洋菓子店にいる後輩
津久田雅臣と桐生若葉は、四年制の大学で知り合った。
雅臣が三年生のとき、講義中に『陸上部のひとだよね』と、四年生の若葉から声をかけられた。そして何度か大学構内で話したあと、彼女から誘いがあった。
食事に誘われ、遊びに誘われ、恋仲になって五年。結婚しようという話は、なんとなく、ふたりの間であがった。
雅臣にとって若葉は、はじめての恋人だった。……若葉にとっては、三人目の恋人らしいが。
そのせいか雅臣の中で、彼女に嫌われたくないという気持ちは、いまだに強かった。面倒だと思う結婚式も、彼女や周りが喜ぶならいいと、準備をしていた。
午前十時過ぎ。雅臣は合鍵をかけて、若葉の部屋を出た。足に合う靴を履くと、ビジネス用と兼ねているボディバッグを背負い、駅へと向かった。
電車に乗り、地方都市の駅で降りる。タイルで舗装された遊歩道を歩き、心地いい日差しと風を肌で感じる。閑静な街並みは、心を穏やかにした。
しかし、肩を寄せ合う十代のカップルとすれ違うなり、雅臣は少しやさぐれた。子供が昼間からいちゃついて。
……思えば高校でも大学でも、陸上に明け暮れていた。部活も恋愛もこなす人間が、器用に見えたものだ。
……そういや仁科にも彼女がいたな。たしか二年の夏から。
雅臣は過去を懐かしみながら、プロバンス風の店構えである洋菓子店 La maison en bonbons の、自動ドアをくぐった。
頼みの綱であるはずの知り合いは、今日もよそよそしかった。顔を合わせてもにこりともせず、業務上の会話に入る。
「お電話でも申したとおり、ご予算やご要望に合わせてお作りいたします。ですが十一月末のお式だと、当店もクリスマスの準備がはじまっていますので――」
清潔感のある見た目。要点を押さえた説明。悪くはない。
「お早目に具体的なご要望をいただかないと、対応できないケースもございます」
しかし、まったく笑顔がない。
……これほど愛想がない飲食店員も珍しい。ココア色の帽子もカフェエプロンも、彼が着ていると堅苦しいものに見える。
ウェディングケーキを外注するなら、仁科のところに頼みましょうよ。……そう薦めてきた後輩と、安易にそれに乗った自分を、心で恨んだ。
三つ下の後輩の名前は、仁科崇人。父親は税理士。
高校卒業後は大学ではなく、フランス留学が教育課程にある製菓学校へと進んだ。
パティシエへの道を認められる際、親に出された条件が、海外留学だったらしい。
「津久田さま、お式まではふた月ですよね」
「ええ」
雅臣は仁科を見て、体型はそう変わってないなと思った。細く引き締まった体つき。
自分と一緒で、週に一度のジョギングくらいは、続けていそうだ。
「ひと月前までには、具体的なオーダーをお願いいたします」
「わかりました」
まだ招待状を渡していないが、雅臣は仁科にも出席の打診をした。
十一月は店が繁忙期なので、出席が難しい――すぐにそう返された。ケーキを頼んで招待しないわけにはいかないので、招待状は一応、彼の分も刷った。
「あとデザインについては、こちらをご参照ください」
仁科はそう言うと、厚いアルバムを雅臣に渡した。
雅臣は渡されたアルバムを、ぱらぱらとめくった。どのページにもウェディングケーキの写真が、作成例として載っている。
四角い一段のケーキが多いが、ハート型や段重ねのウェディングケーキもある。旬の果物がふんだんに飾られたケーキもあれば、クリームの薔薇が飾られたケーキも。
どれがいいのかわからなく、つい写真下の金額にばかり目がいく。
雅臣は悩んでいる途中でふと、隣側を見た。「お誕生日のプレート、これでよろしいですか?」という声が、雅臣の気を引いた。
「ええ。せな、ケーキ楽しみだね」
「いま食べたい!」
小さな女の子とその母親が「せなちゃん3さいのおたんじょうびおめでとう」と書かれたホワイトチョコレートを前にして、喜びあっている。そして彼女らの前には。
「お誕生日おめでとうございます」
……心からほほえむ女性店員。幼顔で印象がやわらかい。
若い異性が接客しているという点も含め、隣の光景がとても羨ましい。気が散って、ますますオーダーケーキへの考えがまとまらない。若葉はなにか言っていたか。
「お悩みですか」
そんな雅臣に見かねたのか、仁科が声をかけた。
「あー……。僕のほうでは、あまりこだわりがないせいか。迷ってしまって」
「ゲストの人数はどれくらいになりそうですか」
「六十人……前後かな」
雅臣は頭を抱えた。二か月前だが招待状を配り終えていないので、正しい人数はわからない。
仁科がアルバムのページをめくった。
「予算的には、この辺りもお薦めです」
仁科が見せたのは、飾り気が少ないケーキだった。長方形の一段のケーキで、フリルのように絞られた生クリームだけが、表面を飾っている。ケーキの側面には、オリーブの葉とかすみ草が添えられていた。
「こういうシンプルなデザインは、果物などの材料費がかからない分、費用が抑えられます」
仁科が写真の生花に、細い指をやる。
「少し緑を添えれば、洒落た印象になりますし」
「なるほど」
雅臣は頷いたが、緑と白を基調とした生花を見て――顔をしかめた。
ここにもボリュームが欲しいと言われたら。
「……やっぱり僕ひとりでは、決めかねます」
「そうですか」仁科はアルバムを引いた。
雅臣は申し訳なさから、視線を泳がせた。隣では会計を済ませた親子連れが、ケーキボックスを受け取ろうとしている。
『両名の意見を知りたいので、次回はふたりでお越しください』
先月の八月に打ち合わせした際、そう言われた。しかし若葉と休みが合わず、今日もひとりで来る運びになった。
「悪い」飾らない言葉で謝る。
「次は必ず、ふたりで来るようにする。無駄な時間を取らせて、悪かった」
親子連れは笑顔で店を出ていった。「せなちゃん、またね」という明るい従業員の声が、後ろから聞こえる。
「……そんなに謝らないでくださいよ。困るから」
とたん、仁科の口調に親しみがこもる。
「前回と違って、人数を教えてくれただけで十分です。ただ津久田先輩だけじゃなくて、新婦の方にも、喜んでもらえるケーキを用意したいので」
津久田先輩。懐かしい呼ばれ方だった。
「次はふたりで来てください」
「ああ、わかった」
「気になるデザインがあったら、写真撮ったらどうです?」
ほかに客がいないと、態度が和らぐ。そう理解した雅臣は、ほっと息を吐いた。
気の緩みから、聞かなくていいことを聞いた。
「そうだ仁科。お前の彼女……今の子と、同じ名前じゃなかったか?」
「………」
「ほら。高校のグラウンドにも来てた子」
仁科が眉をしかめた。
「せな、じゃなかったっけ?」
「……違います。世良、です」
仁科はなぜか雅臣の後方に視線をやった。なにか気になるのかと振り返れば、先ほど「せなちゃん」を見送った女性従業員が、棚の商品を整えている。
「せらさんか。彼女とは、仲良くやっているか?」
「いいえ」仁科はウェディングケーキのアルバムを閉じた。
「もう別れましたよ。高校から何年、経っていると思っているんですか」
「……悪い」
雅臣はまた、深く仁科に謝った。
女性従業員は『私はなにも聞いていませんよ』という顔で、そそくさとバックヤードに入っていった。たぶん気をつかわれている。
それから仁科は、淡々と次回の日取りを決めはじめた。雅臣は申し訳なさから、次の打ち合わせを、なるべく早い日にした。
三日後の火曜日――若葉の休日の、午後七時半。自分は仕事だが、この時間なら間に合うだろう。
「津久田さま、本日はありがとうございました」
雅臣は店を出るときに、仁科の笑顔を見た。心からではない笑顔。




