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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
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The die is cast

 リリー・タッカーが目覚めると、品のよいクリーム色の壁紙が目の前にあった。寝返りをうつと、専門書ばかりが並ぶ本棚が二つと、クローゼット、小さな棚が見えた。

 棚の上にボトルシップが置かれていたので、彼女は眉をひそめた。こんなものを堂々と置いておくなんて信じられなかった。

 ゆっくりと上体をあげると、体に違和感を感じた。彼女は腰をとんとんと叩いてから、シーツをたぐりよせた。

 部屋の扉があいた。男はぼんやりとしていた。

 彼が、すでにスーツをきっちりと着こんでいたので、彼女はむっとした。


「……あれ、おはよう」

マルコ・ジェンキンスは、今しがた気づいた、という顔でリリーを見た。

「服、そこに置いてあるよ」


 無造作に指さす先をみると、椅子のうえにワンピースがたたまれていた。


「いま何時です」


 窓から見える空は、すっかり暗かった。


「えーっと、19時3分」


 彼女は大きなためいきをついた。


「お邪魔しました」


 ベッドから降りようとしたところで、気づく。

 彼女はシーツを握りしめて、目をとがらせた。


「ちょっと、なに見ているんです? 出て行ってください」


「ここ、ぼくの部屋なんだけど。それに、べつに良くない?」


 マルコは、自らのデスクに備えつけられた、柔らかそうな椅子に腰かけて、ほおづえをついた。

 リリーはシーツで体を隠しながら服を取り、彼を気にしながら着かえた。

 しかし、青年はこちらなど眼中にも入っていないようだった。気の抜けた様子で、宙をながめている。


「どうしたんです。後悔したんですか?」


 ついに気になって、たずねてしまった。


「後悔」と、彼は知らない言語のようにつぶやいた。

「なににたいする後悔かな?」


 リリーは、冷ややかな視線を送った。


「わたくしは後悔しています」


「あ、そう。まあいいけど。君から言いだしたわけだし」


 マルコは、彼女を見もせずに答えた。手のひらを開いたり閉じたりして、物思いにふけっていたかと思うと、ふと顔をあげた。


「どうだった? 感想を聞こう」

 彼は行儀悪く椅子の上に体育すわりをして、リリーを観察した。

「きみは満足した? ()()のはずだけど」


 リリーは素早くマルコに近寄ると、その額からはえる金色の稲穂みたいな前髪をぎりりと引っ張った。

 彼は手をばたばたさせて「痛い痛い」と、わめいた。


「レディに、よくもそんなことを聞けるものです。一緒? 全然ダメです。まったくもってダメ」


 ぱっと手を離すと、彼は苦笑した。


「そうやって露骨に否定されると、ぼくとしても自信をなくすなあ」


「無駄な実験でした。帰ります」


 リリーは、部屋から出ようと彼に背を向けた。


「待ってよ」


 青年の手のひらが、華奢なうなじをつかんだ。まるで野生動物を扱うかのような手つきだった。彼女を引き寄せると、背後から顔をのぞかせる。唇に強制的に舌が押しこまれた。

 ふり返りざまの奇妙な体制だったため、リリーはあわてて体を向きなおした。

 乱暴な口づけに、肩を押す。すぐに唇は離れた。


「……うーん」

 マルコは、しょっぱい顔をしていた。

「そうだねえ、やっぱり無駄だったかも」


「殺してほしいんですね? そう認識しました」


 リリーは、彼のあごに向かって思いきり蹴りをうった。彼は椅子を引いて攻撃をかわした。

 彼女は腹立たしかった。青年の視線は定まっていない。

 人とあんなことやこんなことをしておいて、彼は別のことに気を取られている様子だった。


「ねえ、リリーくん。さっき山田くんの部屋に行ってきたんだけど」

 リリーは、ぎくりとして動きをとめた。

「そこでさ」


 彼は口を閉ざした。目の中が揺れている。

 リリーは、嫌な予感がして「どうしたんです」と、たずねた。


「……山田くんってさあ、なんで『銀河鉄道の夜』とか似あわないものが好きなんだろうねぇ。ギャップ萌えをねらってるのかなあ」


「シホに下劣な疑いをかけないでください」


「下劣ではないと思うけど」


 軽いノックの音が聞こえた。マルコが、私室の扉の外を見た。

「山田だが」と、小さな声がした。

 

 リリーは扉に顔を向けたまま、固まっていた。


「ここで待っていなよ」


「いやです」と返し、私室を出て執務室に入る。

 マルコは彼女をあきれたように見ながら、山田を出迎えた。


 あらわれた山田は、切羽詰まった表情をしていた。

 リリーの胸がどきりと高鳴った。まさか自分を心配してくれたのではないだろうか、そんな甘い期待を抱いて、すぐに否定する。最近の話をしに行くだけだと、彼には伝えてある。




 リリーが、マルコに山田の私室のことを話したのは、彼のためを思っての行動だった。

 来日して驚いたが、山田は必要以上に多くのことを隠していた。本社から請け負った任務のことも、精神分離機のことも、本来隠さなくてもいいことまで、ひた隠しにしていたのだ。

 それはまるで、より奥にある秘密に触れさせないために厳重に閉じられた扉のようだった。


 彼女は兄が心配だった。

 協力体制を受け容れたのは、ひとえにそれが理由だった。

 山田のサポートをさせる代わりに、自分はマルコの仕事に協力する。それが約束だ。

 気に食わなかったが、その約束は自分にとって割のいい話である、とリリーは考えていた。

 マルコの『仕事』は、ひいては自分たちブージャムのためになることだった。だから、この取引は実質、彼女にとってメリットしかないものだった。

 少し浮かれていたのかもしれない。


「試してみてもいい」と、冗談を言ったのは、たしかに自分だった。

 彼女は、バカみたいな好奇心に流された自分を殴りたかった。




「リリー」


 山田が名前をよぶと、それだけで甘い震えが背中を走った。

 なにか言うだろうか、とリリーは期待して待った。しかし彼はマルコのほうを見ていた。


「さきほどのことで話がある」


 マルコは困った顔をした。


「話ならさっき終わったよね?」


「きちんと説明をさせてくれないか」


 山田は真摯に言った。


「説明かあ」


 マルコは頭をかくと、リリーに目をとめた。

 ほほえみを浮かべた青年に、嫌な予感がした。


「……じゃあ、説明してもらおうかな」


 山田は素直に「わかった」とうなずいた。

 リリーはとっさに「シホ、おなかすきませんか?」と、たずねた。


「今日はもう遅いですし、今度でも……」


「先に戻ってろ」と、山田はすげなく返した。

「俺はマルコ殿に話がある」


「でも」


 リリーは、彼の眼中にすら入らないようだった。やはり無駄だったな、と彼女は冷静に思った。どれだけ代替品で肌を温めようとも、彼の冷たい肌には指一本触れられない。


「リリーくんもいなよ」

 マルコが明るい声で言った。

「聞きたいでしょ。山田くんの打ち明け話」


 山田の表情がこわばった。

 マルコがそれを面白そうに見たので「シホ、どうしましたか」と、リリーはたずねた。


「なにかあったんです?」


 彼は応えなかった。自分に聞かせたくない話なのだと彼女は察した。


「……打ち明け話は今度かな?」

 マルコは笑みを深くした。

「そういうことなら、ほら、お兄ちゃん。かわいい妹がお腹空かせてるって言うんだから、おいしいごはんでも連れて行ってあげなよ……そうだなあ、ぼくのオススメは渋谷に新しくできたビル、あるでしょ。あそこのパエリアおいしかったよ」


 彼は親し気に山田の肩に手をやり、扉にむかって押しやった。


「マルコ殿」


 山田がたしなめるように呼んだ。心配がにじんでいた。

 リリーは、並んだ二つの顔をよく見た。

 そして胸に突き刺さった針の存在を感じた。より深くしずんでいく灰色の針は、体に残った痕を消してくれない。


「悪いがリリー、席をはずしてくれ」


 彼女は小さく息をのんだ。それでも彼に逆らうことはできない。

 扉に向かおうとすると、マルコが「ええ、ひどいなあ」と、わざとらしい声をあげた。


「ねえ山田くん。君がぼくに話すべきことなんて、なにもないんじゃないかな?」


 含みのある言い方だった。


「すべて他人の口から説明させておいて、いまさら話そうなんて、おかしな話じゃない」


 山田がリリーに目を向けた。その視線の冷たさに、彼女は固まった。


「彼女がなにか?」


「リリーくんには、たいしたことは聞いてないよ。せいぜい君の私室の話と、精神分離機の使用限度超過の件についてだけ。あ、それに関しては、ちゃんとこれからサポートするからね。安心して」


 彼は、経営者らしい完璧なほほえみを浮かべた。

 そして、不審そうな表情の山田にぐいと近づいた。山田は怯み、目を見開いた。

 マルコは、青年の薄茶色の瞳をじっと見た。


「全部、分かっているよ。だから、もう心配しなくていいし、隠さなくていい。山田志保くん」


 マルコは、動揺した青年のほおに指をあてて、彼の目元をなぞった。官能的な仕草だったが、二人の視線は、おぞましいほどに冷たかった。


 山田は口を閉ざしたまま、私室へと戻るマルコの背中を見送った。

 リリーがスーツのすそを引き「シホ」と声をかける。


「……君が明かしたのか」


 低い声だった。 

 リリーは肩をびくつかせた。


「ち、ちがいます。わたくしが話すよりも、まえからあの人は」


 山田は黙ってしまったので、リリーは手をおろした。

 こうなってしまうと、この兄弟が沈黙を破らないことを、リリーはよく知っていた。

 眼前の兄が、遠く思えた。彼は鋭い目つきで、マルコの私室の扉をにらんでいた。


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