第四話 力の露見と大きな秘密
レン・アルクレイドが七歳になった夏、事件が起きた。
その日、ガレスは王都からの帰路にあった。
王都での軍務報告と、騎士団の小会議を終え、数名の部下とともに地方都市ルミリアへ戻る途中だった。
同行していたのは、レンと剣神オルド・グランツ。
本来、レンが同行する予定はなかった。
だが、王都の鍛冶師に木剣の調整を頼む用事があり、オルドが「見せておいてもよい」と言ったことで、急きょ同行することになった。
帰り道は、王都とルミリアを結ぶ街道だった。
片側には低い森。
もう片側には、緩やかな斜面。
道幅は広く、普段なら商隊や旅人も多い。
だが、その日は少し様子が違った。
空は重く曇り、湿った風が森の奥から流れてくる。
夏の午後だというのに、妙に鳥の声が少ない。
レンは馬上で、森を見ていた。
木々の揺れ。
風の抜け方。
枝の折れ方。
土の匂い。
何かがいる。
獣だ。
ただし、普通の獣ではない。
湿った毛の匂い。
古い血の匂い。
土を掘った爪の跡。
そして、わずかな魔力の乱れ。
レンは顔を上げた。
森の奥。
小動物の気配が、急に消えた。
「父さま」
レンが声をかける。
「ん?どうした?」
「止まった方がよろしいかと」
ガレスは迷わなかった。
すぐに手綱を引く。
「全員、止まれ」
同行していた騎士たちが馬を止めた。
若い騎士の一人が、少しだけ不思議そうな顔をした。
七歳の子供の言葉である。
普通なら、そこまで真に受ける必要はない。
だが、ガレスは止まった。
父としては大らかで、騎士としては豪快な男だが、こういうところで妙に勘がいい。
いや、勘ではない。
息子の言葉を信じたのだ。
「レン、何がある?」
レンは森を見た。
「獣の気配です。ただ、普通ではありません」
その直後だった。
森の中から、悲鳴のような鳴き声が上がった。
猿の声に似ていた。
だが、もっと低い。もっと太い。
人の怒号にも、獣の絶叫にも聞こえる、不快な音。
騎士たちの顔が変わった。
オルドが静かに腰の剣へ手を置く。
「キラーエイプだ」
キラーエイプ。
森や山岳地帯に棲む、猿型の魔物である。
成人男性より大きな体。
長い腕。
鋭い牙。
発達した握力。
獣としては高い知能。
ただし、単体なら騎士数人で対処できる。
通常種であれば、訓練された騎士五、六人で囲めば倒せる程度の魔物だ。
厄介なのは、群れで動くこと。
そして、人を恐れすぎないこと。
ガレスは即座に剣を抜いた。
「全員、陣形を取れ!馬を下げろ!」
騎士たちが素早く動いた。
その判断は正しかった。
直後、森から黒い影が飛び出した。
一体ではない。
三体。
五体。
八体。
木々の間を跳び、枝を蹴り、地面を抉りながら、キラーエイプの群れが街道へ雪崩れ込んでくる。
通常種とはいえ、数が多い。
馬が怯えて嘶いた。
ガレスが前に出る。
「押し返せ!」
剣に魔力が走った。
大きな一撃。
先頭のキラーエイプが、胸を裂かれ、横へ吹き飛んだ。
続く二体が左右から襲いかかる。
ガレスは片方を剣で弾き、もう片方を盾で叩き返した。
強い。
父の剣は、やはり大きい。
真っすぐで、迷いがない。
オルドはそれとは対照的だった。
音もなく前へ出て、淡い魔力を帯びた剣でキラーエイプの腕を斬り、脚を払う。
殺す必要のない個体は動けなくする。
襲撃の勢いを削ぎ、騎士たちが処理しやすい形に崩していく。
剣神の名は飾りではない。
通常種の群れだけなら、問題はなかった。
ガレスとオルドがいれば、騎士たちは持ちこたえられる。
だが、森の奥にいたものは、通常種ではなかった。
レンはその気配に気づいていた。
他に比べてはるかに大きく、重い。
そして、静かすぎる。
普通のキラーエイプは騒ぐ。
怒り、吠え、威嚇し、獲物を追う。
だが、森の奥にいるそれは違った。
群れを前に出し、自分は見ている。
こちらの動きを。
ガレスの剣を。
オルドの立ち位置を。
騎士たちの癖を。
まるで、戦場を測っているように。
レンの背に、小さな冷たさが走った。
「先生」
オルドも気づいていた。
「分かっている」
低い声だった。
森の奥。
木々が、ゆっくりと揺れた。
それは、現れた。
通常のキラーエイプより一回り大きい、どころではなかった。
背丈は大人二人分に近い。
腕は太く、膝近くまで届く。
肩は岩のように盛り上がり、黒い毛の下で筋肉がうねっている。
額には白い傷跡。
片目の周囲だけ毛が抜け、赤黒い皮膚が見えていた。
そして、目。
ただ狂っている獣の目ではない。
考えている。
選んでいる。
殺す順番を。
若い騎士が、震えた声で呟いた。
「ユニーク種……」
ユニーク種。
魔物の中に、ごくまれに生まれる異常個体。
体格、知能、生命力、魔力耐性、すべてが通常種を大きく上回る。
一般には、通常種の五倍から十倍の危険度とされている。
だが、それは机上の分類にすぎない。
実際には個体差が大きい。
目の前のそれは、五倍や十倍という言葉では足りなかった。
ガレスが小さく息を吐いた。
「……先生」
「前を任せてもよいか」
オルドが言った。
「わしは群れを散らす」
ガレスは頷く。
「大丈夫です」
本来なら、ユニーク種にはオルドが当たるべきだった。
だが、群れが多い。
通常種が十数体。
森の奥には、まだ何体か気配がある。
ここでオルドがユニーク種に集中すれば、周囲の騎士たちが崩れる。
騎士たちが崩れれば、馬も荷も、そしてレンも巻き込まれる。
オルドは群れを処理するしかない。
ガレスがユニーク種の前に立った。
「レン、下がっていろ」
「はい」
レンは素直に下がった。
ただし、目は離さない。
ユニーク種は、ガレスを見た。
ニタリと口角を上げた。
笑った。
そう見えた。
次の瞬間、ユニーク種の右腕が消えた。
速い。
ガレスは盾を上げた。
轟音。
盾がひしゃげた。
ガレスの身体が大きく後方へ弾かれる。
「父さま!」
レンが一歩踏み出しかける。
ガレスは地面を滑りながらも、倒れなかった。
足を開き、剣を地面に突き、無理やり止まる。
「問題ない!」
声は強い。
だが、レンには分かった。
左腕が痺れている。
肩にも入っている。
盾越しに受けた衝撃が、肋骨まで響いている。
ギリギリだった。
今の一撃。
まともに食らえば、ガレスは危なかった。
ユニーク種が吠えた。
空気が震える。
周囲の通常種が、その声に反応して一斉に動いた。
群れが騎士たちへ襲いかかる。
オルドが剣を走らせた。
一体の脚を斬り、もう一体の腕を落とし、三体目の喉元へ柄を叩き込む。
剣神は強い。
だが、数が多い。
騎士たちも必死に応戦する。
レンは動けなかった。
いや、動かないでいた。
まだ、父が立っている。
オルドも対応している。
自分が出れば、隠してきたものは終わる。
父も、騎士たちも、全員が見る。
王宮へ報告される可能性もある。
魔導院に目をつけられる可能性もある。
軍の者が利用しようとするかもしれない。
七歳の子供としての平穏は、終わる。
だから、まだ。
レンは息を沈めた。
見極める。
ガレスは盾を捨てた。
左腕が使いづらいのだ。
両手剣を片手で構え、右足を半歩引く。
ユニーク種が地面を叩いた。
土が弾ける。
魔力が動いた。
キラーエイプは通常、魔法を使わない。
魔力を帯びた個体はいても、攻撃魔法を組み上げるほどの知能はない。
だが、この個体は違った。
地面が盛り上がり、石の槍が三本、ガレスへ向かって突き上がる。
中級土魔法。
発動は粗い。
だが、威力は十分。
ガレスは一歩で避け、一本を剣で叩き割った。
二本目が脇腹を掠める。
鎧が裂けた。
赤い線が走る。
三本目をかわした瞬間、ユニーク種が踏み込んだ。
魔法は囮。
本命は腕。
ガレスは剣を合わせた。
だが、体勢が悪い。
衝撃。
ガレスの身体が横へ飛ばされた。
木に背中から叩きつけられる。
「ぐっ……!」
初めて、父の声が詰まった。
レンの中で、何かが静かに切れた。
派手な怒りではなかった。
叫びもない。
震えもない。
表情も変わらない。
ただ、音が消えた。
森の騒音。
猿の叫び。
剣戟。
騎士たちの怒号。
すべてが遠くなった。
父が傷ついた。
それだけが、はっきりとあった。
オルドがこちらを見た。
「レン、待て!逃げろ!」
その声は届いた。
だが、止まらなかった。
レンは歩き出した。
走らない。
木剣を握るでもない。
ただ、ゆっくりと歩く。
七歳の子供が、キラーエイプのユニーク種へ向かって歩いていく。
若い騎士が叫んだ。
「レン様、下がってください!」
レンは聞いていない。
いや、聞いている。
だが、今は優先順位が違う。
ユニーク種がレンを見た。
獲物を見る目だった。
小さい。弱い。柔らかい。
壊しやすい。遊べそう。
そう判断したのだろう。
ユニーク種は口を開き、牙を見せた。
次の瞬間、石が飛んだ。
土魔法で弾かれた石の弾丸。
中級には届かないが、人の頭蓋を砕くには十分な威力。
レンは避けなかった。
歩いたまま。
石が額に届く寸前、レンの身体がわずかに震えた。
そう見えた。
本当に震えただけに見えた。
だが、石はレンの額に当たらなかった。
触れる直前、進行方向が変わった。
石はレンの髪をかすめることもなく、横へ逸れ、背後の木に突き刺さる。
ユニーク種の目がわずかに動いた。
レンは歩く。
二発目。
三発目。
石の弾丸が連続で飛ぶ。
レンは歩く。
肩がわずかに揺れる。
胸が静かに沈む。
背骨が、ごく小さく波打つ。
それだけ。
石はすべて逸れた。
弾かれたのではない。
防がれたのでもない。
触れた瞬間、力の行き先が変わっていた。
まるで、石が自らレンを避けているように。
ユニーク種が吠えた。
今度は風。
枝葉が渦を巻き、圧縮された風の刃がレンへ向かう。
魔法の形は粗い。
だが、威力は中級に近い。
七歳の子供なら、身体が上下に分かれる。
レンは右手を上げた。
受けない。
払わない。
指先が風に触れる。
風刃の縁に、ほんの少しだけ触れる。
その瞬間、風は二つに割れた。
レンの左右を抜け、背後の土を削る。
レンの服の裾だけが、少し揺れた。
オルドはそれを見て、息を呑んだ。
「……馬鹿な」
剣神が、初めて言葉を失った。
ガレスは木にもたれながら、目を見開いていた。
「レン……?」
レンは歩き続ける。
ユニーク種との距離が縮まる。
十歩。
八歩。
六歩。
ユニーク種は、初めて後ろへ下がった。
ほんの半歩。
だが、下がった。
それは恐怖だった。
知能があるからこそ、理解した。
目の前の小さなものは、獲物ではない。
石が当たらない。
風が斬れない。
威嚇が効かない。
殺気を向けても乱れない。
何をしても歩いてくる。
ただ、歩いてくる。
怒鳴らず。
構えず。
走らず。
逃げず。
それが、何より怖かった。
ユニーク種は両腕を地面へ叩きつけた。
土が爆ぜる。
足元から石の槍が何本も生える。
レンの周囲を囲むように。
中級土魔法。
逃げ場を潰し、串刺しにする魔法。
レンは足を止めなかった。
ユニーク種は両腕を地面へ叩きつけた。
土が爆ぜる。
足元から石の槍が何本も生える。
レンの周囲を囲むように。
中級土魔法。
逃げ場を潰し、串刺しにする魔法。
レンは足を止めなかった。
一本目の石槍が、レンの右足の前に生えた。
だが、そこにレンの足はもうなかった。
歩幅を、ほんの指一本分だけ短くしていた。
石槍は、空を突いた。
二本目は、左の脇腹を狙って斜めに伸びる。
レンは避けようとはしない。
ただ、次の一歩を半拍遅らせた。
石槍は、通るはずだった場所を通り過ぎる。
服の端すら裂けない。
三本目は、足元から真上に突き上がった。
レンは、その直前に重心を右へ落としていた。
見た目には、少し体が揺れただけ。
だが、その小さな揺れで、石槍の先端はレンの膝の外をかすめて抜けた。
四本目。
五本目。
六本目。
石槍は次々と生える。
地面が割れ、土が跳ね、鋭い石の先端がレンを貫こうとする。
だが、当たらない。
レンは跳ばない。
走らない。
大きく身をひねらない。
ただ、歩いている。
歩く速さを、ほんの少し変える。
足を置く場所を、半歩にも満たないほどずらす。
肩を薄く引く。
腰をわずかに沈める。
視線を落とさず、呼吸も乱さない。
それだけで、石槍はすべて空を突いた。
ユニーク種が吠えた。
今度は、レンの進路そのものを塞ぐように、太い石柱が斜めに突き出す。
これは避けるだけでは進めない。
レンは初めて、右手を出した。
手のひらではない。
指の背。
石柱の側面に、軽く触れる。
触れた瞬間、レンは足裏から腰へ力を落とし、石柱の伸びる力とは逆ではなく、斜め下へわずかに流した。
ぱき、と乾いた音がした。
石柱の根元に亀裂が入り、伸びきる前に砕けた。
破片が散る。
レンの頬の横を、小さな石片が飛ぶ。
それにも当たらない。
ほんの少し首を傾けただけで、石片は後ろへ抜けた。
騎士の一人が、呆然と呟いた。
「避けている……のか?」
違う。
避けているというより、そこにいない。
魔法が狙った瞬間には、レンはまだそこにいる。
だが、石槍が届く瞬間には、もういない。
大きな動きではない。
誰の目にも、レンはただゆっくり歩いているようにしか見えなかった。
なのに、届かない。
石も、土も、魔法も。
ユニーク種の呼吸が乱れた。
獣の本能が告げている。
これは、獲物ではない。
獣の本能が告げている。
近づけるな。
獣の本能が告げている。
これは危険なものだ。
だが、レンはもう近い。
ユニーク種は最後の手段に出た。
両腕を振り上げ、全体重を乗せて叩き潰そうとする。
魔法ではない。
肉体。
通常種の数倍の筋力を持つユニーク種の、単純な暴力。
地面ごと砕く一撃。
それがレンへ落ちる。
オルドが動きかける。
ガレスが叫ぶ。
「レン!」
レンは上を見た。
そして、右手を伸ばした。
小さな手。
七歳の子供の手。
その手が、ユニーク種の巨大な手首に触れた。
次の瞬間。
轟音。
地面が砕けた。
だが、レンは潰れていなかった。
ユニーク種の腕は、レンの横へ流れていた。
落ちた力が、斜めに逸れ、地面を抉っている。
レンはその腕に沿って、すっと前に出た。
ユニーク種の懐。
巨体の内側。
最も力が入りにくい場所。
レンは左手でユニーク種の胸に触れた。
軽く。
本当に軽く。
押してすらいない。
だが、ユニーク種の身体が硬直した。
呼吸が止まる。
重心が浮く。
全身の筋肉が、自分の意思とは違う方向へ引かれた。
レンは低く言った。
「父に」
声は静かだった。
「触れるな」
七歳の声だった。
だが、その奥にあるものは、七歳ではなかった。
ユニーク種が初めて、明確に怯えた。
牙を剥く。
爪を振る。
だが、もう遅い。
レンは一歩、足を置いた。
ユニーク種の右足の外側。
逃げ道を塞ぐ位置。
同時に、胸に触れていた手をわずかに下げる。
肋骨の動き。
横隔膜。
重心。
背骨の張り。
肩甲骨の開き。
首の角度。
すべてを見る。
すべて繋げる。
そして、切る。
刃ではない。
命ではない。
力の道を。
ユニーク種の巨体が、崩れた。
膝から落ちる。
地面が揺れる。
ユニーク種は立ち上がろうとした。
立てない。
腕に力が入らない。
脚に力が入らない。
呼吸が噛み合わない。
レンは、その首筋に指を添えた。
殺すことはできた。
簡単だった。
この角度なら、頸椎も、血管も、呼吸も断てる。
だが、レンは一瞬だけ父を見た。
ガレスは傷ついている。
だが、生きている。
怒りはある。
静かな怒り。
七歳の身体に引かれた、少し幼い怒り。
前世の玄斎なら、もっと平らでいられただろう。
だが今のレンは、完全には抑えきれなかった。
父を傷つけられた。
それが、胸の奥で熱になっている。
レンは目を閉じた。
一呼吸。
二呼吸。
そして、指の位置を変えた。
殺す点ではなく、落とす点へ。
首筋の奥。
神経の束。
呼吸と意識の境。
レンの指が、そこへ沈んだ。
ユニーク種の目が見開かれる。
次の瞬間、巨体から力が抜けた。
キラーエイプのユニーク種は、地面へ倒れた。
死んではいない。
だが、完全に意識を失っていた。
森が、静まり返った。
通常種たちも止まった。
群れの王が倒れた。
しかも、殺し合いではない。
圧倒された。
理解できる知能を持つ個体ほど、その意味を悟った。
オルドが一体を斬り伏せる。
ガレスの部下たちが残りを牽制する。
通常種たちは、次々に森へ逃げ始めた。
「追うな!」
オルドが叫んだ。
「深追いするな!負傷者を確認しろ!」
騎士たちは我に返った。
何人かが膝をつく。
何人かが、まだ剣を構えたまま震えている。
レンは倒れたユニーク種の横に立っていた。
木剣は抜いていない。
服には土がついている。
髪が少し乱れている。
それだけだった。
ガレスが木にもたれながら、レンを見ていた。
「レン……」
レンはすぐに父の方へ歩いた。
先ほどまでユニーク種を追い詰めていた歩みとは違う。
子供の足取りだった。
少し早足で、父のもとへ向かう。
「父さま」
ガレスの脇腹から血が滲んでいた。
左肩もおそらく痛めている。
背中を木に打った衝撃で、呼吸も浅い。
重傷ではない。
だが、軽傷でもない。
「動かないでください」
レンは父の前に膝をついた。
「大丈夫だ」
「大丈夫ではありません」
レンの声が、少しだけ強かった。
ガレスは驚いた顔をした。
レン自身も、自分の声に気づいた。
感情が乗っている。
少しだけ。
だが、乗っていた。
「……申し訳ありません」
レンはすぐに頭を下げた。
ガレスは、痛みをこらえながら笑った。
「なぜお前が謝る」
「声が荒れました」
「荒れたうちに入らん」
ガレスはレンの頭へ手を伸ばそうとして、左肩の痛みに顔をしかめた。
レンはその手を支えた。
「無理をしないでください」
「それは俺の台詞だ」
ガレスは、ようやくレンの顔を正面から見た。
いつもの息子の顔だった。
七歳の少年。
穏やかで、落ち着いていて、少し大人びている。
だが、先ほど見たものは何だった。
石を逸らし、風を割り、魔法をいなし、ユニーク種の巨体を触れるだけで崩した。
あれを、何と呼べばいい。
ガレスは言葉を探した。
だが、出てこなかった。
そこへ、オルドが近づいてきた。
彼は血を浴びていたが、そのほとんどはキラーエイプのものだった。
ただ、右腕に浅い裂傷がある。
通常種の爪を受けたのだろう。
オルドは倒れたユニーク種を見た。
そしてレンを見た。
長い沈黙。
やがて、彼は低く言った。
「殺しておらんな」
「はい」
「殺せたな」
「はい」
ガレスが息を呑んだ。
レンは隠さなかった。
もう、この二人には無意味だった。
オルドはさらに聞いた。
「なぜ殺さなかった」
レンは少しだけ視線を落とした。
「父さまが生きておられたので」
オルドの目が細くなる。
「もし、死んでいたら?」
その問いに、周囲の空気が凍った。
レンは答えなかった。
いや、答えられなかった。
今の自分なら、どうしただろう。
前世の玄斎なら、必要な処置をした。
怒りで技を変えるようなことは、晩年にはほとんどなかった。
だが今のレンは七歳だ。
身体が若い。
血が熱い。
守るものへの執着が、思ったより強い。
父が死んでいたら。
レンは、ユニーク種を殺したかもしれない。
必要だからではなく、怒りで。
その可能性があった。
レンは静かに頭を下げた。
「分かりません」
それは、正直な答えだった。
オルドはしばらくレンを見ていた。
「そうか」
それだけ言った。
責めなかった。
ただ、見ていた。
ガレスが口を開いた。
「レン」
「はい」
「お前は……何だ?」
その言葉に、恐れの色はなかった。
だが、混乱はあった。
当然だった。
父の知る息子は、魔法が苦手な、剣の筋が良い七歳の子供だった。
だが、今見たものは違う。
通常種なら騎士五、六人で倒すキラーエイプ。
しかも魔法まで使う異常個体。
それを、レンは一人で倒した。
傷ひとつなく。
圧勝で。
レンは父を見た。
いつかは、こうなると思っていた。
隠し続けるつもりはなかった。
だが、言うべき時を選びたかった。
今がその時かどうかは分からない。
けれど、父は見た。
オルドも見た。
騎士たちも見た。
もう、ただの「筋のいい子供」では済まない。
レンは静かに頭を下げた。
「私は、レン・アルクレイドです」
ガレスは眉を寄せた。
「それは知っている」
「父さまと母さまの子です」
ガレスは黙った。
「姉さまの弟で、リオル兄さまの弟で、セラの兄です」
レンは続けた。
「それ以上のことは、今は上手く言えません」
森に、重い沈黙が落ちた。
遠くで、逃げていくキラーエイプの声がかすかに聞こえた。
オルドが、騎士たちを振り返る。
「今見たことは、ここだけに留めろ」
若い騎士が息を呑んだ。
「しかし、剣神殿」
「報告には、キラーエイプの群れ、およびユニーク種に遭遇。ガレスが負傷。わしと部隊でこれを撃退した、と書け」
「ですが、あのユニーク種は……」
「この子を王宮へ差し出したいか」
騎士は黙った。
オルドの声は冷たかった。
「魔導院へ渡したいか。軍の秘匿戦力として扱わせたいか。貴族どもの好奇の目に晒したいか」
誰も答えなかった。
オルドはさらに言った。
「今日ここで見たものを外へ漏らすなら、その者はわしの剣を敵に回すと思え」
静かな言葉だった。
だが、誰も冗談とは思わなかった。
剣神オルド・グランツ。
その名には、それだけの重みがある。
騎士たちは一人ずつ頷いた。
ガレスはレンを見つめていた。
まだ混乱している。
だが、少しずつ表情が変わっていく。
恐れではない。
理解でもない。
父親の顔だった。
「レン」
「はい」
ガレスは痛む身体を押して、レンへ手を伸ばした。
今度はレンが支えた。
ガレスはその手で、息子の頭を撫でた。
「助けてくれて、ありがとう」
レンの胸が、わずかに詰まった。
「……はい」
「だが」
ガレスの声が少し低くなる。
「二度と、あんな顔をするな」
レンは目を上げた。
「顔、ですか」
「ああ」
ガレスは苦笑した。
「怖かったぞ」
レンは黙った。
父を傷つけられて、静かに怒った。
自分では抑えていたつもりだった。
だが、父には見えていた。
「申し訳ありません」
「謝れとは言っていない」
ガレスは、痛みに顔をしかめながらも笑った。
「ただ、覚えておけ。怒ってもいい。家族を傷つけられて怒るなとは言わん」
レンは何も言わなかった。
「だが、怒りに持っていかれるな」
それは、父の言葉だった。
武の達人への言葉ではない。
七歳の息子への言葉。
レンは深く頭を下げた。
「はい」
オルドがその様子を見て、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「ガレス」
「はい」
「この子は、お前の子だ」
ガレスはレンの頭に手を置いたまま頷いた。
「もちろんです」
「それを忘れるな」
「忘れません」
ガレスは、今度ははっきりと言った。
「レンは、俺の子です」
その言葉で、レンの中にあった緊張が少しだけ解けた。
父に知られた。
剣神に知られた。
自分が異質なものとして見られるかもしれない。
恐れられるかもしれない。
遠ざけられるかもしれない。
その不安はあった。
だが、父の手は変わらなかった。
少し大きく、少し不器用で、少し熱い。
父の手だった。
それだけで、十分だった。
その後、騎士たちは負傷者の手当てと魔物の確認に追われた。
通常種のキラーエイプは数体を討伐。
何体かは逃走。
ユニーク種は拘束するには危険すぎたため、オルドの判断でその場で処分された。
ただし、処分したのはオルドだった。
報告書にもそう記される。
レンはその時、少し離れた場所にいた。
父の傷に布を当て、呼吸を整えさせていた。
治癒はできない。
だが、応急処置ならできる。
血の流れを見て、圧をかける場所を選ぶ。
痛みで乱れた呼吸を落ち着かせる。
無駄な力を抜かせる。
ガレスは不思議そうに言った。
「楽になるな」
「強く押していませんので」
「押した方が効きそうだが」
「父さまは何でも強くすればよいと思いすぎです」
ガレスは少し笑った。
「エリナみたいなことを言う」
「姉さまの方がもっと厳しいです」
「違いない」
そう言って笑った父の顔は、少し青かった。
レンはその顔を見て、胸の奥に残っていた怒りが別のものへ変わるのを感じた。
恐れ。
父を失うかもしれなかった恐れ。
前世で多くを見送った。
妻も見送った。
弟子も見送った。
友も見送った。
それでも、今世で家族を失うことに慣れるわけではない。
慣れてたまるか。
そう思った。
レンは父の傷口を押さえながら、静かに息をした。
この世界で、自分はまだ子供だ。
だが、守りたいものはもうある。
父。母。姉。兄。妹。
そして、いつか会うかもしれない、前世の妻だった魂。
守れるものには限りがある。
それを知っている。
だからこそ、届く場所には手を伸ばす。
たとえ、それで自分の異常性が露見するとしても。
ルミリアへ戻った後、ガレスとオルドは屋敷の書斎で長く話し合った。
ミリアにも、最低限のことは伝えられた。
キラーエイプの群れに襲われたこと。
ガレスが負傷したこと。
レンが助けたこと。
ただし、どこまで助けたのかは、言葉を選んだ。
ミリアはレンの顔を見て、すぐに分かったようだった。
「レン」
「はい」
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
ミリアは、レンを抱きしめた。
「よかった」
その声は、父と同じだった。
すごいことをしたからではない。
異常な力を見せたからでもない。
無事だったから。
それを喜んでいる。
レンは、母の腕の中で目を閉じた。
前世で世界最大門派の始祖だった男は、今世で七歳の子供として、母に抱きしめられていた。
少し情けないような、心地よいような、不思議な気分だった。
その夜。
オルドはレンを庭へ呼んだ。
月のない夜だった。
庭の砂利が、足元でかすかに鳴る。
オルドは腰に剣を差していた。
抜くつもりはない。
ただ、剣士として立っていた。
「レン」
「はい」
「今日から、お前への稽古を変える」
レンは静かに頷いた。
「はい」
「隠す稽古だ」
「隠す」
「そうだ」
オルドは言った。
「お前は強い。おそらく、わしよりも遥かに」
レンは何も言わなかった。
「だが、強いことと、生きやすいことは違う。お前の力が広まれば、必ず利用しようとする者が現れる」
夜の空気が冷たい。
「だから、覚えろ。勝つことではなく、勝ったと悟らせぬことを」
レンは頷いた。
「はい」
「そして」
オルドは木剣を一本、レンへ投げた。
レンは受け取る。
「負ける稽古をする」
「負ける稽古」
「そうだ。七歳児らしく、きちんと転べ」
レンは瞬きをした。
「転ぶ」
「お前は転ばなさすぎる」
「……はい」
「負けた時に、負けたように見えぬ者は目立つ。勝った時より目立つ」
確かにそうだ。
レンは木剣を握った。
オルドも木剣を持つ。
「始めるぞ」
「はい」
「まずは、わしに打たれて尻もちをつけ」
「はい」
「ただし、自然にだ」
「……難しいですね」
「お前に勝つより難しそうだな」
オルドは少し笑った。
レンも、ほんの少しだけ笑った。
七歳の夏。
レン・アルクレイドの異常性は、ついに父と剣神の前に露見した。
だがそれは、英雄の誕生ではなかった。
一人の子供を、人として守るための秘密の始まりだった。




