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達人転生 ~理を知る達人は転生チートなんか必要ない~  作者: まつすけ


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4/13

第四話 力の露見と大きな秘密

レン・アルクレイドが七歳になった夏、事件が起きた。


その日、ガレスは王都からの帰路にあった。


王都での軍務報告と、騎士団の小会議を終え、数名の部下とともに地方都市ルミリアへ戻る途中だった。

同行していたのは、レンと剣神オルド・グランツ。


本来、レンが同行する予定はなかった。


だが、王都の鍛冶師に木剣の調整を頼む用事があり、オルドが「見せておいてもよい」と言ったことで、急きょ同行することになった。


帰り道は、王都とルミリアを結ぶ街道だった。


片側には低い森。

もう片側には、緩やかな斜面。

道幅は広く、普段なら商隊や旅人も多い。


だが、その日は少し様子が違った。


空は重く曇り、湿った風が森の奥から流れてくる。

夏の午後だというのに、妙に鳥の声が少ない。


レンは馬上で、森を見ていた。


木々の揺れ。

風の抜け方。

枝の折れ方。

土の匂い。


何かがいる。


獣だ。


ただし、普通の獣ではない。


湿った毛の匂い。

古い血の匂い。

土を掘った爪の跡。

そして、わずかな魔力の乱れ。


レンは顔を上げた。


森の奥。


小動物の気配が、急に消えた。


「父さま」


レンが声をかける。


「ん?どうした?」


「止まった方がよろしいかと」


ガレスは迷わなかった。


すぐに手綱を引く。


「全員、止まれ」


同行していた騎士たちが馬を止めた。


若い騎士の一人が、少しだけ不思議そうな顔をした。

七歳の子供の言葉である。

普通なら、そこまで真に受ける必要はない。


だが、ガレスは止まった。


父としては大らかで、騎士としては豪快な男だが、こういうところで妙に勘がいい。


いや、勘ではない。


息子の言葉を信じたのだ。


「レン、何がある?」


レンは森を見た。


「獣の気配です。ただ、普通ではありません」


その直後だった。


森の中から、悲鳴のような鳴き声が上がった。


猿の声に似ていた。


だが、もっと低い。もっと太い。


人の怒号にも、獣の絶叫にも聞こえる、不快な音。


騎士たちの顔が変わった。


オルドが静かに腰の剣へ手を置く。


「キラーエイプだ」


キラーエイプ。


森や山岳地帯に棲む、猿型の魔物である。


成人男性より大きな体。

長い腕。

鋭い牙。

発達した握力。

獣としては高い知能。


ただし、単体なら騎士数人で対処できる。

通常種であれば、訓練された騎士五、六人で囲めば倒せる程度の魔物だ。


厄介なのは、群れで動くこと。


そして、人を恐れすぎないこと。


ガレスは即座に剣を抜いた。


「全員、陣形を取れ!馬を下げろ!」


騎士たちが素早く動いた。


その判断は正しかった。


直後、森から黒い影が飛び出した。


一体ではない。


三体。

五体。

八体。


木々の間を跳び、枝を蹴り、地面を抉りながら、キラーエイプの群れが街道へ雪崩れ込んでくる。


通常種とはいえ、数が多い。


馬が怯えて嘶いた。


ガレスが前に出る。


「押し返せ!」


剣に魔力が走った。


大きな一撃。


先頭のキラーエイプが、胸を裂かれ、横へ吹き飛んだ。


続く二体が左右から襲いかかる。


ガレスは片方を剣で弾き、もう片方を盾で叩き返した。


強い。


父の剣は、やはり大きい。


真っすぐで、迷いがない。


オルドはそれとは対照的だった。


音もなく前へ出て、淡い魔力を帯びた剣でキラーエイプの腕を斬り、脚を払う。

殺す必要のない個体は動けなくする。

襲撃の勢いを削ぎ、騎士たちが処理しやすい形に崩していく。


剣神の名は飾りではない。


通常種の群れだけなら、問題はなかった。


ガレスとオルドがいれば、騎士たちは持ちこたえられる。


だが、森の奥にいたものは、通常種ではなかった。


レンはその気配に気づいていた。


他に比べてはるかに大きく、重い。


そして、静かすぎる。


普通のキラーエイプは騒ぐ。

怒り、吠え、威嚇し、獲物を追う。


だが、森の奥にいるそれは違った。


群れを前に出し、自分は見ている。


こちらの動きを。


ガレスの剣を。

オルドの立ち位置を。

騎士たちの癖を。


まるで、戦場を測っているように。


レンの背に、小さな冷たさが走った。


「先生」


オルドも気づいていた。


「分かっている」


低い声だった。


森の奥。


木々が、ゆっくりと揺れた。


それは、現れた。


通常のキラーエイプより一回り大きい、どころではなかった。


背丈は大人二人分に近い。

腕は太く、膝近くまで届く。

肩は岩のように盛り上がり、黒い毛の下で筋肉がうねっている。


額には白い傷跡。

片目の周囲だけ毛が抜け、赤黒い皮膚が見えていた。


そして、目。


ただ狂っている獣の目ではない。


考えている。


選んでいる。


殺す順番を。


若い騎士が、震えた声で呟いた。


「ユニーク種……」


ユニーク種。


魔物の中に、ごくまれに生まれる異常個体。


体格、知能、生命力、魔力耐性、すべてが通常種を大きく上回る。

一般には、通常種の五倍から十倍の危険度とされている。


だが、それは机上の分類にすぎない。


実際には個体差が大きい。


目の前のそれは、五倍や十倍という言葉では足りなかった。


ガレスが小さく息を吐いた。


「……先生」


「前を任せてもよいか」


オルドが言った。


「わしは群れを散らす」


ガレスは頷く。


「大丈夫です」


本来なら、ユニーク種にはオルドが当たるべきだった。


だが、群れが多い。


通常種が十数体。

森の奥には、まだ何体か気配がある。


ここでオルドがユニーク種に集中すれば、周囲の騎士たちが崩れる。

騎士たちが崩れれば、馬も荷も、そしてレンも巻き込まれる。


オルドは群れを処理するしかない。


ガレスがユニーク種の前に立った。


「レン、下がっていろ」


「はい」


レンは素直に下がった。


ただし、目は離さない。


ユニーク種は、ガレスを見た。


ニタリと口角を上げた。


笑った。


そう見えた。


次の瞬間、ユニーク種の右腕が消えた。


速い。


ガレスは盾を上げた。


轟音。


盾がひしゃげた。


ガレスの身体が大きく後方へ弾かれる。


「父さま!」


レンが一歩踏み出しかける。


ガレスは地面を滑りながらも、倒れなかった。


足を開き、剣を地面に突き、無理やり止まる。


「問題ない!」


声は強い。


だが、レンには分かった。


左腕が痺れている。

肩にも入っている。

盾越しに受けた衝撃が、肋骨まで響いている。


ギリギリだった。


今の一撃。


まともに食らえば、ガレスは危なかった。


ユニーク種が吠えた。


空気が震える。


周囲の通常種が、その声に反応して一斉に動いた。


群れが騎士たちへ襲いかかる。


オルドが剣を走らせた。


一体の脚を斬り、もう一体の腕を落とし、三体目の喉元へ柄を叩き込む。

剣神は強い。


だが、数が多い。


騎士たちも必死に応戦する。


レンは動けなかった。


いや、動かないでいた。


まだ、父が立っている。


オルドも対応している。


自分が出れば、隠してきたものは終わる。


父も、騎士たちも、全員が見る。


王宮へ報告される可能性もある。

魔導院に目をつけられる可能性もある。

軍の者が利用しようとするかもしれない。


七歳の子供としての平穏は、終わる。


だから、まだ。


レンは息を沈めた。


見極める。


ガレスは盾を捨てた。


左腕が使いづらいのだ。


両手剣を片手で構え、右足を半歩引く。


ユニーク種が地面を叩いた。


土が弾ける。


魔力が動いた。


キラーエイプは通常、魔法を使わない。

魔力を帯びた個体はいても、攻撃魔法を組み上げるほどの知能はない。


だが、この個体は違った。


地面が盛り上がり、石の槍が三本、ガレスへ向かって突き上がる。


中級土魔法。


発動は粗い。

だが、威力は十分。


ガレスは一歩で避け、一本を剣で叩き割った。


二本目が脇腹を掠める。


鎧が裂けた。


赤い線が走る。


三本目をかわした瞬間、ユニーク種が踏み込んだ。


魔法は囮。


本命は腕。


ガレスは剣を合わせた。


だが、体勢が悪い。


衝撃。


ガレスの身体が横へ飛ばされた。


木に背中から叩きつけられる。


「ぐっ……!」


初めて、父の声が詰まった。


レンの中で、何かが静かに切れた。


派手な怒りではなかった。


叫びもない。

震えもない。

表情も変わらない。


ただ、音が消えた。


森の騒音。

猿の叫び。

剣戟。

騎士たちの怒号。


すべてが遠くなった。


父が傷ついた。


それだけが、はっきりとあった。


オルドがこちらを見た。


「レン、待て!逃げろ!」


その声は届いた。


だが、止まらなかった。


レンは歩き出した。


走らない。


木剣を握るでもない。


ただ、ゆっくりと歩く。


七歳の子供が、キラーエイプのユニーク種へ向かって歩いていく。


若い騎士が叫んだ。


「レン様、下がってください!」


レンは聞いていない。


いや、聞いている。


だが、今は優先順位が違う。


ユニーク種がレンを見た。


獲物を見る目だった。


小さい。弱い。柔らかい。

壊しやすい。遊べそう。


そう判断したのだろう。


ユニーク種は口を開き、牙を見せた。


次の瞬間、石が飛んだ。


土魔法で弾かれた石の弾丸。


中級には届かないが、人の頭蓋を砕くには十分な威力。


レンは避けなかった。


歩いたまま。


石が額に届く寸前、レンの身体がわずかに震えた。


そう見えた。


本当に震えただけに見えた。


だが、石はレンの額に当たらなかった。


触れる直前、進行方向が変わった。


石はレンの髪をかすめることもなく、横へ逸れ、背後の木に突き刺さる。


ユニーク種の目がわずかに動いた。


レンは歩く。


二発目。


三発目。


石の弾丸が連続で飛ぶ。


レンは歩く。


肩がわずかに揺れる。

胸が静かに沈む。

背骨が、ごく小さく波打つ。


それだけ。


石はすべて逸れた。


弾かれたのではない。

防がれたのでもない。


触れた瞬間、力の行き先が変わっていた。


まるで、石が自らレンを避けているように。


ユニーク種が吠えた。


今度は風。


枝葉が渦を巻き、圧縮された風の刃がレンへ向かう。


魔法の形は粗い。


だが、威力は中級に近い。


七歳の子供なら、身体が上下に分かれる。


レンは右手を上げた。


受けない。


払わない。


指先が風に触れる。


風刃の縁に、ほんの少しだけ触れる。


その瞬間、風は二つに割れた。


レンの左右を抜け、背後の土を削る。


レンの服の裾だけが、少し揺れた。


オルドはそれを見て、息を呑んだ。


「……馬鹿な」


剣神が、初めて言葉を失った。


ガレスは木にもたれながら、目を見開いていた。


「レン……?」


レンは歩き続ける。


ユニーク種との距離が縮まる。


十歩。


八歩。


六歩。


ユニーク種は、初めて後ろへ下がった。


ほんの半歩。


だが、下がった。


それは恐怖だった。


知能があるからこそ、理解した。


目の前の小さなものは、獲物ではない。


石が当たらない。

風が斬れない。

威嚇が効かない。

殺気を向けても乱れない。


何をしても歩いてくる。


ただ、歩いてくる。


怒鳴らず。

構えず。

走らず。

逃げず。


それが、何より怖かった。


ユニーク種は両腕を地面へ叩きつけた。


土が爆ぜる。


足元から石の槍が何本も生える。


レンの周囲を囲むように。


中級土魔法。


逃げ場を潰し、串刺しにする魔法。


レンは足を止めなかった。


ユニーク種は両腕を地面へ叩きつけた。


土が爆ぜる。


足元から石の槍が何本も生える。


レンの周囲を囲むように。


中級土魔法。


逃げ場を潰し、串刺しにする魔法。


レンは足を止めなかった。


一本目の石槍が、レンの右足の前に生えた。


だが、そこにレンの足はもうなかった。


歩幅を、ほんの指一本分だけ短くしていた。


石槍は、空を突いた。


二本目は、左の脇腹を狙って斜めに伸びる。


レンは避けようとはしない。


ただ、次の一歩を半拍遅らせた。


石槍は、通るはずだった場所を通り過ぎる。


服の端すら裂けない。


三本目は、足元から真上に突き上がった。


レンは、その直前に重心を右へ落としていた。


見た目には、少し体が揺れただけ。


だが、その小さな揺れで、石槍の先端はレンの膝の外をかすめて抜けた。


四本目。


五本目。


六本目。


石槍は次々と生える。


地面が割れ、土が跳ね、鋭い石の先端がレンを貫こうとする。


だが、当たらない。


レンは跳ばない。

走らない。

大きく身をひねらない。


ただ、歩いている。


歩く速さを、ほんの少し変える。

足を置く場所を、半歩にも満たないほどずらす。

肩を薄く引く。

腰をわずかに沈める。

視線を落とさず、呼吸も乱さない。


それだけで、石槍はすべて空を突いた。


ユニーク種が吠えた。


今度は、レンの進路そのものを塞ぐように、太い石柱が斜めに突き出す。


これは避けるだけでは進めない。


レンは初めて、右手を出した。


手のひらではない。


指の背。


石柱の側面に、軽く触れる。


触れた瞬間、レンは足裏から腰へ力を落とし、石柱の伸びる力とは逆ではなく、斜め下へわずかに流した。


ぱき、と乾いた音がした。


石柱の根元に亀裂が入り、伸びきる前に砕けた。


破片が散る。


レンの頬の横を、小さな石片が飛ぶ。


それにも当たらない。


ほんの少し首を傾けただけで、石片は後ろへ抜けた。


騎士の一人が、呆然と呟いた。


「避けている……のか?」


違う。


避けているというより、そこにいない。


魔法が狙った瞬間には、レンはまだそこにいる。

だが、石槍が届く瞬間には、もういない。


大きな動きではない。


誰の目にも、レンはただゆっくり歩いているようにしか見えなかった。


なのに、届かない。


石も、土も、魔法も。


ユニーク種の呼吸が乱れた。


獣の本能が告げている。


これは、獲物ではない。


獣の本能が告げている。


近づけるな。


獣の本能が告げている。


これは危険なものだ。


だが、レンはもう近い。


ユニーク種は最後の手段に出た。


両腕を振り上げ、全体重を乗せて叩き潰そうとする。


魔法ではない。


肉体。


通常種の数倍の筋力を持つユニーク種の、単純な暴力。


地面ごと砕く一撃。


それがレンへ落ちる。


オルドが動きかける。


ガレスが叫ぶ。


「レン!」


レンは上を見た。


そして、右手を伸ばした。


小さな手。


七歳の子供の手。


その手が、ユニーク種の巨大な手首に触れた。


次の瞬間。


轟音。


地面が砕けた。


だが、レンは潰れていなかった。


ユニーク種の腕は、レンの横へ流れていた。


落ちた力が、斜めに逸れ、地面を抉っている。


レンはその腕に沿って、すっと前に出た。


ユニーク種の懐。


巨体の内側。


最も力が入りにくい場所。


レンは左手でユニーク種の胸に触れた。


軽く。


本当に軽く。


押してすらいない。


だが、ユニーク種の身体が硬直した。


呼吸が止まる。


重心が浮く。


全身の筋肉が、自分の意思とは違う方向へ引かれた。


レンは低く言った。


「父に」


声は静かだった。


「触れるな」


七歳の声だった。


だが、その奥にあるものは、七歳ではなかった。


ユニーク種が初めて、明確に怯えた。


牙を剥く。


爪を振る。


だが、もう遅い。


レンは一歩、足を置いた。


ユニーク種の右足の外側。


逃げ道を塞ぐ位置。


同時に、胸に触れていた手をわずかに下げる。


肋骨の動き。

横隔膜。

重心。

背骨の張り。

肩甲骨の開き。

首の角度。


すべてを見る。


すべて繋げる。


そして、切る。


刃ではない。


命ではない。


力の道を。


ユニーク種の巨体が、崩れた。


膝から落ちる。


地面が揺れる。


ユニーク種は立ち上がろうとした。


立てない。


腕に力が入らない。

脚に力が入らない。

呼吸が噛み合わない。


レンは、その首筋に指を添えた。


殺すことはできた。


簡単だった。


この角度なら、頸椎も、血管も、呼吸も断てる。


だが、レンは一瞬だけ父を見た。


ガレスは傷ついている。

だが、生きている。


怒りはある。


静かな怒り。


七歳の身体に引かれた、少し幼い怒り。


前世の玄斎なら、もっと平らでいられただろう。


だが今のレンは、完全には抑えきれなかった。


父を傷つけられた。


それが、胸の奥で熱になっている。


レンは目を閉じた。


一呼吸。


二呼吸。


そして、指の位置を変えた。


殺す点ではなく、落とす点へ。


首筋の奥。


神経の束。


呼吸と意識の境。


レンの指が、そこへ沈んだ。


ユニーク種の目が見開かれる。


次の瞬間、巨体から力が抜けた。


キラーエイプのユニーク種は、地面へ倒れた。


死んではいない。


だが、完全に意識を失っていた。


森が、静まり返った。


通常種たちも止まった。


群れの王が倒れた。


しかも、殺し合いではない。


圧倒された。


理解できる知能を持つ個体ほど、その意味を悟った。


オルドが一体を斬り伏せる。


ガレスの部下たちが残りを牽制する。


通常種たちは、次々に森へ逃げ始めた。


「追うな!」


オルドが叫んだ。


「深追いするな!負傷者を確認しろ!」


騎士たちは我に返った。


何人かが膝をつく。

何人かが、まだ剣を構えたまま震えている。


レンは倒れたユニーク種の横に立っていた。


木剣は抜いていない。


服には土がついている。

髪が少し乱れている。


それだけだった。


ガレスが木にもたれながら、レンを見ていた。


「レン……」


レンはすぐに父の方へ歩いた。


先ほどまでユニーク種を追い詰めていた歩みとは違う。


子供の足取りだった。


少し早足で、父のもとへ向かう。


「父さま」


ガレスの脇腹から血が滲んでいた。

左肩もおそらく痛めている。

背中を木に打った衝撃で、呼吸も浅い。


重傷ではない。


だが、軽傷でもない。


「動かないでください」


レンは父の前に膝をついた。


「大丈夫だ」


「大丈夫ではありません」


レンの声が、少しだけ強かった。


ガレスは驚いた顔をした。


レン自身も、自分の声に気づいた。


感情が乗っている。


少しだけ。


だが、乗っていた。


「……申し訳ありません」


レンはすぐに頭を下げた。


ガレスは、痛みをこらえながら笑った。


「なぜお前が謝る」


「声が荒れました」


「荒れたうちに入らん」


ガレスはレンの頭へ手を伸ばそうとして、左肩の痛みに顔をしかめた。


レンはその手を支えた。


「無理をしないでください」


「それは俺の台詞だ」


ガレスは、ようやくレンの顔を正面から見た。


いつもの息子の顔だった。


七歳の少年。


穏やかで、落ち着いていて、少し大人びている。


だが、先ほど見たものは何だった。


石を逸らし、風を割り、魔法をいなし、ユニーク種の巨体を触れるだけで崩した。


あれを、何と呼べばいい。


ガレスは言葉を探した。


だが、出てこなかった。


そこへ、オルドが近づいてきた。


彼は血を浴びていたが、そのほとんどはキラーエイプのものだった。

ただ、右腕に浅い裂傷がある。

通常種の爪を受けたのだろう。


オルドは倒れたユニーク種を見た。


そしてレンを見た。


長い沈黙。


やがて、彼は低く言った。


「殺しておらんな」


「はい」


「殺せたな」


「はい」


ガレスが息を呑んだ。


レンは隠さなかった。


もう、この二人には無意味だった。


オルドはさらに聞いた。


「なぜ殺さなかった」


レンは少しだけ視線を落とした。


「父さまが生きておられたので」


オルドの目が細くなる。


「もし、死んでいたら?」


その問いに、周囲の空気が凍った。


レンは答えなかった。


いや、答えられなかった。


今の自分なら、どうしただろう。


前世の玄斎なら、必要な処置をした。

怒りで技を変えるようなことは、晩年にはほとんどなかった。


だが今のレンは七歳だ。


身体が若い。


血が熱い。


守るものへの執着が、思ったより強い。


父が死んでいたら。


レンは、ユニーク種を殺したかもしれない。


必要だからではなく、怒りで。


その可能性があった。


レンは静かに頭を下げた。


「分かりません」


それは、正直な答えだった。


オルドはしばらくレンを見ていた。


「そうか」


それだけ言った。


責めなかった。


ただ、見ていた。


ガレスが口を開いた。


「レン」


「はい」


「お前は……何だ?」


その言葉に、恐れの色はなかった。


だが、混乱はあった。


当然だった。


父の知る息子は、魔法が苦手な、剣の筋が良い七歳の子供だった。


だが、今見たものは違う。


通常種なら騎士五、六人で倒すキラーエイプ。

しかも魔法まで使う異常個体。


それを、レンは一人で倒した。


傷ひとつなく。


圧勝で。


レンは父を見た。


いつかは、こうなると思っていた。


隠し続けるつもりはなかった。

だが、言うべき時を選びたかった。


今がその時かどうかは分からない。


けれど、父は見た。


オルドも見た。

騎士たちも見た。


もう、ただの「筋のいい子供」では済まない。


レンは静かに頭を下げた。


「私は、レン・アルクレイドです」


ガレスは眉を寄せた。


「それは知っている」


「父さまと母さまの子です」


ガレスは黙った。


「姉さまの弟で、リオル兄さまの弟で、セラの兄です」


レンは続けた。


「それ以上のことは、今は上手く言えません」


森に、重い沈黙が落ちた。


遠くで、逃げていくキラーエイプの声がかすかに聞こえた。


オルドが、騎士たちを振り返る。


「今見たことは、ここだけに留めろ」


若い騎士が息を呑んだ。


「しかし、剣神殿」


「報告には、キラーエイプの群れ、およびユニーク種に遭遇。ガレスが負傷。わしと部隊でこれを撃退した、と書け」


「ですが、あのユニーク種は……」


「この子を王宮へ差し出したいか」


騎士は黙った。


オルドの声は冷たかった。


「魔導院へ渡したいか。軍の秘匿戦力として扱わせたいか。貴族どもの好奇の目に晒したいか」


誰も答えなかった。


オルドはさらに言った。


「今日ここで見たものを外へ漏らすなら、その者はわしの剣を敵に回すと思え」


静かな言葉だった。


だが、誰も冗談とは思わなかった。


剣神オルド・グランツ。


その名には、それだけの重みがある。


騎士たちは一人ずつ頷いた。


ガレスはレンを見つめていた。


まだ混乱している。

だが、少しずつ表情が変わっていく。


恐れではない。


理解でもない。


父親の顔だった。


「レン」


「はい」


ガレスは痛む身体を押して、レンへ手を伸ばした。


今度はレンが支えた。


ガレスはその手で、息子の頭を撫でた。


「助けてくれて、ありがとう」


レンの胸が、わずかに詰まった。


「……はい」


「だが」


ガレスの声が少し低くなる。


「二度と、あんな顔をするな」


レンは目を上げた。


「顔、ですか」


「ああ」


ガレスは苦笑した。


「怖かったぞ」


レンは黙った。


父を傷つけられて、静かに怒った。


自分では抑えていたつもりだった。


だが、父には見えていた。


「申し訳ありません」


「謝れとは言っていない」


ガレスは、痛みに顔をしかめながらも笑った。


「ただ、覚えておけ。怒ってもいい。家族を傷つけられて怒るなとは言わん」


レンは何も言わなかった。


「だが、怒りに持っていかれるな」


それは、父の言葉だった。


武の達人への言葉ではない。


七歳の息子への言葉。


レンは深く頭を下げた。


「はい」


オルドがその様子を見て、少しだけ目を伏せた。


そして、静かに言った。


「ガレス」


「はい」


「この子は、お前の子だ」


ガレスはレンの頭に手を置いたまま頷いた。


「もちろんです」


「それを忘れるな」


「忘れません」


ガレスは、今度ははっきりと言った。


「レンは、俺の子です」


その言葉で、レンの中にあった緊張が少しだけ解けた。


父に知られた。


剣神に知られた。


自分が異質なものとして見られるかもしれない。

恐れられるかもしれない。

遠ざけられるかもしれない。


その不安はあった。


だが、父の手は変わらなかった。


少し大きく、少し不器用で、少し熱い。


父の手だった。


それだけで、十分だった。


その後、騎士たちは負傷者の手当てと魔物の確認に追われた。


通常種のキラーエイプは数体を討伐。

何体かは逃走。

ユニーク種は拘束するには危険すぎたため、オルドの判断でその場で処分された。


ただし、処分したのはオルドだった。


報告書にもそう記される。


レンはその時、少し離れた場所にいた。


父の傷に布を当て、呼吸を整えさせていた。


治癒はできない。


だが、応急処置ならできる。

血の流れを見て、圧をかける場所を選ぶ。

痛みで乱れた呼吸を落ち着かせる。

無駄な力を抜かせる。


ガレスは不思議そうに言った。


「楽になるな」


「強く押していませんので」


「押した方が効きそうだが」


「父さまは何でも強くすればよいと思いすぎです」


ガレスは少し笑った。


「エリナみたいなことを言う」


「姉さまの方がもっと厳しいです」


「違いない」


そう言って笑った父の顔は、少し青かった。


レンはその顔を見て、胸の奥に残っていた怒りが別のものへ変わるのを感じた。


恐れ。


父を失うかもしれなかった恐れ。


前世で多くを見送った。

妻も見送った。

弟子も見送った。

友も見送った。


それでも、今世で家族を失うことに慣れるわけではない。


慣れてたまるか。


そう思った。


レンは父の傷口を押さえながら、静かに息をした。


この世界で、自分はまだ子供だ。


だが、守りたいものはもうある。


父。母。姉。兄。妹。


そして、いつか会うかもしれない、前世の妻だった魂。


守れるものには限りがある。


それを知っている。


だからこそ、届く場所には手を伸ばす。


たとえ、それで自分の異常性が露見するとしても。


ルミリアへ戻った後、ガレスとオルドは屋敷の書斎で長く話し合った。


ミリアにも、最低限のことは伝えられた。


キラーエイプの群れに襲われたこと。

ガレスが負傷したこと。

レンが助けたこと。


ただし、どこまで助けたのかは、言葉を選んだ。


ミリアはレンの顔を見て、すぐに分かったようだった。


「レン」


「はい」


「怪我は?」


「ありません」


「本当に?」


「はい」


ミリアは、レンを抱きしめた。


「よかった」


その声は、父と同じだった。


すごいことをしたからではない。


異常な力を見せたからでもない。


無事だったから。


それを喜んでいる。


レンは、母の腕の中で目を閉じた。


前世で世界最大門派の始祖だった男は、今世で七歳の子供として、母に抱きしめられていた。


少し情けないような、心地よいような、不思議な気分だった。


その夜。


オルドはレンを庭へ呼んだ。


月のない夜だった。


庭の砂利が、足元でかすかに鳴る。


オルドは腰に剣を差していた。


抜くつもりはない。


ただ、剣士として立っていた。


「レン」


「はい」


「今日から、お前への稽古を変える」


レンは静かに頷いた。


「はい」


「隠す稽古だ」


「隠す」


「そうだ」


オルドは言った。


「お前は強い。おそらく、わしよりも遥かに」


レンは何も言わなかった。


「だが、強いことと、生きやすいことは違う。お前の力が広まれば、必ず利用しようとする者が現れる」


夜の空気が冷たい。


「だから、覚えろ。勝つことではなく、勝ったと悟らせぬことを」


レンは頷いた。


「はい」


「そして」


オルドは木剣を一本、レンへ投げた。


レンは受け取る。


「負ける稽古をする」


「負ける稽古」


「そうだ。七歳児らしく、きちんと転べ」


レンは瞬きをした。


「転ぶ」


「お前は転ばなさすぎる」


「……はい」


「負けた時に、負けたように見えぬ者は目立つ。勝った時より目立つ」


確かにそうだ。


レンは木剣を握った。


オルドも木剣を持つ。


「始めるぞ」


「はい」


「まずは、わしに打たれて尻もちをつけ」


「はい」


「ただし、自然にだ」


「……難しいですね」


「お前に勝つより難しそうだな」


オルドは少し笑った。


レンも、ほんの少しだけ笑った。


七歳の夏。


レン・アルクレイドの異常性は、ついに父と剣神の前に露見した。


だがそれは、英雄の誕生ではなかった。


一人の子供を、人として守るための秘密の始まりだった。

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