻繁に駆りだされていることと示すと考えたのだ。

 彼の苦しそうな表情を想像すると、居ても立ってもいられなくなった。

 それで、もしリリーがいたら、そそくさと帰れば良いと思いながら、部屋の扉をノックしたのだった。


 山田はすぐに現れたが、そのすがたを見て、ナオコはぎょっとした。


「や、山田さん!?」


「……君か」

 彼は、大きなためいきをついた。

「吸血はいらない」


「大丈夫ですか……?」


 ナオコは、まじまじと山田を見た。

 そのすがたは、悲惨なくらいにボロボロだった。あごのところに無精ひげが生えているし、シャツにもしわが寄っていた。

 彼は、ひたいを片手でおさえて「大丈夫だ」と返したが、少しも元気のない声だった。


「ちゃんとご飯食べてますか? なんだか、元気ありませんけれど」


「食べている」


 彼は、ぼんやりとしていた。その様子が異様で、ナオコは困ってしまった。

 顔色はさほど悪くないので、たしかに吸血は要らなさそうだ。だが、こんな状態の彼を放っておくわけにもいかない。

「話なら聞きますよ」と、ナオコは提案しかけた。

 だが、背後から「ナオコさん、なんのようですか?」と、とがった声が聞こえたので、肩をはねあげた。

 リリーは目を三角にすると、犬を追い払うような手つきでナオコを扉の前からどかした。

 そしてわざとらしく兄の腕を絡めとり、愛くるしく顔をのぞきこんだ。


「ほら、シホ。しゃきっとしてくださいな。いつ出動命令がかかるかも分からないんですから」


 その声は、無理に明るくしているような調子だった。

 山田はリリーをちらりと見ると、再びためいきをついた。

 そしてナオコに視線を向けて、帰るように示すと、扉をしめた。


 ナオコは、その様子をみて噂の内容に納得し、さらに山田の心境に同情した。

 元気がないのは、リリーがマルコへ傾いたことに落ちこんでいるからである、と思ったのだ。

 ナオコには兄弟がいないので分からないが、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた妹に恋人ができたら、面白くはないだろう。


 マルコに関しても、いささか不安に思った。

 資料室でほおにキスをされたことや、これまでの少し過激なアメリカンジョークと照らしあわせると、リリーを本命だと断定するのは怖いような気がした。

 それに、このあいだ山田の私室で見たときは、あきらかに様子がおかしかった。

 ナオコは、だんだんとマルコのことも心配になった。

 山田は心配するな、と言っていたが、やはり今度執務室を訪ねるべきだろう。

 ついでだから、その機会にキャロルの件に関しても質問してみよう……彼女はそう決めて、やっと今日のデートに集中する心づもりになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ