第5話 『ベースが刻む、宣戦布告』
廊下を歩くたびに、視線が飛んできた。
桐島レンは特に気にせず、いつもと同じ歩幅で、いつもと同じ速度で登校した。違うのは、周囲の音だった。
昨日まで、この学院の廊下は静かだった。
今朝は違う。
「いや、だからこうだって。ビートを先に作って、そこに魔力を――」
「でも定型文と組み合わせたら逆効果じゃない? リズムが崩れる」
「崩れるんじゃなくて、『乗る』んだよ。昨日のあれ見てなかったの――」
生徒たちが口々に喋っていた。
内容は全員、同じだった。
レンを見た生徒が肘で隣を突いた。隣の生徒がその隣を突いた。廊下に小さなさざ波が走り、全員が振り向いた。
誰も嘲笑わなかった。
嘲笑の代わりにあったのは、畏怖と、熱狂の混じり合った、奇妙な空気だった。
廊下の奥では、三人組の生徒が壁に向かって何かをやっていた。
「い、いくぞ。えっと……Yo、炎よ、燃えろ、ファイアー……えー、ライアー……?」
「ライムになってない」
「なってるって、ファイアーとライアーで――」
「意味が繋がってない。魂が入ってない」
「魂ってどう入れんの!?」
レンはそこを無言で通り過ぎた。
一番後ろの生徒と目が合った。生徒は真っ赤になって頭を下げた。
レンはそれも特に気にせず、教室へ向かった。
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昼の鐘が鳴り、中庭のベンチにレンが腰を下ろした五分後。
ミアが駆けてきた。
「レン、パン買ってきた! 昨日の補修作業で中庭のパン売りのおじさんがレンのこと気に入ったみたいで、おまけしてくれたよ」
「ありがとう」
パンを受け取った。
ミアはその隣に腰を下ろし、自分の分のパンを取り出した。ごく自然な、いつも通りの動作だった。昨日も一昨日も、気づけばこうなっていた。
ミアはレンの横顔を、ちらりと見た。
また視線が少し長くなっていたが、本人は気づいていなかった。
「右手、もう平気?」
「うん」
「無理してない?」
「してない」
「……本当に?」
「本当に」
ミアは少し口を尖らせて、パンを齧った。
返事が短い。いつもそうだ。でも、声が届くと背中がざわつくのも、いつもそうだった。
そこへ。
影が落ちた。
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アリア=ヴェルセットが立っていた。
日差しを背に受け、銀髪が白く光っている。制服の乱れは一切ない。表情は、昨日と同じく無だった。
ただ、その目がレンに向いていた。
ミアがパンを持ったまま固まった。
「ア、アリア様……昼食はご一緒しないんですか、いつも個室で――」
「今日は外にしたわ」
それだけ言って、アリアはレンの反対側に腰を下ろした。
ミアとレンとアリア。三人がベンチに並んだ。
沈黙。
レンはパンを食べ続けた。
アリアは食べ物を何も持っていなかった。ただ、前を向いて座っていた。
「……何か用でも?」とレンが言った。
「監視よ」とアリアが言った。
「監視」
「あなたの存在は学院の秩序を乱す。教員に任せておけないから、私が直々に監視することにしたわ」
「学院長には報告したの?」
「……する必要を感じなかった」
一拍の間があった。
「つまり、個人的に来たってこと?」
アリアの眉が、ほんの僅か動いた。
「秩序の問題よ。個人的な話ではない」
「そう」
レンはパンの続きを食べた。
ミアは二人を交互に見て、何か言いたそうにしながら言えなかった。アリアが隣にいる。それだけで喉が詰まる。
それでも意を決して、レンとアリアの間に身体を割り込ませるように少し前に出た。
「レン、このパン、おいしい?」
「うん。いつもより甘い」
「でしょ! おじさんが蜂蜜入れてくれたって!」
アリアが、その会話をまっすぐ前を向きながら聞いていた。
蜂蜜入りのパン。
食べたことがない、と思った。なぜ思ったのかは、分からなかった。
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轟音が来たのは、それから十分後だった。
地面が揺れた。
ミアのパンが膝から落ちた。学院の方角から、石が砕ける音が響いた。
生徒たちが立ち上がる。怒号。悲鳴ではない、驚愕の声だった。
レンは立ち上がり、正門の方向を見た。
煙が上がっていた。
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正門は、なかった。
正確には、あった場所に瓦礫が残っていた。石造りの門柱が根元から砕かれ、鉄製の扉が歪んで横倒しになっていた。
その瓦礫を踏んで、男たちが入ってきた。
全員、同じ色の軍服。深い紺と金の刺繍。胸に鷲の紋章。整然とした行進だったが、足音が重かった。石畳が、一歩ごとに低く鳴った。
先頭の男が、立ち止まった。
背が高い。二メートル近い。肩幅が広く、顎が角張っていた。短く刈り込んだ黒髪と、刃物のように細い目。腰に剣を提げているが、それより目を引くのは首から下げた黒い金属片だった。
共鳴板。特定の振動数を増幅させる魔道具だ。
男は学院の中庭を見渡した。
集まってきた生徒たちが、その圧に飲まれて後退した。声が出なかった。男が何もしていないのに、立っているだけで周囲の音が沈み込んだ。
空気が、重くなった。
物理的に。
「魔導帝国、第七軍楽隊より告げる」
男の声は低く、腹に直接響いた。共鳴板を通さない、肉声だけで十分すぎる重さだった。
「この学院において、魔術の伝統を汚す不届き者が現れたと聞いた。我々は帝国の命により、その者を粛清し、学術の秩序を回復するために参った」
生徒たちが、後退し続けた。
誰も声を出さなかった。
アリアが、唇を真一文字に結んでいた。ミアが、レンの袖を無意識に握っていた。
男の目が、人群れを割って、レンを見つけた。
目が合った。
レンは耳をほじっていた。
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静寂。
男がゆっくりと歩いてきた。
生徒たちが左右に割れた。誰も止めなかった。止められなかった。
男がレンの三メートル手前で止まった。
目を細めた。
「……お前か」
「そうかもね」
「帝国が定めた魔術の秩序を侮辱した者が、学生一人とは。拍子抜けだ」
「そっちこそ」レンは耳から指を抜いた。「門を壊して入ってくる『軍楽隊』ってのは、帝国じゃ普通なの?」
「威圧は戦術だ」
「センスがない」レンは言った。「音で威圧したいなら、もっとやり方がある。お前の音はリスペクトが足りねぇんだよ」
男の眉が、微かに動いた。
「……リスペクト」
「音ってのは、聞く奴への敬意で成り立つ。お前の音は押し付けだ。重いだけで、何も届いてない」
男は一秒、黙っていた。
それから、低く笑った。
「面白いことを言う」
レンは指を鳴らした。
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「Yo、軍服の旦那 聞けよオレの判決
帝国の音圧 所詮は恐怖の代弁
民を黙らせる それが音楽か?
俺の定義 真逆だ 聴けよ
言葉は刃 でも傷は癒す側
恐怖で支配? 古くさい手口
お前の鉄靴 地面を踏み鳴らすだけ
俺の一声で 帝国ごと ひっくり返してやる」
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音が、学院全体を揺らした。
石畳が震えた。窓ガラスが鳴った。中庭の木の葉が一斉に舞い上がった。
レンのラップが放った重低音が、男の音圧と正面からぶつかって、押し返した。
生徒たちが、息を呑んだ。
帝国の使節団の数人が、半歩後退した。
男だけが、動かなかった。
しかし。
その目が変わっていた。
侮蔑が消えていた。
代わりにあったのは、初めて見るものを見る目だった。
男はゆっくりと、レンを上から下まで見た。それから唇の端を上げた。
「……名を聞いていいか」
「桐島レン」
「覚えた」
男は踵を返した。使節団が後に続いた。
瓦礫の上を歩きながら、男は振り返りもせず言った。
「面白い。帝国の『鉄血の賛美歌』と、貴様の『泥臭い叫び』。どちらが真の言葉か、次は戦場で決めようではないか」
その言葉が石畳に落ちた。
使節団が消えた。
残ったのは、砕かれた門と、沈黙した生徒たちと、宙に漂う魔力の残滓だけだった。
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ミアが、レンの袖をまだ握っていた。
気づいて、ぱっと離した。
「……帰った」
「うん」
「なんで来たの、あれ。本当に帝国の人たちだよね。学院に、軍が……」
「次、来る」レンは言った。「それだけは確かだ」
ミアは黙った。
アリアが、前を向いたまま言った。
「……あなたが余計なことをするから」
「そうかもね」
「責任を取る気はあるの?」
「ある」
アリアは、その答えを聞いて、何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線をレンに向けた。
一秒。
それだけだった。
レンは砕けた門の方向を見ていた。
戦場、と男は言った。
その言葉の重さを、レンは正確に受け取っていた。
帝国が動く。本物の戦いが来る。
右手を、静かに握った。
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つづく
【あとがき】
5話まで読んでくださり、ありがとうございます!
今回は「学園無双」から「外の世界」へ、スケールを一段階広げる話でした。
廊下でラップの真似をしている生徒たち、書いていて笑いました。
「ファイアーとライアーで韻踏んだ」「意味が繋がってない」のくだり、
ああいうコミカルな描写を挟むことで、次の緊張感が映えると思っています。
アリアが「蜂蜜入りのパンを食べたことがない」と思うシーン。
デレではないんです。ただ一瞬、彼女の日常の隙間が見えた。
それだけです。でもこういう小さい積み重ねが、後で効いてきます。
帝国の騎士、名前はまだ明かしていませんが、
彼は「音の使い手」としてレンと対になる存在です。
レンが「民に届ける言葉」なら、彼は「民を黙らせる音」。
正面から真逆の哲学を持つ強敵として、後の話で再登場します。
ミアがずっとレンの袖を握っていたこと、気づいてくれましたか。
本人は気づいていませんでした。
6話もよろしくお願いします。
作者より
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