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達人転生 ~理を知る達人は転生チートなんか必要ない~  作者: まつすけ


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第五話 兄と噂

レンの稽古は、その日から変わった。


勝つための稽古ではない。


隠すための稽古。


負けるための稽古。


転ぶための稽古。


痛がるための稽古。


知らないふりをするための稽古。


それは、レンにとって思っていた以上に難しかった。


オルドの木剣が、軽くレンの肩へ伸びる。


本来なら、避けるまでもない。


受ける必要すらない。


肩へ届く前に、足を半歩ずらせばいい。

触れた瞬間に力を逃がせばいい。

あるいは、木剣の重心をほんの少し狂わせればいい。


だが、それをしてはいけない。


今は、七歳の子供として打たれる稽古だった。


「ぐっ」


レンは声を出し、少し遅れて尻もちをついた。


オルドは木剣を下ろした。


「遅い」


「遅い、ですか」


「声を出すのが遅い。打たれてから考えて声を出しただろう」


「はい」


「はい、ではない」


オルドは額を押さえた。


「普通の子供は、打たれる前から少し怖がる。打たれた瞬間には、考える前に声が出る。お前のは、痛がるという行為を選択している顔だ」


「難しいです」


「難しいのはわしだ」


庭の端では、ガレスが椅子に座って見ていた。


脇腹と肩の傷はまだ癒えきっていない。

ミリアから厳しく動くことを禁じられているため、剣を握ることもできない。


本人は不満そうだったが、何度か立ち上がろうとしては痛みに顔をしかめ、結局おとなしく座っていた。


「先生」


ガレスが口を挟む。


「レンはわざと転ぶのは少し上手くなってきたのでは?」


オルドは振り返らずに言った。


「転び方が上手すぎる」


「上手いのに駄目ですか」


「駄目だ」


オルドは即答した。


「手のつき方が完璧すぎる。頭を守り、背中を逃がし、次の動きへすぐ移れるように転んでいる。あれは負けた者の転び方ではない」


オルドが木剣を肩に乗せた。


「ガレス、お前も大概だが、この子はもっと大概だ」


「俺の子ですから」


「そこを誇るな。いや、誇ってよいが、今は少し困る」


そんな日々が続いた。


レンは、オルドから剣を学んだ。


正確には、剣を隠すことを学んだ。


どう打てば強く見えすぎないか。

どう受ければ不自然に崩れないか。

どこまでなら「筋が良い子供」で済むか。

どこから先は異常に見えるか。


レンには、それが新鮮だった。


前世では、強くなるために学んだ。


相手より早く見て、深く読み、柔らかく制するために学んだ。


だが今世では、弱く見せるために学んでいる。


奇妙な稽古だった。


しかし、意味はある。


オルドはよく言った。


「見せぬ力は、見せる力より扱いが難しいのだろうな」


それは本当だった。


強さは、振るえば伝わる。


だが、隠すには周囲の目を考えなければならない。

相手の理解力を測り、場の空気を読み、噂の広がりまで考える必要がある。


戦場とは別の理がそこにあった。


レンは、それを学び始めていた。


季節は進んだ。


ガレスの傷は少しずつ癒えた。


ミリアはいつも通り、屋敷を穏やかに回していた。


ただ、たまにほんのわずか、息をつく回数が増えた。


階段を上がった後。


長く立って指示を出した後。


ガレスの包帯を替え終えた後。


ミリアはすぐに笑う。


「少し疲れただけよ」


その笑顔は変わらなかった。


だから誰も深く気にしなかった。


レンだけが、時々その呼吸の奥を見ていた。


気のせいかもしれない。


母はもともと無理を表に出さない人だ。


父が怪我をした後で、家のことも、ガレスの看病も、子供たちのことも見ている。

疲れが出るのは当然だった。


そう思うことにした。


けれど、胸の奥に小さな引っかかりだけが残った。


そして、その頃。


リオルが十歳になった。


貴族学校への入学である。






リオル・アルクレイドは、家族の中で一番静かだった。


静かというより、少し世界の見方が違った。


庭でセラが歌っていても、リオルは本を読んでいる。

ガレスが剣の手入れをしていても、リオルは魔法式の写しを見ている。

レンがオルドに転ばされる稽古をしていても、リオルはその横で「転び方にも理論があるのかな」と真顔で呟く。


悪意などのマイナスの感情には鈍い。


だが、興味のあることには異様に鋭い。


魔法理論に関しては、家庭教師のセリウスが何度も頭を抱えた。


「リオル様、これは十三歳以上の基礎理論です」


「でも、前の本にこの図が出ていました」


「出てはいますが、説明はしていません」


「だから気になりました」


「気になった、で読めるものではないのですが」


「ここ、たぶん魔力の流れを二重にしていますよね」


「……しています」


「どうして最初からそう教えないんですか?」


「普通は混乱するからです」


「そうなんですか?」


リオルは、本気で不思議そうに言う。


悪気はない。


悪気はないが、教師の精神にじわじわ来る。


セリウスは何度か天井を見上げた。


「アルクレイド家は、どうなっているのですか」


それは、屋敷に出入りする教師たちが時々漏らす言葉だった。


エリナは魔法剣の才を持つ。


リオルは魔法理論の才を持つ。


セラは音楽に異様な感覚を見せ始めている。


そしてレンは、表向きには魔法適性の低い、剣筋の良い子供である。


表向きには。


本当に、表向きには。


リオルの出発の日。


アルクレイド家の玄関は、また少し落ち着かなかった。


ガレスは、エリナの時よりは泣くまいと決めていた。


決めている時点で、だいぶ怪しい。


「リオル、忘れ物はないか」


「たぶん」


「たぶん?」


リオルは鞄を見た。


中には、服より本の方が多い。


明らかに多い。


ミリアが中を確認し、少し困ったように微笑んだ。


「リオル、本は減らしましょうね」


「でも、移動中に読むかもしれません」


「馬車で揺れると目が疲れるわ」


「じゃあ、休憩の時に」


「その量は休憩では読み終わりません」


レンは横から覗き込んだ。


「兄さま、服が少ないです」


「制服があるから」


「下着も少ないです」


「洗えばいい」


兄は賢い。


賢いが、時々大事なところに穴がある。


知性は高いが抜けている。


ミリアは何冊か本を抜き、代わりに衣類を入れた。


リオルは名残惜しそうに本を見た。


「置いていかなきゃダメ?」


「置いていってちょうだい。王都に図書室があるでしょう」


レンが言うと、リオルの目が少し輝いた。


「そうだった」


単純だった。


ガレスは息子の肩に手を置いた。


「リオル」


「はい」


「困ったことがあれば、すぐ手紙を書け」


「はい」


「飯は食え」


「はい」


「本を読みながら階段を下りるな」


「はい」


「道に迷ったら人に聞け」


「はい」


「変な女にも気をつけろ」


「あなた」


ミリアの声が低くなった。


ガレスは咳払いした。


「いや、男も女も、変な者はいるからな」


「それはそうです」


リオルは素直に頷いた。


「気をつけます」


レンは兄を見上げた。


「兄さま」


「うん?」


「いい人間ばかりではありませんから、少し注意してください。悪意を持って近付く人間もいるかもしれません」


リオルは首をかしげた。


「悪意?」


「はい」


「悪意って、そんなに分かりにくいもの?」


レンは少し黙った。


「兄さまには、かなり」


リオルはさらに首をかしげた。


「そうなんだ」


危ない。


かなり危ない。


レンは真面目に思った。


兄は魔法理論では鋭い。

だが、人の悪意に対しては、感知器が寝ている。


眠りが深すぎる。


エリナがいれば叱っただろう。


リオルが歩きながら本を読むことも、悪意に鈍いことも、荷物に本を入れすぎることも、全部まとめて叱ったはずだ。


そのエリナからは、すでに手紙が届いていた。


リオル宛てだった。


  リオルへ。


  入学おめでとう。

  王都の図書室は広いですが、本を読みながら廊下を歩いてはいけません。

  階段では絶対に本を閉じること。

  人の話を聞く時は、本から目を離すこと。

  何か言われて意味が分からない時は、すぐに返事をせず、少し考えること。

  それでも分からなければ、私に相談しなさい。


  あなたは悪い人ではありませんが、悪い人に気づくのが少し遅いです。

  そこは自覚してください。


  姉より。


リオルはその手紙を読んで、嬉しそうにしていた。


「姉さま、いっぱい書いてくれた」


内容の厳しさは、あまり刺さっていないようだった。


レンは思った。


兄さま、大丈夫だろうか。


かなり不安だった。


セラはリオルの袖を握っていた。


「にいさま、いく?」


「うん。学校」


「うた、きく?」


「帰ったら聞かせて」


「うん!」


セラは元気に頷いた。


そして、すぐにその場で歌おうとした。


「今じゃなくていいよ」


リオルが柔らかく笑う。


「帰ったらね」


セラは少し不満そうにしたが、すぐに笑った。


「じゃあ、かえったら」


ミリアはそんな子供たちを見て、静かに微笑んでいた。


その横顔は、いつも通り優しい。


けれど、リオルの襟元を整える手が、ほんの一瞬だけ止まった。


レンはそれに気づいた。


ミリアはすぐに手を動かす。


「王都は朝晩が少し冷える日もあるから、羽織るものを忘れないでね」


「はい」


リオルを乗せた馬車が門の前に来た。


ガレスは深く息を吸った。


泣かない。


そう顔に書いてあった。


逆に分かりやすい。


「リオル」


「はい」


「胸を張って行け。お前は俺の息子だ」


「はい。行ってきます」


リオルは穏やかに礼をした。


そして馬車に乗る直前、ふと振り返った。


「父さま」


「何だ?」


「姉さまの時も、泣いたの?」


ガレスは固まった。


ミリアが横を向いた。


レンも横を向いた。


セラだけが首をかしげている。


「泣いていない」


ガレスは低く言った。


リオルは不思議そうに頷いた。


「そうなんだ」


信じた。


たぶん、本当に信じた。


レンは思った。


兄さま、それは信じてはいけない。


馬車の扉が閉まり、車輪が動き出す。


リオルは窓から手を振った。


ガレスも手を振る。


ミリアも。


レンも。


セラは両手を振った。


「にいさまー!」


馬車が角を曲がり、見えなくなる。


ガレスはしばらく立っていた。


そして、小さく鼻をすすった。


「父さま」


レンが言う。


「泣いていますか」


「泣いていない」


「はい」


レンはそれ以上言わなかった。


言わない優しさもある。


ただ、ガレスの目は少し赤かった。





リオルが王都の貴族学校へ着いた時、彼はすでに少し有名だった。


本人は何もしていない。


だが、姉がしていた。


エリナ・アルクレイド。


武勲で爵位を得た騎士爵家の娘。


入学当初は、成り上がりの家と陰口を叩かれた。


だが、二年間で、その評価は大きく変わっていた。


剣術では上位。


魔法制御も堅実。


礼法では隙を見せず、筋が違えば教師に対しても毅然と意見をする。


困った生徒がいれば、甘やかしすぎず助ける。

揉め事が起これば、事実を整理する。

相手が高位貴族でも、引かない。


それらが、いくつもの噂になっていた。


白手袋の裁定者。


裏番長。


教師を黙らせた騎士爵令嬢。


剣術で侯爵家の男子を三本取った女。


面倒事を持ち込むと、なぜか解決されるが、自分の非まで明らかにされる恐ろしい人。


噂は盛られる。


必ず盛られる。


人の口は、事実に砂糖やら毒やらをまぶすのが好きらしい。

菓子職人でもないのに余計な味付けをするものだ。


リオルは寮の受付で名を告げた。


「リオル・アルクレイドです」


その瞬間、受付の上級生が顔を上げた。


「ああ、アルクレイド……」


隣の生徒も振り返る。


「エリナ様の弟?」


リオルは穏やかに頷いた。


「はい。姉がお世話になっています」


上級生たちは、少し表情を引き締めた。


リオルは気づかなかった。


普通に荷物を持ち、寮の案内を受けた。


廊下を歩く間、何人かの生徒がこちらを見ていた。


「あれがエリナ様の弟」


「雰囲気は全然違うな」


「柔らかそう」


「でもアルクレイド家だぞ」


「怒らせたら姉が来るのかな」


「やめろ。想像したくない」


リオルはちらりとそちらを見た。


にこりと笑う。


「こんにちは」


生徒たちは少し慌てて礼を返した。


リオルは案内役の上級生に聞いた。


「姉は、人気があるのですか?」


上級生は少し詰まった。


「人気……」


言葉選びに困った顔だった。


「尊敬は、されています」


「そうなんですね」


リオルは嬉しそうに頷いた。


「姉さまはすごいので」


その言い方に、まったく誇張がなかった。


ただ事実として言っている。


案内役の上級生は、少し毒気を抜かれたようだった。


「君は、姉君と似ていないな」


「よく言われます」


「怒らないのか?」


「どうしてですか?」


「いや……」


上級生は黙った。


リオルは本当に分かっていない顔をしていた。


この子は、刺しても刺さったことに気づくのが遅い。


そう思った。


そして同時に、少し安心もした。


エリナの弟と聞いて身構えていたが、リオルは柔らかい。


柔らかすぎて、別の意味で心配になるほどだった。






入学して数日。


リオルは、いじめられなかった。


理由はいくつかある。


まず、姉が怖い。


これは大きかった。


本人の前で言う者はいないが、かなり大きかった。


エリナ・アルクレイドの弟に下手な嫌がらせをすれば、後でどうなるか分からない。


殴られるわけではない。


剣を向けられるわけでもない。


ただ、事実をきれいに整理され、こちらの言い逃れを一つずつ潰される。


それが一番怖い。


暴力なら、泣けば被害者になれる。


だが、筋を通されると逃げ場がない。


エリナを知る生徒たちは、そのことを知っていた。


次に、リオル本人があまりにもほんわかしていた。


少し遠回しな嫌味を言われても、気づかない。


「地方の騎士爵家の方は、王都の広さに驚かれるでしょうね」


「はい。図書室が広くて驚きました」


「……そうですか」


「本の分類が少し不思議でした。魔法理論の基礎棚に応用寄りの本が混ざっています」


「……へえ」


嫌味が返ってこない。


会話が別の方向へ行く。


暖簾に腕押しどころではない。


暖簾ほどの感触も返ってこない。


さらに、リオルは普通に優秀だった。


最初の魔法理論の授業。


教師は、基礎魔法式について説明した。


魔力を自然物へ干渉させる時、どのように流れを安定させるか。


火を動かす。

水を集める。

土を盛る。

風を起こす。


それらの基本である。


教師は水晶板に簡単な式を書いた。


「この式は、土を盛る時に使う基本式です。魔力を一方向へ押し出すのではなく、地中の抵抗を見ながら、均一に圧をかけることが重要です」


リオルは手を挙げた。


「何ですか、リオル・アルクレイド」


「この式だと、地中の水分量が多い場合に崩れやすくなりませんか?」


教室が静かになる。


教師も一瞬止まった。


「……なぜ、そう思いますか」


「魔力の圧が縦方向に偏っているので、水分が多い土だと横に逃げると思います」


リオルは黒板を見る。


「横方向への補助線を入れるなら、ここの式を少し変えた方が安定しそうです」


教師はしばらく黙った。


そして、ゆっくりと頷いた。


「その通りです」


教室がざわつく。


「ただし、それは二年次の内容です」


リオルは少し驚いた。


「そうなんですか」


「そうです」


「すみません」


「謝る必要はありません」


教師は水晶板に追加の式を書いた。


「せっかくなので説明しましょう。今、アルクレイドが言ったのは、土魔法の安定式における横圧補助の考え方です」


その授業の後、リオルを見る目は少し変わった。


エリナの弟だから警戒されていた少年が、ただのほんわかした弟ではないと分かったからだ。


魔法理論ができる。


しかも、かなりできる。


実技ではまだ年相応だった。


だが、理論になると目の色が変わる。


教師の説明の先を読む。

式の抜けに気づく。

魔力の動きを図で考える。


それでいて、威張らない。


「すごいね」と言われると、リオルは首をかしげる。


「まだ分からないことが多いです」


本気で言っている。


だから嫌味にならない。


いや、少しなる。


本人にそのつもりがないだけで。


努力している者からすれば、十分刺さる。


だが、不思議と嫌われにくかった。


リオルは、相手の分からないところを馬鹿にしない。


質問されると、嬉しそうに説明する。


「ここは、魔力を押しているんじゃなくて、土が動きたい方向を探している感じです」


「土が動きたい方向?」


「うん。たぶん」


「たぶん?」


「僕もまだ分からないから、一緒に考えよう」


そう言われると、相手も怒りづらい。


リオルの周りには、少しずつ人が集まり始めた。


本が好きな者。

魔法理論に苦手意識のある者。

エリナに直接相談するのは怖いが、弟ならまだ御しやすいと思った者。


なかなか失礼な理由も混ざっていたが、リオルは気にしなかった。


気づいていないとも言う。






ある日、昼休みにリオルは図書室へ向かった。


王都の貴族学校の図書室は広い。


高い天井。

大きな窓。

壁一面の書架。

魔法式、歴史、地理、礼法、軍事、薬学、魔道具、文学。


リオルは初めて入った日、しばらく入口で立ち尽くした。


「すごい」


それから、図書室に通うようになった。


食後に少し。


授業後に少し。


寮に戻る前に少し。


少し、が積み重なってかなり長い。


ある日、リオルが魔法理論の棚で本を探していると、背後から声がした。


「アルクレイド」


振り返ると、背の高い男子生徒が立っていた。


上級生ではない。


同じ一年生だ。


名はフェリクス・ロア。


子爵家の子で、魔力量が多く、入学当初から少し目立っていた。


少しだけ鼻につく言い方をする少年でもある。


「はい」


リオルは本を抱えたまま返事をした。


フェリクスは腕を組む。


「君、授業でよく発言しているな」


「はい。気になることがあるので」


「教師に目をつけられたいのか?」


リオルは首をかしげた。


「目を?」


「優等生扱いされたいのか、ということだ」


「いえ。分からないところを聞いているだけです」


「分からない?」


フェリクスは少し笑った。


「分からないと言いながら、二年次の内容まで口を出すんだな」


リオルは少し考えた。


「分からないから、考えているんです」


フェリクスは言葉に詰まった。


リオルは本を一冊抜き出した。


「フェリクス様も、魔法理論が好きですか?」


「……嫌いではない」


「じゃあ、この本面白いです。基礎式の成り立ちが載っています」


リオルは普通に本を差し出した。


フェリクスは反射的に受け取った。


攻撃するつもりだった。


少なくとも、少し嫌味を言うつもりだった。


だが、本を渡された。


しかも、おすすめされた。


フェリクスは本を見た。


「これは……」


「少し難しいです。でも、図が分かりやすいです」


「君は読んだのか」


「途中まで」


「途中?」


「面白くて、別の本も読みたくなったので」


「最後まで読め」


フェリクスは思わず言った。


リオルは素直に頷いた。


「そうします」


フェリクスは、自分が何をしているのか分からなくなった。


気がつけば、二人で魔法式の棚を見ていた。


「こっちは?」


「それは、魔道具寄りです」


「読んだのか」


「少し」


「少しばかりだな、君は」


「読みたい本が多いので」


「順番を決めろ」


「なるほど」


その日から、フェリクスは時々リオルと図書室で話すようになった。


本人は友人になったつもりはない。


ただ、リオルの読む本が気になるだけだと思っている。






数日後。


リオルはエリナと廊下で会った。


エリナは三年生になっていた。


背筋は相変わらずまっすぐで、制服の着こなしにも隙がない。


隣には、金髪の令嬢クラリス・ベルフォードがいた。


クラリスはリオルを見るなり、少しだけ目を細めた。


「あなたがリオル様ですのね」


「はい。リオル・アルクレイドです」


リオルは丁寧に礼をした。


クラリスはエリナを見る。


「雰囲気が違いますわね」


「よく言われます」


エリナが答える。


リオルは穏やかに笑った。


「姉さま、学校は楽しそうですね」


エリナの眉が動いた。


「どこを見てそう思いましたか」


「いろんな人が姉さまの話をしています」


「内容は?」


「白手袋の裁定者とか、裏番長とか」


クラリスが口元を扇子で隠した。


肩が少し震えている。


エリナは静かにリオルを見た。


「誰が言っていましたか」


「えっと、何人か」


「名前を覚えていますか」


「たぶん」


「教えなくていいです」


クラリスが横から言った。


「エリナ、抑えて」


「私は何もしていません」


「これからする顔でしたわ」


リオルは不思議そうに二人を見ていた。


「仲がいいんですね」


クラリスとエリナが同時に固まった。


「そう見えますの?」


クラリスが聞く。


「はい」


リオルはにこりと笑った。


「姉さまが、そんなに普通に言い返す相手は家族以外であまり見ないので」


クラリスは一瞬黙り、それから少しだけ頬を赤くした。


「……変なところを見ますのね」


エリナは咳払いした。


「リオル」


「はい」


「学校生活はどうですか」


「図書室が広いです」


「それ以外は?」


「授業も面白いです」


「人間関係は?」


リオルは少し考えた。


「フェリクス様が、本を読む順番を決めろと言ってくれました」


エリナは目を細めた。


「それは友人ですか?」


「たぶん」


「たぶん?」


クラリスが小さく笑った。


「こちらの弟君も、なかなかですわね」


「不安です」


エリナは即答した。


リオルはきょとんとしている。


エリナはため息をついた。


「困ったことがあれば、すぐに言いなさい」


「はい」


「嫌なことを言われた時もです」


「嫌なこと?」


「あなたは気づかない可能性があります」


「レンにも言われました」


「なら本当に気をつけなさい」


エリナは真剣だった。


リオルは素直に頷いた。


「分かりました」


本当に分かっているかは怪しい。


だが、返事は良かった。


エリナはそれ以上言わず、リオルの襟元を少し直した。


「本を読みながら階段を下りていませんね?」


「今のところ」


「今後もです」


「はい」


クラリスが横で小さく呟いた。


「お母様みたいですわ」


「聞こえています」


「聞こえるように言いましたもの」


エリナはクラリスを見た。


クラリスは澄ました顔をしている。


リオルはまた思った。


やっぱり仲がいい。






リオルから家に最初の手紙が届いたのは、入学から十日ほど経ってからだった。


ガレスは封筒を見て、また少し落ち着かなくなった。


「リオルからだ」


「ええ」


ミリアが微笑む。


「読みましょう」


手紙は家族全員宛てだった。


  父さま、母さま、レン、セラへ。


  学校に着きました。

  寮の部屋は思ったより静かです。

  図書室はとても広いです。魔法理論の棚が特に面白いです。

  ただ、基礎と応用の本が少し混ざっている気がします。今度、司書の方に聞いてみます。


  姉さまの噂がたくさんありました。

  白手袋の裁定者とか、裏番長とか呼ばれていました。

  本人に聞いたら少し怖い顔をされたので、たぶんあまり言わない方がよさそうです。


   授業は面白いです。

  魔法式は、家で習っていたものと少し説明の順番が違います。

  先生によって見方が違うのが面白いです。


  フェリクス様という人と図書室で話しました。

  たぶん友達になりました。


   セラへ。

  歌の練習を頑張ってね。帰ったら聞かせてね。


   レンへ。

  悪意に鈍いって姉さまにも言われたよ。

  まだよくわからないけど、気をつけようとは思ってる。

  

  リオル。


ガレスは読み終えて、しばらく黙った。


「リオルらしいな」


「はい」


レンは頷いた。


兄は、どこへ行っても兄だった。


エリナは王都で戦っている。


リオルは王都で本を読んでいる。


同じ学校にいても、二人の歩き方はまるで違う。


だが、どちらもアルクレイド家の子だった。


ガレスは手紙をもう一度見た。


「たぶん友達、か」


「兄さまらしいですね」


「悪意に気をつけようとは思ってる、もな」


「前進です」


「そうか?」


「たぶん」


ガレスは笑った。


ミリアも静かに微笑んでいた。


セラは手紙の意味を全部は分かっていないが、自分の名前が出たところで嬉しそうにしていた。


「うた、きくって!」


「帰ったらね」


ミリアが言う。


「いま、うたう!」


「今も歌うのね」


セラは元気に歌い始めた。


小さな声。


明るく、跳ねるような歌。


その歌が部屋に満ちると、空気が少し柔らかくなった。


ミリアは目を閉じて、その歌を聞いていた。


ほんの一瞬。


先ほどまで少しだけ白かった頬に、薄く色が戻ったように見えた。


レンはそれを見た。


気のせいかもしれない。


だが、セラの声が母の呼吸に触れたように思えた。


「レン?」


ミリアが目を開ける。


「どうしたの?」


「いえ」


レンは小さく首を振った。


「セラの歌が、よく響くと思いまして」


ミリアは微笑んだ。


「そうね。元気になるわ」






リオルが王都へ行き、屋敷はまた少し静かになった。


エリナの声がない。


リオルの本をめくる音もない。


残ったのは、ガレスの剣の音。

ミリアの穏やかな声。

セラの歌。

そして、レンとオルドの奇妙な稽古だった。


「違う」


庭で、オルドが言った。


「今の転び方は上手すぎる」


「昨日より下手に転んだつもりです」


「下手の方向が上手い」


「難しいです」


「難しいのはこっちだ」


レンは土の上に座り、少し考えた。


「先生」


「何だ」


「普通の七歳は、どのくらい転ぶのでしょうか」


「普通の七歳は、そんなことを分析しない」


「なるほど」


「納得するな」


オルドはため息をついた。


ガレスは少し離れた場所で見ている。


今では傷もだいぶ癒え、軽い素振りくらいは許されるようになっていた。


ただし、ミリアの目がある時は無茶をしない。


ない時も、レンが見る。


つまり、結局無茶はできない。


ガレスにとっては不自由な日々だった。


だが、悪くはなかった。


庭にセラの歌が聞こえる。


屋敷の中ではミリアが手紙を整えている。


王都にはエリナとリオルがいる。


家族は少しずつ、それぞれの場所へ進んでいる。


レンもまた、進んでいた。


強くなるためではない。


強さを隠すために。


守るために。


そしていつか、自分が本当に探すべき人を見つけるために。


レンは木剣を握り直した。


オルドが構える。


「もう一度だ」


「はい」


木剣が振られる。


レンは受け損ねたふりをし、今度は少し不格好に尻もちをついた。


オルドが目を細める。


「今のは少し良い」


「ありがとうございます」


「こかされて礼を言うのもなおかしなものだ」


ガレスが笑った。


セラの歌が、遠くから重なる。


その穏やかな日々の中で、アルクレイド家の噂は、王都の貴族学校で少しずつ大きくなっていった。


長女は、怖いほど筋を通す。


長男は、柔らかい顔で魔法理論を読み解く。


では、次男はどうなのか。


その問いが生まれるのは、まだ少し先のことだった。

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