第一話 何を言っているの、この人
「……すまない、アプリコット。僕はアザリアを本気で愛してしまったんだ」
何を言っているの、この人。
ジョナサンは、ひどく思いつめた顔で私を見ていた。
その隣には、アザリア・リーフェル嬢が座っている。淡い緑色のドレスに、乳白色の小さな飾り釦。先月まで私がよく着ていた色合いだった。
髪も、片側だけを細く編んで後ろで留めている。私が春の間にしていた結い方だ。
それ自体は、別に珍しいものではない。仕立屋も髪結いも、評判のよい型を客へ勧める。似た装いの令嬢が二人や三人いたところで、驚くようなことではなかった。
それより今は、ジョナサンの言葉のほうが問題だ。
「……いつからですの?」
「いつからと言われても、気づいた時にはもう……」
「感情が生じた日をお尋ねしているのではありませんわ。そこを詳しく伺っても、本人にも分からないでしょうし、わたくしにも確かめようがありませんもの。そうではなくて、わたくしとの婚約を解消し、アザリア嬢との婚約を望むと決めたのはいつですの。その後、誰と相談して、どこまで話を進めたのかを伺っています」
ジョナサンの口が少し開いた。
彼は説明に困ると、まず口を開ける。それから眉を寄せ、私の問い方が悪いような顔をする。
幼い頃から何度も見てきた。
「そこまで細かく聞く必要があるのかい?」
「ありますわ。わたくしたちの婚約は、あなたとわたくしが好き合っていれば、それだけで成り立っているものではありませんもの。フラクタル家とオルスタイン家の間で交わされた約束です。解消するなら、両家の同意が必要ですわ。まして別の令嬢と新たに婚約なさるおつもりなら、先に今の婚約を終わらせなければならないでしょう」
「だから、今こうして君に話しているじゃないか」
「いいえ。今のところ、あなたは『アザリア嬢を愛している』とおっしゃっただけです。婚約を解消したいのか、しばらく考える時間が欲しいのか、わたくしに身を引いてほしいのか、何一つ明言なさっていませんわ。それとも、愛していると告げれば、その後の手続きはすべてこちらで察して動くものだと思っていらっしゃるの?」
「アプリコット様」
アザリア嬢が、膝の上で両手を組んだ。
「どうかジョナサン様を責めないでくださいませ。私たちはただ、自分の心に偽りなく生きたいと思っただけなのです」
自分の心に偽りなく。
どこかで聞いた言葉だと思った。
すぐには思い出せない。けれど、アザリア嬢の口から初めて聞いた言葉ではないような気がした。
「責めてはおりませんわ。確認していますの」
「でも、ジョナサン様は苦しんでいらっしゃいます」
「そうでしょうね。幼い頃から婚約していた相手へ、別の女性を愛したと告げるのですから、楽しいはずはありませんわ。ただ、苦しいことと、説明を省いてよいことは別です」
「ほら、君はいつもそうだ!」
ジョナサンが椅子の背へ体を預けた。
「何でも難しくする。僕たちの気持ちは、もっと単純なんだ。僕はアザリアを愛している。アザリアも僕を愛してくれている。だから一緒になりたい。それだけだよ」
「それだけで済むなら、家同士で婚約など結ぶ必要はありませんわ。わたくしも、あなたの気持ちを縛ってまで結婚したいとは申しません。ですが、だからこそ順序が――」
「オルスタイン家も、リーフェル家も理解してくれている」
今度は、私の口が止まった。
「すでに、両家へお話しになったの?」
「ああ。もちろん正式なことはこれからだが、父も母も、僕の意思を尊重してくれると言っている。リーフェル伯爵も、この結婚には賛成してくださっている」
「わたくしの家には?」
「これから話すつもりだ」
「……わたくしとの婚約を残したまま、次の婚約について二つの家で相談したのですか?!」
「だから、こうして先に君へ伝えに来たんじゃないか」
「先ではありませんわ。もう二つの家で話が進んでいるなら、わたくしは後です」
ジョナサンは、また眉を寄せた。
アザリア嬢が、彼の腕へそっと手を添える。
私も以前、同じように彼の腕へ触れたことがあっただろうか。少なくとも、人前ではなかったと思う。
「アプリコット様なら、きっと分かってくださると信じていました」
「何をですの」
「愛する人と結ばれたいという、私たちの願いを」
「それは先ほどから理解しております。わたくしが尋ねているのは、願いを叶えるまでの手順ですわ。そこを同じ話に戻されますと、いつまでたっても先へ進めません」
アザリア嬢の指が、ジョナサンの袖をつかんだ。
また見覚えのある動き。昔、彼が乗馬中に腕を傷めた時、私が支えた場所と同じだったからかもしれない。
「もういいよ、アザリア」
ジョナサンが彼女の手へ自分の手を重ねた。
「伝えるべきことは伝えた。アプリコットも、今は驚いているだけだ。時間がたてば、きっと分かってくれる」
「ですが……」
「今日は帰ろう。これ以上話しても、彼女は細かなことばかり気にする」
ジョナサンが立ち上がり、アザリア嬢も続いた。
「お待ちになって」
私も椅子から立つ。
「まだ何も決まっておりませんわ。少なくとも、わたくしの家はこの話を知りません。婚約を解消するにしても、まず両家で条件を確認する必要がありますし、これまでに交わした書面や贈答品の扱いも――」
「そういう話は、父たちがするだろう」
「あなたが始めた話ですのよ」
「すまない、アプリコット。でも、僕はもう決めたんだ」
ジョナサンはそれだけ言うと、アザリア嬢を連れて部屋を出ていった。
扉が閉じる。
二人分の茶は、ほとんど減っていなかった。私のカップだけが半分ほど空いている。
どこへ行ったのかと思っていたオルスタイン家の侍女が、しばらくして恐る恐る部屋をのぞいた。
「アプリコット様…… 旦那様がお帰りの馬車を用意するように、と」
「旦那様が?」
「はい。若旦那様から、お話は終わったと伺ったそうでございます」
終わったらしい。
私の知らないところで始まり、私が理解する前に、終わったことになっている。
「分かりました。帰りますわ」
左手には、まだオルスタイン家から贈られた婚約指輪がある。
勝手に外すわけにはいかない。これはジョナサン個人からの贈り物ではなく、家同士の約束として受け取ったものだ。
手袋を引き上げ、指輪を隠す。
……まず家へ帰ろう。
そして父と母に尋ねるのだ。
今のは一体、何だったのかと。




