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七十八話 『駿府ノ夜』 一五六十年・能面の白拍子



 宵は深く、深く。


 例えるなら涅槃(ねはん)のように暗く、無音な、その宵は、この喧騒騒がしい駿府の地には不気味なほど似合わないと、私はふと思ってしまいます。


 それだけ、館の警備が強固な証拠でございましょう。足音を鳴らす鼠一匹も入れさせない、厳重な守りは、さすが天下の大大名でございます。


 けれどそこにこうして囲まれている身としての私は、守られているというよりも囚われているような心地さえして。


 土地を巡り歩く能楽師には、相応しくない館であるとそんなことを思うのです。



 もう少し、虫の声があったほうがきっと風情。

 (からす)の一羽でも鳴いてくれれば、ありがたいのに。



 静かすぎると、逆に寝付けません。

 先程の、激しい情愛を思い返せば身体が火照ってなおのこと。



「すっかり、目も覚めてしまいました」



 むくりと起き上がると、隣に置いておいた能面をそっと自らの顔に被せます。

 熱くなる内からの欲情を、抑え込むように。


 ・・・やはり、落ち着きます。


 面を外したときよりも、つけている方が安心するのでございます。

 ・・・誰にも、私の顔を見られずに済むのですから。


 未だ、日は登らない。

 灯りも何一つない、暗い暗い寝屋の中。


 私は、化け物ともいうべき男の隣で、一夜を共にしているのでございました。



「眠れぬか」



 戦場でもないのに、男は寝屋の中にまで床几(しょうぎ)を持ち込んでおりました。

 その床几の上、法衣姿でどっと腰を下ろす姿が(いび)つに見えるのでございます。



「今川の太守様があんなに激しくなさるからでございましょう?」



「無理強いはしておらぬ。激しく求めたのは、どちらか」



 その男は、化け物でございました。

 僧の格好をしておられるのに、化け物のように強欲でございます。銭も、女も、力も、血しぶきでさえも・・・あらゆるものを欲し、そして自らのものにしてきた御方でございます。


 私は、この御方ほど強欲な方は存じません。


 国さえも飲み込む、欲の化身。この乱世に全てを手に入れた、『傑物』でございます。



 私がおりますのは、駿河国。


 その中心たる、駿府。


 今川館。



 目の前にいる男こそ


 今川家当主、『今川義元』。


 駿河、遠江、三河の三国を有し『海道一の弓取り』と謳われた、天下に比類なき大大名でございました。



「・・・また面を被るのか? 良い(つら)だろうに、隠すのも勿体なかろう」



「まことにそう思っておりますか。太守様のお言葉はいつも軽うございます」



「拙僧の言葉を疑うか?」



「御坊様が女をお抱きになりますか」



「拙僧が生臭なのは見ればわかるであろう。未だ還俗(げんぞく)の身だ、剃髪してなかろう」



 姿格好だけの、御坊様でございます。法衣をまとわれてはおりますけれど、その頭は月代(さかやき)のままでございますし、頭を丸めた訳ではございません。


 今川の家督をお継ぎになる前は、仏僧だったと聞き及んでおりました。


 太守様の師であり懐刀であった高僧、『太原雪斎』様が五年前にお亡くなりになられ、それ以来太守様は好んで法衣を(まと)うようになったとか。


 自らが、太原雪斎であるかのように。



 雪斎様はそれはもう頭の切れる御仁だったらしく、今川の要というべき腹心でございました。

 『花倉の乱』と呼ばれる今川の家督争いに勝ち抜き、家督など譲られるはずのない末弟の坊主であった太守様がこうして今川の(いただき)におられるのは、全て雪斎様のお力であったと言われております。


 それが、太守様にとってはお気に召さなかったのでございましょう。

 その法衣姿は、太原雪斎がおらずとも今川は何も変わらないという意志の現れなのかもしれません。


 果たして、目の前にいる男は今川義元なのか、太原雪斎なのか。


 まぁ、どちらにしろ私には関わり合いのないことでございますけれど。



「それは無論、太守様が御坊様ではないことは存じております。かように恐ろしい御坊様はおられないでございましょう」



「拙僧が、恐ろしいか」



 真っ暗な寝屋の中、私を値踏みするように見つめる太守様の瞳だけが光っておりました。


 信勝などとは格が違う。本当の、『王』が見せるその顔・・・


 ふふっ、身震いしてしまいそうで・・・



「えぇ、太守様こそがこの東国の覇者でございますれば、私などのようなか弱い女から見ればそれはもう恐ろしく映ります」



 今川義元は、東国を牽引する傑物の一人でございます。


 尾張より東・・・西国の目が届きにくい坂東の地は古くから力の持った武家が多く群雄割拠している地でございました。


 今川をはじめとして武田、北条、佐竹、上杉、最上、伊達・・・中でも駿河の今川、甲斐の武田、相模の北条は指折りの大国でございます。


 その三家の同盟を結び合わせ、東国最大の勢力圏を築き上げたその主導者こそが、今川義元でございました。


 三国同盟の勢力は三河、遠江、駿河、信濃、甲斐、伊豆、相模、武蔵、上野の九ヶ国に及ぶ大勢力でございまして、日ノ本中を見渡してもこの勢力に並ぶものはございません。



 目の前の法衣を纏った男は、そういう男なのでございます。



「かように恐ろしいお方に目をつけられた尾張が、可哀想でございます」



 ふふっ、と笑みをこぼしながら、私は太守様にそう申しあげます。


 東国一の勢力を築き上げた今川が次にその魔手を伸ばす、その国こそ尾張でございました。

 以前から今川は長く尾張の織田と事を構えておりまして、鳴海城など調略も盛んに仕掛けていたのですけれども・・・


 ついに太守様が尾張攻めを今川家中の評定で表明したのが先日のこと。


 私が今川館に呼ばれたのも、この前まで尾張に身を寄せていた経緯があってのことでございました。



「ようやくで、ございますね」



「武田北条との調整に酷く手間取ったからな。三国は力が均衡しておることが要とはいえ、今川の勢力が広がることに奴らめは恐れておるのだろう・・・今川に出し抜かれないかと気が気でないのだ」



 「戦一つ行うだけで一苦労・・・嫌な世になったな」太守様はうんざりとした顔をされた後、くくっと喉を鳴らしてお笑いになられたのでございます。



「ようやく、拙僧の大願へと歩みを進むことができる・・・尾張は、その手始めの生贄だな」



 海道一の弓取りは、


 それはそれは、嬉しそうなお顔をなされて


 にやりと、笑みを浮かべられたのでございました。

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