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七十一話 『殿様ノ愛妾』一五五七年・吉乃


 勘十郎信勝の謀反から、一年が経った。


 尾張の情勢はすっかり落ち着きを取り戻し、一時は滅亡の危機まで追い込まれた殿様たち織田家の勢いは、戦の前まで・・・いや、それ以上のものとなって、殿様は尾張の国主さまとしてその存在を示している。


 不満分子の洗い出し、そしてその処罰を促した信勝の政変は織田家を再編成し、その団結力を高める絶好の機会になったみたい。


 五郎左殿たち母衣衆の発言力は家中で大きく勢力を伸ばしたって聞くし、今まで当主たる殿様ですら手を焼いていた譜代の家来衆の力はこの政変で大きく減退し、殿様の支配下に収まることになって。


 それまで末森に臣従していた勢力もほぼ全て、殿様に降伏した。

 柴田勝家や林佐渡守ら、信勝勢の主力を担っていた者も、全て。


 意外だったのは、それら降伏してきた者たちに、殿様は大きな処罰をすることが一切なかったことで。


 あれほどの・・・それこそ、お家が傾くほどの謀反に加担したんだ。

 殿様だって、一時はそのお命すら危ぶまれる事態にまで、追い込まれたっていうのに。


 それほどの謀反を起こしたんだ。武門の倣いに則れば良くて改易、打ち首切腹だってまだ甘いくらいの大罪だ。


 でも、殿様は林や柴田に対して陳謝の場を与えられたみたい。処断も減封と幾月の謹慎のみで、その後には家中の列席に再び加えられた。


 首魁の信勝でさえ、殿様は命を奪わなかった。末森城に幽閉し、見張りの兵をつけて監視を続けている。



 ・・・なんていうか、殿様らしいというか。殿様らしくないというか。


 なんだかんだで甘い部分を持っている・・・優しいお方だから。



 その話を聞いて、私は胸が暖かくなるような心地になったんだ。


 

 ともかく、苛烈だと周囲から思われていた殿様が、一切の粛清を行わなかった。


 その事実に、殿様の度量の広さをみなが見直し始めて。

 特に信勝についてしまった武将たちはどのような処罰が下るのかと震えていたのだけれど、殿様の寛大な処置に改めて忠義を尽くす者も数多く。


 今の織田家は、殿様を頂点にした一枚岩だ。


 もう、殿様に敵対できるような者はこの尾張には残ってない。


 織田信長さまの尾張統一も間近だと、民百姓までが噂をしている。



 全ては、良い風向きへと向かい始めていた。



「ついこの間まで、美濃からの侵攻に怯えておったとは思えないほどでございます」



 私の間者である藤吉は、そんなことを言っていた。



 道三崩れの政変から一年経ったけれど結局、美濃を支配した斎藤義龍は尾張に兵を向けることはなかった。


 斎藤道三公の同盟相手だった殿様。道三公から美濃を奪い取った義龍にとって織田は、殿様の存在は目障りなはずだ。まして、道三崩れの時に織田は美濃へ兵を出している。

 織田に報復を行う口実を、義龍は持っている。


 その状況の中で、勘十郎信勝の謀反は美濃にとって絶好の機会だったはずだ。織田家は二つに割れ、殿様の力は大きく弱まった。

 内乱の混乱に乗じて兵を上げれば、義龍は容易く尾張を手中に収めることが出来たかもしれない。


 けれど、義龍は動かなかった。

 謀反で国を奪い取った義龍が、斎藤家家臣団の掌握の手がかかっているからだと噂されていたけれど、今年に入っても動く気配は見えなくて。


 国境と街道を封鎖されて、尾張には美濃の内情は入ってこない。その真相は私たちにはわからないけれど、とにかく美濃の挙兵がないことは、尾張にとってはとても喜ばしいことだった。


 尾張はもう一度、進み始める。


 殿様の下で。


 私たちの、手で。



 散ってしまった御霊も、流れた血も。


 その業さえも、全て。抱え込んで。



 尾張は、変わっていく。


 そして、私も・・・



「お前の何が変わったのだと申すのだ」



 殿様ははっきりと、酷いくらいに、そう言った。



「変わりましたよ!! 私は、殿様の愛妾になったのですよ!!」



 その言葉に、私は思わず声を荒げて返してしまう。



 この人は、あの夜のことを忘れてしまったのだろうかっ・・・!!


 あんなに・・・思い返すだけでも恥ずかしくなるくらい、年甲斐もないことをしたっていうのに・・・っ!!



「これでも、愛妾として可愛らしい女でいようと努力して・・・っ!!」



「空回ってばかりで身になっていないがな」



 なっ・・・なんてことを言うのこの男は・・・っ!!


 厭味ったらしい笑みを浮かべて、殿様はそんな暴言を吐く。

 私をからかって楽しんでいるのが見え透いて、とっても腹が立つ。


 なまじあんなに美しい帰蝶さまを正室に持ったからか、殿様の女を見る目の物差しはやたらと肥えていらっしゃって。


 ・・・あんな天女みたいなお方と、私を比べるなっ!!


 相変わらず、情愛を交わした仲になっても、殿様の私に対する扱いはそれはもう酷いものだった。


 そのくせ、律儀に屋敷に足を運んでは寝屋を共にしてくれる。

 優しく気遣いながら、この肌を撫でてくれる。


 私のことを、大切に扱ってくれている。


 側女としては、何ひとつ殿様に不満などなくて・・・



「そのようなことを仰るわりには、絶え間なく私の下へ通われるではありませんか。このような私に、殿様は惚れられたのではないのですか」



 私を側女にして、実はまんざらでもないくせに・・・っ。


 私が口を尖らして言葉を返すと、殿様は



「わかりきったことを申すな」



 えっ・・・っ。


 不意に、殿様のお顔が間近に迫る。


 一切表情を変えないまま、殿様はじっと私の顔を見つめるから私はなんだか恥ずかしくて。



「と、殿様・・・近い、です・・・」



「お前は、俺の子を産むのだろう」



 そう仰った殿様の声は、こころなしか少し冷たく聞こえて。


 ・・・もしかして殿様、怒っていらっしゃる・・・?



「俺は、何も思わぬ女を孕ませるような節操無しではない」



「・・・っ」



 突然、唇を奪われる。


 私は、何一つ抵抗も出来なくて。



 少しの間口吸いを続けて、殿様はそっとその唇を遠ざける。


 突然のことに驚いて目を丸くする私を見て、にやりと満足そうに笑った。


 そのお顔がとても無邪気で。


 私は気が動転して。

 恥ずかしさと照れくささで顔がかぁっと紅潮してしまって。



「なっ、なっ・・・何をなさるのですかっ!!」



 慌てる私をよそに、殿様は可笑しそうに笑っている。


 私は恥ずかしくて、悔しくて、見ているこちらが腹に立つような笑みを浮かばている殿様に、文句を言うのだけれど。


 殿様は、私の話なんか全くの聞く耳持たずで。


 私は思わず、口を尖らせて頬を膨らませてしまう。



 ・・・いつもそうだ。


 このお方は、私をからかって楽しんでいる。


 私のほうが、年上であるはずなのに。


 少しは、年増を立てるような素振りを見せてくれたっていいじゃない・・・



「そんなことしなくたって、私だってわかってますよ・・・」



 殿様の、想っていらっしゃることくらい・・・



 童のように無邪気に笑う殿様が、なんだか愛らしくて。


 結局私は何も言えずに、そんな愚痴を小さくこぼしてばかりで。



 そんな、殿様との穏やかな日々の中で。


 私は『織田信長さまの愛妾』と『津島の女商人』の二足の草鞋(わらじ)を履きながら忙しなく過ごしていた。


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