開けどゴマ、閉じれどマメ
「ユング、何してんの?」
「静脈認証を先生の部屋に取り付けています」ユングは至極真面目に答えた。ぼーん。響いてくるのは鐘ではない、頭痛だ。
「大丈夫ですよ、さっき屋上に太陽光発電システムを設置しましたから電気代は変わりません。計算では、むしろ、梅雨が明ければ安くなります。あと強度が足りないようなので枠ごと替えてみました」
かちゃかちゃと鍵の一つもついていない年頃の女の子の部屋のドアが魔改造されてゆく。もはや核シェルターとかそういうのについていそうなドアだ。この家のどの壁よりもドアの方が長持ちしそう。
「……それさ、手をかざしたらそのまま自動で開くとかないよね?」
「ありませんよ。それだと壁からいじらなくちゃいけないでしょ?僕だって大工じゃないんだから、そんなことできません。せいぜい静脈認証で違ったら体液が蒸発するような高圧電流が流れるだけです」
君、大工さんもびっくりの工事を今の時点ですでにいくつか行ってるよね。口には出さないでおく。彼の言う通りできないってことで一つ。
「普通にロック解除してドアを押し開いて入ってください。ちょっと重くなってるので注意です」
「私は君が分からないよ……」
魔導師よりエンジニアとか、そういう職業の方が向いてるんじゃないのか?まあいい、本人の人生だ。
「先生、進路で悩んでるんで工事ついでに相談させてください」
「進路?うちに就職じゃないの?」
やめてくれてもいいけどね!ユングがちょっと涙目になった。引き留めてほしいらしい。
「僕は人間として生きるか、魔族になるかを今のところ進路と位置付けています。なぜならどちらにも成れてしまうから。もちろんどっちでも先生の靴の下に永久就職です。それは変わりません」
「変わってくれてもいいけど……しかも靴の下とかなんかやだけど、気持ち悪いし」
ユングは耳をふさぐことでイルマの冷凍ビームを回避した。
「人間側からはどうなのか知りたいんです。父方の祖父は人間だったけど人間嫌いでしたから。その妻は僕が生まれるより前に死んでいます。母方の祖父、オニビはあの通り半魔でしたし、そもそも彼の生前に僕は言葉も解さぬ乳幼児です。だから話が聞けたのはおばあちゃんからだけ、つまり魔族だけです」
一生の進路を決めることを考えたら、情報不足過ぎませんか?まともなことを言っている。着想はともかく言っていること自体はごく普通だ。
だが、どうしてだろう……頭痛がノンストップで走り抜けていく!イルマは思わずふらついて壁に手をついた。そこにいたコバエが一匹、振動に驚いたのかぶううんと無駄に大きい羽音を響かせて飛び上がる。
そのあと起きたことは、イルマといえども冷静に思い返すことができない。
「あ、蠅」
ユングが子供っぽく顔を振り向けて羽音に反応した、その刹那。羽音が消えた。
それだけではない、しゅるん、と皮の紐をスリットに通して擦ったような音がした。一陣の風が吹き抜ける。ポン酢の香りがした。
蠅自体を見つけるのは難しいことではなかった。小さいとはいえイルマの動体視力が反応できない速度で移動していたわけではないから。そして移動が複雑な軌道を描かず、まっすぐ水平に起こったから。
そして今、蠅は空中に静止している。
静止させられている。羽は拘束から逃れようと震えているが、そんなものでは粘性のある液体は払えない。じゅる、と今度は濡れたような音がして蠅が飛んでいく。ただし、本人の意志と無関係に。
……牡丹の花弁のような紅をした細長い舌が、ユングの口に巻き戻っていく動きに連動して……。
「うばああああああああああ!!!」
とうとうイルマは悲鳴を上げて尻もちをついた。虫やグロには十分耐性のある彼女だが、こういう複合型への耐性はまだ獲得していない。
「どうしたんですかあ?」ユングは変わらぬ笑顔でそう聞いてきた。
いや、変わらないわけがない。だって薄く開いた唇の間からは人間にはあり得ない細く長い舌が30センチは伸びて、とりもちのように蠅を捕らえているのだ。もちろんさっきはもっと長かった。
「夏に近づいたからおいしい虫が多いですね。真夏になると逆に減るもんですが。……あれ?どうして逃げようとしてるんです?」
恐怖と嫌悪だ。今少女の胸中をただそれだけが支配している。鳥肌がざばざばと大海原に変わる。大量の汗のせいかひしひしと体温の低下を感じながら、目は正面で笑う怪異からそらせない。
何となくたるんだ表情には、えへらえへら、という形容が何よりも似合う。
当の怪異からすればただ単に仲間に微笑みかけているだけなのだが、そこに殺気じみたものは一切存在しないのだが、脳の奥底に眠る動物の本能が逃げろとわめき、脳の表層で見守る人間の理性が体を凍てつかせて動けなくなる。
それにしても、あんなに長い舌はいつもはいったいどこに収納されているのだろう?いつかの電車内で白目剥いて口を開けて寝ていた時は普通の舌だったと思うのだが、今少なくとも30センチはある。それに形がずいぶん違う。
根元から先端へ少しずつ細くなっていって、それから先の方が少し膨らんだような形だ。蛙とかカメレオンに近いように思える。