ALEA IACTA EST
山田とリリーが執務室から立ちさる物音を、マルコは私室で聞いた。
彼は窓辺に立って、外を眺めていた。
部屋は、混沌と平穏の隙間にうずくまるような静けさだった。
窓ガラスに、水滴がついた。雨が降ってきたようだ。
あっという間に雨脚は強くなり、外気との温度差によってガラスが曇った。
それでも、マルコはその場を動かなかった。
ふいに手をあげた。人さし指が、曇ったガラス窓に触れた。すうっと下へむけて線を引く。線のあいだから、黒い画用紙のような夜が戻ってきた。
彼は顔をあげた。窓ガラスの上部に違和感をおぼえたのだった。
窓ガラスの右上に、ぽつんと黒い痕がついた。その痕は、虫が這うような速さで線をえがいた。
マルコは、格段驚いたような顔もせずに、それを眺めていた。
やがて、文字らしきものが現れた。
RETTAMEHTSTAHW。
幼稚園児が書いたようなひどい字だった。R、E、Sの文字が裏返しになっている。
彼は、ぼんやりとそれを見つめた。
RETTAMEHTSTAHW。
マルコは、それを反対側から読むのだと気づいた。
「どうもしないよ」
そのとき、彼の脳内に、記憶が流れこんできた。
不気味な白い人型が、二人の〈芋虫〉に忠告をしている。そのうちの一人は、彼が愛してやまない女性だった。
〈彼〉はその光景を、教会の十字架から眺めていた。
「アリスが伝えたんだね。あの子たちに、君のことを」
マルコはつづけた。
「それは善性のなせる業かい? それとも、悪意からかい?」
窓の外にいる何者かは、その質問には答えなかった。
彼は机に近寄って、引き出しをあけ、古びた日記をとりだした。
それはアルフレッドの部屋から持ち出した、あの日記だった。表紙をめくり、文字を追う。
1952年12月25日、わたしは彼の歌を聞いた。
それは彼の祝福だった。それは彼の慈悲だった。それは彼の愛だった。
聖なる夜に、彼は自らをキャロルそのものであると名乗った。
マルコはそこまで読むと、日記をゴミ箱に放り投げた。
彼にとって、亡き義父が残したそれに、もはや大きな意味はなかった。
彼は裏切られ、傷つき、それゆえに笑顔を浮かべていた。
しん、と部屋が静まりかえった。再び、窓ガラスの曇りに文字が書かれた。
TSEATCAIAELA。
彼は、おかしそうに笑った。
「賽は投げられた、かあ。シーザーみたいに殺されなきゃいいけど」
やがて、青年にだけ聞こえる音が落ちてきた。白い雪のような声だった。
窓の外から、何者かが中をのぞきこんていた。
それは美しい水晶のような瞳をしていた。
「キャロル、ぼくは決めたよ」
青年は、目を閉じてつぶやいた。