九十二話 『酔っ払いノ領分』 一五六十年・吉乃
日も、だいぶ傾いて。
荒れ狂う波のようにただ私を翻弄していた一日は、少しずつ穏やかになっていく。
宗及殿は、宿へお戻りになられた。
生駒屋へ足を運んでいたお客も、徐々に少なくなっていって。
最後のお客が今、お帰りになられた。
慌ただしい一日が、ようやく終わる。
手代たちはほっとした顔で一息をついて、店の後片付けを始めている。
静かになった、店の中で。
奥の厩舎から、馬の鳴く声が聞こえてくる。
それはまるで、今日が終わることを嘆いているような・・・そんな、哀しげに聞こえる声だった。
私が、表に出していた看板と暖簾を片付けていると。
誰かが、私に近づいてくる。
斜陽が私を刺す中で、こちらに近づく影に私の身体は埋もれてしまう。
「・・・小六?」
それは、小六だった。
珍しい。
将右衛門や、無頼たちを引き連れてるわけじゃない。
「一人なの?」
ここ数年、小六が一人でいる姿なんて見たことがなかった。
小六は川並衆の棟梁だから、何をするにも将右衛門たち手下を引き連れて動いている。酒を飲むにも、仕事をするにも、喧嘩をするにも・・・そうやって常に川並衆の仲間たちと過ごし、自らが川並衆の頭目だということを手下にも小六自身にもわからせなければならないのだと、前に話していたことがある。
無頼という者たちは、そうやって序列を規律を作っているのだと。
その小六が、わざわざ一人になって私に声をかけに来るなんて・・・
「手下どもは将右に押し付けて飲みに行かせた。今頃茶屋に向かってんじゃないのか」
「小六は行かないの? 珍しい」
「まぁな、野郎と飲む気分じゃねえんだよ」
そう言うと、小六は店の前にどっしりとしゃがみ込む。
懐から瓢箪を取り出して、ぐっと豪快に酒を煽った。
「たまには、日が暮れる様を肴に飲むのも悪かねえな。お嬢も一献付き合え」
「わざわざこんな場所で飲まなくてもいいじゃない・・・」
急に店先で飲みだす小六に、私は呆れてしまう。
「いいじゃねえか。俺らもいい歳だ、飲まねえと出来ない話もあるだろ」
「飲めば馬に乗れなくなる。小折に帰れなくなるじゃない」
「今日は津島に泊まっていけばいい。お嬢のことだ、あの屋敷にお類の嬢ちゃんと二人きりになれば、馬鹿なこと夜通し考えて悶々とするだけだろ」
それは、確かに・・・
今宵は、あまり一人になりたくないとどことなく思っていた。
淋しい・・・静かな・・・そんな夜は過ごしたくない。
賑やかな場所にいたい。
誰かの側にいたい。
小六に言われて、無性にそんな気になってしまう。
小六に、気を使わせてしまっているなぁ・・・
付き合いが、長いから。
この私の兄貴代わりような男には、何もかも見透かされてしまう。
川並衆の棟梁。野武士たちの、頭目。
普段からがさつな無頼を気取っているくせに。
いつも肝心なところで、私のことを気遣ってくれる。
今まで何度も、小六に助けられてきた。
きっと今も、今川のことや能面の女のことで私が変に考え込まないようにと、酒に誘ってくれているのだとわかっている。
粗暴者のくせして、変な気遣いは上手いだなんて・・・本当、私の兄貴分は食えない男だ。
「小六がそう言うなら、少しだけいただきます」
私は小六から瓢箪を受け取って、ぐっと喉に流し込む。
どぶろく特有の臭気が、ばっと鼻の中を抜けて。
酒が通り過ぎたところから、かぁっと熱くなっていく・・・
「っ・・・!!」
・・・というか、この酒すごく強い――っ!!
あまりに強い匂いと目眩がするほど激しい酔いに、私は思わずむせてしまう。
苦しそうな顔を浮かべる私を見て、小六はけらけらと可笑しそうに笑った。
一気に飲むんじゃなかったぁ・・・小六の奴、普段からどんな酒を飲んでいるのよ・・・
「とっとと酔っちまえよ」
笑いながら、小六は言う。
「後ろ向きなこと考えずに済むだろ」
その核心を突く言葉に、私は思わず固まってしまって。
・・・全て、お見通しということかぁ・・・
「・・・もし、私が商人でなければ」
私は、言葉を零していた。
遠くで、橙の空が少しずつ暗くなっていくのを見つめていた。
父の跡を継いで、必死に盛り立ててきた私の店を背にして。
愛着が染み付いてしまった津島の町の喧騒を、耳にして。
私はきっと、感傷的になってしまったのだと思う。
普段なら、絶対に口にしないことなのに。
生駒屋の主人として、津島の筆頭商人として、言ってはいけないことだと理解しているのに。
煙のように、この胸に広がる想いを、私は小六に吐露してしまう。
あまりに煙るそれは、放っておくにはとても息苦しくて。
「なら、小六たちは・・・生駒屋は、津島は・・・」
もし、私が商人をやめて。
ただ、殿様の愛妾で。
この生駒屋とも、津島とも、関わりのない女になって。
そうであれば、津島は・・・
今川に、奔ることが出来るんじゃ・・・
もし、織田が敗れたとしても。
津島の町は、生き延びることが出来るかもしれない。
私は、織田信長の側女として殺される。
殿様や、帰蝶さまたちと一緒に滅びに殉じるだろう・・・
でも、小六たちは・・・
生駒屋や津島のみなは、何も悪くないから・・・
だから・・・っ。
「くだらねえこと言ってんじゃねえよ」
声を震わせて口にする私の話を、小六ははっきりと断ち切った。
「たかだか今川に少し脅されたくらいで気弱になってんじゃねえ、お嬢の腹に抱えたモンがそれくらいで揺らぐような粗末なモンなら、それこそ商人も織田の嫁もやめちまえ」
気持ちいいほど、明快な答えだった。
小六は、顔を暗くして話す私を笑い飛ばして、そう言った。
「小六・・・」
「お嬢らしくねえこと言ってんな。いつも周りも気にせず好き放題やってんだろ、今更物わかりのいい顔したって遅えんだよ」
「私、そんないつも好き放題はしてない・・・」
・・・でも、小六の言う通りだった。
全く、私らしくない。
いつも、やれ商人の矜持やら誇りやら口にして、振りかざしてばかりいたのに。
私は・・・
私の矜持に、反する道理を通そうとしている・・・
夕日が、沈む。
ぐんぐんと、沈んでいく。
この一日がゆっくりと、けれど目に見える速さで、終わっていく。
私たちは、そんな夕暮れの空をぼんやりと眺めている。
「面倒だが、毎度のことだ。今回も尻拭いはしてやる」
「その言い方は何? 私は、小六に尻拭いなんてさせたことありません」
「馬鹿言うな、俺らがいなきゃお嬢は三度は死んでいるぞ」
それは、確かにその通りかも・・・
そんな、他愛もない二言三言を小六と交わして。
「・・・ふふっ」
私は、思わず笑みを零してしまう。
なんだか、随分と気が軽くて。
ずっと胸に巣食っていたもやは、気づけば綺麗に消えていた。
「ありがとう、小六」
お酒を、くれて。
話を聞いて、くれて。
ずっと私に、ついてきてくれて。
お日さまが、地平線の彼方にすっぽりと隠れてしまう。
今日という日が今、終わる。
けれど。
まだ、天はかすかに明るくて。
隠れたけれど。
見えないけれど。
お日様の光は、確かにこの津島に届いている。
見えなくなっただけで、なくなった訳ではないから。
・・・まだ、光は届く。
「・・・よしっ」
私は、手にした瓢箪をもう一口流し込む。
また、むせるほどの酒気が喉の奥から溢れ出してくる。実際、二口目も全く慣れなくて私はまたむせてしまう。
「っ・・・っっ!! 小六はなんて強い酒飲んでるの・・・っ!!」
「おい、お嬢大丈夫か・・・?」
飲めもしない酒を突如一気に飲み干すなんて・・・
突如奇行に走り出す私に小六は驚いて、心配そうに声をかける。「何してんだ・・・」なんて呆れ顔を見せながら。
私は、なんとか息を整えて。
酔って火照る頬を緩ませて。
「・・・あぁ、酔った」
にやりと、笑う。
「酔った、酔っちゃったじゃない・・・小六が、こんな強い酒を飲ませるから」
顔が、熱い。
頭が、ぼっとする。
私は小六ほど酒が強い訳じゃないから、一気に酔いがまわっていく。
・・・酒のせいで、まともな思考が働かない。
私は、酔っ払いだ。
空になった瓢箪を、思い切り投げ捨てる。
「くそ喰らえっっ!!!」
私は、店先で叫んでいた。
酔いに任せて、とても他の人には聞かせられない汚い言葉を。
こんな言葉、お類が覚えてしまったらどうしよう・・・なんて思う。
きっと、兄弟分の小六の前でしか口にできない言葉。
・・・でも、別にいいでしょう?
どうせ私は女傑で、男勝りで、巴御前なのだから。
心の底から溢れる激情を、何も考えずに口から吐き出していく。
くそ食らえだ。
織田も、今川も、あの能面の女も。
どうして、商人の私が。女の私が。
武家の諍いにこんなに頭を悩ませなきゃいけないの・・・!?
「何もかも、くそ食らえだっっ!!」
突如、酔いに任せて騒ぎ出す私を眺めて、小六は可笑しそうにけらけら笑っていた。
小六に笑われるなんて、普段なら怒るところだけど。
この男は、一緒に笑ってくれる。馬鹿をやってくれる。
その馬鹿を、何も言わずに肯定してくれる。
ただそれが、今は一番嬉しい。
確実に今の私は、たちの悪い酔っ払いだ。
でも、それでいい。
もう、日は沈んでしまったから。
宵は、私たち酔っ払いの領分だ。
まるで闇夜のようにお先真っ暗なこの津島は、尾張は、
――私たちの領分だから。
「付き合いなさい、小六。酔っ払いの馬鹿騒ぎに」
「おうよ、大暴れしてやるか」
知らしめてやる。
商いに酔った商人が。
酔いに身を任せた馬鹿どもが。
どれほど、たちが悪いかを。
「・・・好き放題、やってやる」
高揚するこの胸を、そのままに。
私は、悪徳商人のように下卑た笑みを浮かべてやったんだ。




