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私になりたい令嬢に婚約者を奪われましたので、話の通じる方と幸せになります。  作者: さんけい


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第二十七話 君から話してくれないか

 ナイヤガラ家の新居を訪ねた日は、朝から細い雨が降っていた。


 ジョナサンの馬車が玄関前へ着くと、使用人は濡れた外套を受け取り、泥のついた靴を置く場所まで迷わず案内した。

 廊下の奥には、調査道具を置くための棚がある。革靴と短い長靴が二足ずつ並び、その上に折り畳んだ外套が掛けてあった。

 棚の端には札が下がっている。


 ――調査道具。食器を置かないこと。


 アプリコットの字だった。その下に、小さく別の字が書き足されている。


 ――カップ一個まで。


 線が引かれ、さらにその横へ、


 ――一個も不可。


 とある。使用人が気づき、札を裏返した。


「失礼いたしました」

「いや」


 ジョナサンはそのまま客間へ通された。

 新居を訪れるのは初めてだった。

 以前のアプリコットなら、客を迎える部屋には飾り棚と花を整え、用途の違う茶器をいくつも用意しただろう。

 今の部屋にも花はある。窓辺には地図を押さえる石が並び、暖炉の脇には乾かしかけた紙筒が立ててあった。

 夫婦が朝まで使っていたらしい小卓には、二つのカップが残っている。

 一方には茶が少し残り、もう一方には匙が入ったままだった。そばに置かれた覚え書きには、果樹、塀、南部報告書と三つだけ書かれている。

 長い説明はない。三つの言葉で、続きが分かるのだろう。

 待っている間に、侍女が新しい茶を運んできた。

 菓子皿には香りの弱い焼き菓子と、薄く切った林檎が載っている。


「奥様は、少し遅れておいでになります」

「具合が悪いのか?」

「午前中は休まれておりました。今はお支度をなさっております」


 噂は本当らしい。

 侍女が下がったあと、ジョナサンは林檎へ手を伸ばしかけ、やめた。

 間もなく扉が開いた。アプリコットは淡い色のゆったりしたドレスを着ていた。歩き方も以前より少しゆっくりしている。

 ヘルムートが後ろから入り、妻の椅子を引いた。


「お待たせいたしました」

「いや。急に頼んだのはこちらだ」

「先触れには、わたくしとお話があるとございましたけれど」


 アプリコットが座ると、ヘルムートは林檎の皿を彼女の前へ移した。


「先に少し食べておけ」

「お客様の前ですわ」

「朝から何も食べていないだろう」

「スープはいただきました」

「半分だ」

「見ていらしたの?」

「向かいに座っていた」


 アプリコットは林檎を一切れ取り、ヘルムートへ顔を向けた。


「これでよろしい?」

「もう一つ」

「あとで」

「忘れる」

「では、ここへ置いておいてくださいませ」


 ヘルムートは皿を近くへ置き、ジョナサンを見る。


「私は書斎にいる。話が終わったら呼んでくれ」

「同席してもらって構わない」

「私がいると話しにくいことだろう」


 それだけで出ていった。アプリコットも引き止めない。

 話が終われば呼ぶ。それで互いに通じている。


「それで、どのようなご用件ですの?」


 ジョナサンは準備してきた言葉を思い出した。けれど、どこから話せばよいのか分からない。


 ――アザリアが子供を欲しがっている。

 ――コッティと同じ時期に母親になりたいと言う。

 ――毎晩部屋へ来る。断れば朝食の席で続きを始め、父親は妻の話を聞けと言う。


 そのまま順に話した。

 途中でアプリコットが口を挟むことはなかった。茶を飲み、林檎をもう一切れ食べ、ジョナサンの言葉が止まるのを待っていた。

 すべて話し終える頃には、茶がぬるくなっていた。


「アザリア様は、あなたとの子供が欲しいとおっしゃったのですね」

「ああ。ただ、僕だから欲しいわけじゃない」

「そこまで確かめたの?」

「夫だから僕の子供になる、と言った」


 アプリコットはカップを卓へ戻した。


「では、まだ話し足りないのでしょう」

「何度話しても同じだ」

「同じところへ戻るなら、別の尋ね方をなさっては?」

「その方法を、君に教えてほしい」


 ようやく本題を言えた。


「いや、できれば君から話してくれないか」


 アプリコットの手が、林檎の皿の横で止まった。


「わたくしが?」

「子供は誰かの真似で持つものじゃないと、君から説明してほしい。アザリアは君の言葉なら聞くかもしれない」

「わたくしの言葉を聞く方なら、ここまでにはなっておりませんわ」

「でも、君は話を分かりやすくするのが得意だっただろう」

「アザリア様へ分かるように話し、納得するまで付き合えと?」

「そこまでとは言っていない」

「では、どこまでならよろしいの?」


 問い返され、ジョナサンは言葉に詰まった。

 アプリコットは続きを促しはしない。以前なら、彼が答えられない間にも、考えられる意味をいくつか挙げただろうが、今回はただ待っている。


「君なら、もっと話してくれると思っていた」


 口にしてから、自分でも妙な言葉だと思った。

 アプリコットは林檎の最後の一切れを取った。


「以前のわたくしなら、あなたが聞くのをやめる前に、必要なことを全部申し上げようとしたでしょうね」

「今は違うのか」

「今は、続きを聞いてくださる方がいますから」


 廊下を通る足音が一度止まり、また遠ざかった。


「今日の話を途中で終えても、明日続きを話せます。三日後でも、ヘルムート様は覚えております。ですから、急いで一度に詰め込む必要がございませんの」


 話したいことは多かった。加えて、次に話せる機会がいつ来るか分からなかった。

 ジョナサンが飽きる前に、機嫌を損ねる前に、席を立つ前に、アプリコットは一人で話を完成させようとしていた。

 今は覚え書きに三つの言葉を書き、続きを翌日へ残せる。


「……それでも、少しくらい助けてくれてもいいだろう?」


 ジョナサンの口から出たのは、そんな言葉だった。


「君にも関係がある。アザリアが真似をしているのは君なんだ」

「わたくしは、真似をしてほしいと頼んでおりません」

「分かっている」

「海を隔てた土地へ移ったとしても、アザリア様の中にいるわたくしは消えないでしょう」


 アプリコットは膝に重ねた手を見た。


「その方が何を望み、なぜ望むのか。それを確かめるのは夫であるあなたです」

「僕には話が通じない」

「それでも、あなたが選んだ方ですわ」


 扉の外で、軽く二度音がした。ヘルムートが顔を出す。


「終わったか?」

「ええ」

「南部の報告書だが、夕食後でいいか」

「今日はもう少し早く休みたいので、明日の朝にしてくださいませ」

「分かった。岩盤と迂回路だな」

「高低差もです」

「覚えている」


 ヘルムートは客間へ入らず、扉を閉めた。アプリコットはジョナサンへ向き直る。


「わたくしから申し上げられることは、以上です」

「それだけか?」

「ええ」


 以前なら、拒絶の理由をいくつも並べただろう。

 アザリアの性質――夫婦で話す順序――子供を持つ責任――両家へ相談する時の注意。

 だがもう、何も足さなかった。

 ジョナサンへ分かるまで説明する役目を、もう引き受ける必要はない。


「帰りの馬車を呼びますわ」


 アプリコットは呼び鈴を鳴らした。


 *


 玄関へ向かう途中、先ほどの棚が見えた。

 濡れていた外套は別の場所へ移され、靴も乾いた布の上へ置き直されている。

 札はまた表へ返っていた。


 ――調査道具。食器を置かないこと。


 下の書き足しまで、そのままだ。消す必要がないのだろう。

 間違えたことも、言い合ったことも、次の話へつながっている。

 馬車へ乗り、行き先を尋ねられた。


「オルスタイン家へ」


 御者が扉を閉めた。

 雨は夕方になっても続いていた。屋敷へ着く頃には、東側の窓に灯りがともっている。

 玄関を入ると、家政婦長がジョナサンの濡れた外套を受け取った。


「若奥様がお待ちです」

「どこで?」

「以前の子供部屋でございます」


 階段の上から、アザリアの声がする。


「ジョナサン様。こちらへいらしてくださいませ。壁紙の見本が届きましたの」


 家政婦長が目を伏せた。

 ジョナサンは濡れた靴のまま、階段を見上げた。



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