表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/126

七十三話 『牢獄ノ王』 一五五七年・能面の白拍子


 末森のお城は、今ではただただ豪奢なだけの牢獄でございます。


 かつては織田家先代の信秀公が居城とされ、尾張の(まつりごと)の要となった時期もある、名高い城でございました。


 そのような由緒も、堅牢な城郭も、その立派な屋敷でさえ、痛々しく見えてしまうのは、世の流れの無情さゆえでしょうか。



 もはやこの城は、ただ見てくれが立派なだけの負け犬の小屋でございます。


 その小屋にて、鎖に繋がれているのは手負いの『王』。



 王の素質を持ち、王と名乗り、そして王たり得なかった、哀れな若い男でございました・・・



「白湯をお持ち致しました」



 突然として肌寒くなった、冬の始まりのころ。


 私が寝屋の障子を開けますと、その方は寝具に包まられながら、火鉢の中で赤く燃える炭をじっと見つめておりました。


 肌は青白く、頬は少し痩せこけ、髪はざらんと結いもせず。

 自堕落としか申しようのない男の姿が、そこにはございました。かつて、尾張の王を名乗り戦を起こした大将の面影は、もうどこにも感じらません。


 虚ろな目をした、虚ろな男。


 この、末森の城主。


 織田勘十郎信勝。



 信長に敗れ、この末森城に幽閉の憂き目にあっている男でございました。



「・・・っ、まぁこれは・・・」



 寝屋の中はいくつも並べられた火鉢の熱にむせ返りそうになるほど熱気が篭もり、とても、快適とは言い難いものでございます。

 いくら寒さが増す時節とは言いましても、ここまで部屋の中を暖めるほどは寒くありません。これでは返って、身体に毒というものでございましょう。



「ここは、熱気で淀んでおります。外の風を入れましょう」



「やめろっ!!」



 突如声を上げて怒鳴る末森のお殿様の声に、私は思わず驚いてしまいます。

 まるで、殺さんとばかりの目つきで、私を睨みつけておりました。


 とても女に向けるものではない、青白い鬼のような形相。


 殺気。



「寒くなれば、肩の傷が痛むだろうがっ・・・!!」



 「この時期はまこと不快で敵わぬ・・・」苛立ち混じりに言葉を零し、お殿様は唇を深く噛み締めます。

 そしてまた背を丸め、じっと火鉢を見つめ始めるのです。



「これは、無遠慮なことを致しました」



「そのようなこともわからぬか・・・気の利かぬ女め、全くもって使えない・・・」



 こうしてお側に仕え、身の回りのお世話をしているというのに、この御方はもうしばらく私の名を口にしておりません。呼びかけるさいにも「おい」「女」と無作法に声をかけ、まるで下女に接するような物言いで私を呼び止めるのでございました。


 相手の思いやる気など、きっとこの方に微塵も残っておられないのでしょう。

 私の名も、すっかり忘れてしまったのやも知れません。



 憎しみに囚われ、何も見えなくなってしまった男。


 目の前の、私の姿さえも。



 そんな、哀れな男が


 今の勘十郎信勝様でございます。



 稲生原の折に負った肩の傷も、もうとうに良くなったいいはずなのです。

 戦に敗れ自暴自棄となったお殿様は、(ろく)な手当ても受けずに傷を酷く化膿させておりました。

 この二年、肩の傷が原因で熱病にうなされたことも一度や二度ではございません。


 その苦しみは、謀反を起こした者への天罰であるように、私には思えてなりませんでした。


 まるで神仏にも、見放されているようで。

 仏すら、信勝よりも信長を選んだ。


 一時は信長よりも有能だと、尾張の国主に相応しいと目されていた御方であるというのに。


 世の流れの無情さというものを、感じずにはいられません。



「そう頭に血を上らせては、身体に障りまする」



「五月蝿い、黙れ」



 私がお殿様のお隣に白湯を置くと、殿様は虚ろな目でぼんやりと火鉢を見つめながら、小さなお声でぼそぼそと何を呟いておりました。


 暑さで気が重くなるような心地が漂う寝屋に、燃える炭の音だけが静かに聞こえ。



「赦さぬ・・・必ず、いつの日か殺してやる・・・」



 熱気で揺らめくその先に、末森のお殿様が見ているもの。


 止めどない憎しみから出づる、お殿様にしか見えぬ幻影でございましょうか。



「信長を・・・殺す・・・あの女もだ・・・百度殺しても飽き足らぬ・・・っ」



 呪詛の言葉が何度も、何度も、その口から紡がれます。


 その気迫は、殺気は、まるで生者のものとは思えないほどでございました。


 本当に信長を焼き殺さんとばかりに、燃えたぎる憎悪。


 けれど、お殿様は何も出来ぬ無力な囚虜でございます。


 実際に怨みに焦がれその身を焼かれているのは、末森のお殿様ご自身という、哀れな話でございました。



「女」



 不意に、お殿様は私をお呼びになられます。



「・・・いかが、致しましたか?」



「お前は、“しのび”の手の者であろう」



 その眼光は、鋭く。


 今にも、私を殺さんとばかりの目つきで。


 殿様はじっと、私の顔を睨みつけておられるのです。



 そのお顔が、私にとっては恐ろしくありました。


 お殿様のご機嫌を損ねぬよう、咄嗟に笑みを浮かべ話を濁そうとすると



「これはまた、可笑しなことを。私はただの能楽師でございます」



「どこの間者かは知らぬが、俺を見くびるなよ女」



 お殿様が私の袖を強引に掴みます。

 ぐっと私を引っ張り、私はその乱暴な腕に抗えないまま私は尻餅をつき。


 私の顎をその手で掴み、今にも接吻を行うほどに顔の近くで、末森のお殿様はじっと私を睨みつけ



「俺の下知を聞け」



 いつ書いたものなのか、懐からおもむろに一束の書状を取り出すと、不躾に私の胸に押し付けるのでした。



「これは・・・」



「美濃への書状だ。これを斎藤義龍に届けろ。義龍に兵を出させ、信長を滅ぼす・・・」



 その眼光は、その声は、背筋が凍るほど、恐ろしくありました。


 鬼か、怨霊か。


 人とは思えぬ顔で、じっと。


 じっと。



 それはもう、恨めしいという顔で。


 能面に阻まれた私の顔を、じっと睨みつけているのでした。



 このように、触れそうなほど目と鼻の先に私がいるというのに。


 この御方の目には、私のことなど映っていない。



 その憎しみを向けている先はきっと・・・



「信長と・・・あの女は必ず殺す」



 生駒、吉乃。



 あの、商人のお姫様。



 私の能面に、きっとそのお顔を映されているのでございましょう。



「・・・ふふっ」



 私は、能面の裏で、思わず笑みを零してしまいました。



 私を通してあのお姫様にお殿様が向ける激しい殺気が、余りにも心地良くて。


 その恐怖に全身にたつ鳥肌が、あまりにも気持ち良くて。



 きっと、この満たされる心地は誰に言っても理解を得ることの出来るものではないのでしょう。



 けれど、私は、“これ”が欲しかったのです。


 強く憎悪を、殺気を、他者から向けられることに。


 非道く、『生きている』ということを実感してしまうのでございます。



「承知、致しました。末森のお殿様」



 私は、殿様から不躾に手渡された密書を、両手を差し出して丁寧に受け取りおもむろに、立ち上がったのでございました。


 そして、何も言わず、寝屋と外を仕切る厚い障子を



「・・・っ!!」



 乱暴に、大きく、開いたのでございました。


 冷たい風が、一斉に熱気の溜まった寝屋を通り過ぎて。

 その、気持ちの悪い熱気も、淀んだ寝屋の様相も、強い北風にかき消され。


 末森の地に、冬が訪れるのでございます。



 何もかもを凍てつかせる、それはもう無慈悲な冬の日が。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ