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六十六話 『戦ノ後』 一五五六年・吉乃


 私は、殿様に連れられて小折の屋敷に戻っていた。


 信勝に囚われ、憔悴しきっていた私は自らの足で満足に歩くこともままならなくて。

 殿様に抱きかかえられて、そのまま二人で馬に乗り、共に小折へと送ってもらって。


 私はただ流されるまま、殿様の背にしがみついて馬に乗っていたことだけを覚えている。



 殿様は、何も言わなかった。

 黙ったまま、それが当然とでも言うように、私のことを優先してくれた。


 大将として、戦の後始末もあるはずなのに。


 五郎左殿や与兵衛殿にいくつかの下知を出すと、そのまま私を抱きかかえて。

 数人のお供の方を引き連れて、殿様は馬を走らせる。


 普段と変わらない無愛想な顔だったけれど、何だか殿様が、殿様じゃないみたいに思えて・・・

 私のことを気にかけてくれているその御心を、私はありありと感じてしまう。


 その優しさが、とても、とても、心地よくて。


 私は、じっと殿様の大きな背中にしがみついていた。



「帰って、きた・・・」



 日が沈みきった頃に、私たちは小折の屋敷にたどり着いた。

 誰もいない屋敷の中は、とても暗くて。


 殿様が篝火を灯すと、荒れ果てた屋敷の中がぼんやりと私の見える光景に映っていた。


 倒されたままの行灯。

 応接間には、ひっくり返った膳がそのままになっていて。障子には、びっしりと生々しい血の痕が残っている。


 けれど、父の亡骸(なきがら)は、どこにも見当たらなかった。


 お類の、姿もない。



「娘が、いない・・・それに、父も・・・」



 私は不安になって、思わず側にいる殿様の顔を見る。



「・・・委細は知っている。戦が始まる前に津島の者から使いがあった。お前の娘は、無事だ。店の者が保護したらしい」



 そっか・・・良かった・・・

 生駒屋の、みなが・・・


 殿様が、私を安心させる言葉をくれる。

 父の遺骸も、店の手代たちが運び出してくれていた。



「今しがた、お前の無事を津島に知らせている。落ち着いてから、生駒家宗は荼毘に付してやれ」



「ありがとうございます、殿様・・・」



 お類の無事を知って安心した途端、また不意に全身の力が抜ける。

 思わず殿様に倒れ掛かってしまって。


 再び殿様の力強い腕に抱かれるような形で、私は殿様に身体を支えてもらっていた。



「っ・・・その、申し訳ございません・・・」



「構わぬ。もう、今宵は休め」



 ぶっきらぼうに、殿様は言う。



「まだこの辺りにも、末森の残党や清洲岩倉の手勢が潜んでいるかもしれぬ。しばらくは、この屋敷は手の者に守らせる」



 ・・・そうか・・・殿様は、初めからそのつもりだったんだ。

 だから、戦の後始末も五郎左殿たちに任せて、自らの馬で私を小折まで送ってくれた。

 数人のお供の方も引き連れてきたのも、この屋敷の警邏(けいら)をするためで。


 ・・・全て、私のことを、守るためで。


「今宵は俺が側にいる」



 殿様は、私のことを心配してくれている。


 ずっと・・・今も・・・心配してくれているんだ・・・



「だから、もう案ずるな」



 この無愛想なお方の本心は、


 やっぱり、とても・・・優しくて・・・



 殿様から、その言葉をいただいたとき。


 私にとっての『稲生原の戦』は、ようやく、終わりを告げたんだって思えたんだ。





 夜も、すっかり更けてしまっていた。


 信勝に囚われてから、どれほどの時が経ってしまったのか私は知らない。

 けれど、ようやく私は土と血にまみれた着物を脱いで、行水で身を清めることが出来て。

 まだ信勝に打たれた頬がひりひりと痛んでいたけれど、身を清めたことでそれでもようやく一心地をつけるまで私の気持ちは落ち着き始めていた。


 綺麗な襦袢に身を通して、ゆっくりと寝屋に向かう。


 長かったこの一日が、ようやく終わる。


 嵐のような・・・本当、この尾張を吹き飛ばす嵐のような一日が、やっと終わる・・・



 何度も、死を覚悟した。


 それでも守らなければと、私は必死だった。


 お類のことを。殿様のことを。この尾張のことを。



 女の身で、後家の身で、囚われの身で。

 私が出来たことなんか、些細なことだけだったのかもしれない。


 それでも、こうしてみなが無事で・・・誰も失わずに済んだことが、本当に、本当に良かったって思う。


 全てが終わった今だから、心底そう思える。


 そんなことを考えながら寝屋に行くと・・・



 ふっと、つむじ風が不意に舞う。


 髪が乱れて、私の視界が覆われて。


 私は、その前髪をなんだか胸を締め付けられるような想いのまま、そっとかき分ける。


 細い一線一線の間から揺らめいて見える、そのお姿。


 縁側に腰をかけ、じっと宵の空を見上げていた。


 真ん丸とした名月が、浮かんでいる。


 今宵は、雲もない。

 ほのかに、けれど確かに照らすその光を、遮るものは何もない。


 全て、私たちに届く宵だから。


 その姿に見惚れてしまったことは、きっと仕方ない。


 

 お月さまをじっと眺めながら、何を思っていらっしゃるのだろう・・・


 その、月輪の先に。


 誰の面影を、浮かべていらっしゃるのだろう・・・



 そんな問いかけすら出来ないまま、私はただその横顔を見つめていた。



「殿、様・・・」



 月明かりが照らす、少し涼しげな宵の中。


 障子の前で、殿様が座り込んでいたんだ。



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