六十話 『信長ノ母』 一五五六年・吉乃
「・・・槍合わせが、始まったようだな」
信勝が、呟く。
遠くから絶えず、種子島を放つ音が聞こえて。
本陣の中、幔幕の内側にいる私では、風向きはわからない。
けれど、風下にいるのかもしれない。なんだか、玉薬の嫌な匂いまで漂っているような気分になって。
「ご報告っ!! 柴田様、美作守様、敵勢に打ってかかっております!!」
「信長の軍勢、防戦一方でございます!! お味方が勢いに乗って押しております!!」
「柴田隊、森、佐々の一隊と交戦中。敵を打ち崩しておりまする!!」
次々と、本陣の信勝のもとに戦況の委細が知らされる。
その報は、殿様が苦戦していることを知らせるものばかりだった。
元からの戦力差に加え、信勝勢の先手が尾張一の戦上手、『鬼柴田』ということもあって殿様は手も足も出ないようで・・・
「っ、殿様・・・!!」
歯がゆい。
悔しい。
この幔幕の向こうで、殿様が戦をなされているのに。
信勝の策略にかかり、窮地に陥っているのに・・・
何も出来ないことが悔しくて堪らない。
縄にかけられてしまっている自らの不甲斐なさに、唇を噛むことしか出来ないことが。
あの夕暮れの中で。
私たちは、殿様をお支えするのだと約束したのに・・・
私は、何をしているの・・・
私は・・・
「・・・どうして、どうしてよ・・・」
気づけば、胸の内が言葉として口から漏れ出していて。
縛られたまま、私は信勝に食って掛かっていた。
「・・・殿様は、あんたの兄上でしょう!! 血を分けた兄を、どうして討ち取ろうだなんて・・・っ!!」
「血を分けた、兄だからだ」
・・・っ!!
冷酷なほど、冷めた声で信勝は言った。
「織田は、この俺を『王』に選んだのだ。織田家当主は、二人も要らぬ。織田の御代を継ぐのは、俺だけだ」
織田が・・・信勝を選んだ・・・?
どういう、こと・・・?
「何を、わからないことを言ってるの・・・っ!!」
私が言葉を返した、その時、
「御前様の、おなりでございます!!」
幔幕の裏から声が聞こえ、ふわりと木瓜の幕が丁寧に開かれる。
戦の最中、突然の来訪者に私は思わず顔を向けた。
「えっ・・・」
目の前に現れた人物を目にして、私は呆然としてしまう。
とても、その人物がここにいることが信じられなくて。
「弥平次、さま・・・」
見間違いだとはわかっている。
けれど、けれど・・・
未だ鮮明に覚えている弥平次さまのお顔が、その来訪者と酷く被る。
弥平次さまは、亡くなったんだ。
わかっている。
第一、弥平次さまはお武家さまで、殿方だ。
目の前に現れたのは、妙齢の女の人だった。
真紅の落ち着いた柄の打ち掛けを羽織って、唇には打ち掛けと同じ色の紅を塗っていて。
綺麗な所作で一歩ずつ、優雅に歩みを進めながらその人はこちらに近づいてくる。
目尻にしわが何本かあって、お歳は四十を超えているとは思う。
その女の人は私にとって、初めてお会いする方だった。
織田家のお武家さまに、大店の旦那衆、川並衆の野武士、尾張の村々の百姓・・・私も商人として顔が広い(尾張一だと自負している)けれど、この人はきっとお会いしたこともお目にかかったこともない。
ただそのお顔は、とても、とても、見覚えがあって。
白粉で化粧をしていても、一目見ただけで見間違いそうになる、そのお顔。
その輪郭。
その目元。
その鼻筋。
打ち掛けを羽織ったその人は、弥平次さまに瓜二つの顔をされていた。
驚いて、私は未だに声も出なくて。
弥平次さまが女子で、もう少しお歳を召されればきっとこのようなお顔になるだろうと・・・そう思えるほど、似ていた。
弥平次さまに似たその女の登場に、信勝配下の武将たちが一斉に頭を下げる。私の側にいいる能面の女も、深々と拝礼の姿勢を取って。
ただ一人、信勝だけが頭も下げずに飄々とした顔で立っていた。
「勘十郎殿」
弥平次さまに似た女の人は、随分と馴れ馴れしい態度で信勝の名を呼ぶ。
「わざわざのお越し、まことご苦労と存じます。母上」
その女の問いかけに、信勝が仰々しいほど遜った態度で答える。
母上・・・
ということは、もしかして、この人が・・・
「御前、さま・・・?」
小さな声で、私は呟いていた。
弥平次さまから、そのお方の話は聞いている。
美濃の土田家から先代の織田当主、信秀公の下に嫁いだお方。
先代織田家の、正室。
殿様と信勝の、お母君。
弥平次さまの、叔母に当たる方。
『土田御前』
通称、『御前様』。
「この方が、御前さま・・・」
初めて、そのお顔を拝見した。
どういったお方なのかは、土田家に嫁いだ際に弥平次さまから伺っている。
けれど、今までお会いする機会もなくて。
弥平次さまとの婚儀の際、同じ土田家の誼として一応御前さまにも一報を入れた。形だけでもいいからと、弥平次さまが文をしたためて御前さまの女中にお渡ししたらしい。
けれど祝言にも、その後も、御前さまが私たちの前に姿を現すことはなかった。
同じ土田の者とはいえ、御前さまは先代のご正室。弥平次さまは織田家にとって一介の家来に過ぎない。ましてやその嫁であるだけの私など、御前さまに拝謁できる身分でもなくて。
「元々、御前様が織田に嫁いだのは十年以上も前の話。私も幼かったですし、同族とはいえ面識程度しかありませんでしたから、まぁ仕方のないことでしょう」
弥平次さまが、乾いた笑みを浮かべてそう言ったこと覚えている。
「それに、御前様はどうやら殿との折り合いが上手くいかないようでして・・・殿に親しい私はきっと、御前様から疎まれているのでしょうね・・・」
「どちらにせよ、吉乃殿が気に召されることではないですよ」弥平次さまが、少し影を帯びた表情で私を励ましてくれたことも。
その弥平次さまと同じ土田家のお方が、目の前にいる。
「戦の首尾は上々ですか」
「無論でございます。我が手勢が、信長の軍勢を押しております」
「そのまま、信長を押し潰してやりなさい。信秀様の威光を継ぐべきは、貴方なのです勘十郎殿」
信勝と御前さま、二人の会話を端で聞いていると、なんだか少しずつ話が読めてきて。
そうか、『織田が信勝を選んだ』というのは、そういうことなんだ・・・
先代の正室である御前さまが、殿様を見限って信勝を支持したんだ・・・
だから信勝は、大手を振って殿様に反旗を翻した。
御前さまの後押しという、大義名分があったから。
林美作ら、織田家の譜代の方たちが信勝についたのも、だからなんだ・・・
殿様と御前さまが不仲だっていうのは、弥平次さまから聞いている。
だからって・・・
殿様だって、自らの腹から産んだ子であることは違いないのに・・・
なんだか、無性に悲しくなってしまう。
同じ人の親として、自らの子をそこまで嫌悪してしまう、その感傷にあてられて。
当の御前さまは、縄にかけられた私を不意に見つけて冷たい視線を私に向ける。
「・・・この者が弥平次の、か・・・」
御前さまが私の顔を見て、つまらなさそうに呟く。
縁戚の、甥の嫁が縛られているというのに、御前さまは顔色一つ変えず私を見下していた。
その白粉に隠された冷淡な表情が、とても不気味で。
私を眺めながら、その内何を思っているのか窺い知れない怖さがあって。
弥平次さまとこんなにも似ているのに、こんなにも違う・・・
弥平次さまの表情は、いつも柔らかかった。私の方がやきもきするくらい、優しくて。
側にいると、なんだか安らぐ・・・そんな、弥平次さまらしい笑みをいつも浮かべていた。
それなのに・・・
御前さまのお顔は、こんなにも、冷たい・・・
「弥平次の嫁と初めて面を合わせたのが縄にかけられてとは、嫌な因果よな・・・」
まるで、私に同情でもするような口調で、御前さまは言った。
因・・・果・・・
「そなたも、弥平次も、信長なぞに固執しなければ・・・かようなことにならずに済んだかもしれぬのにのぅ・・・」
「固執・・・」
「佐渡や美作と同じように、早々に信長を見限っておれば、弥平次も死なずに済んだのではないのか・・・そなたも、弥平次と共に静かに暮らせたのではあるまいか・・・?」
・・・違う。
違う。
違う。
御前さまは、何もわかっていない。
私のことも、弥平次さまのことも、何も。
私は、私たちは、殿様あっての夫婦だから。
殿様がいなければ、私は弥平次さまと出会うこともなかった。
殿様がいなければ、私は弥平次さまと夫婦になることもなかった。
殿様に固執していた訳じゃない・・・
・・・ただ、殿様のお陰で結ばれた縁だったから。
二人で、殿様を支えるのだと約束したから。
そのための、夫婦だから。
殿様を見限ることなんて、あり得ない。
確かに弥平次さまを失って、とても、とても、つらいけど・・・
決して、それが殿様のせいだなんて思わない!!
後悔はしない。
私も。
きっと弥平次さまも。
二人で進んだ今までの歩みを、後悔も、否定も、したくない!!
「・・・それは、違います。御前さま」
私は、静かに言葉を返す。
「・・・土田弥平次は、織田信長さまの家来です」
縛られたままでもいい。真っ直ぐ、御前さまを見返して。
「私は、織田信長が家来、土田弥平次の妻です」
私たちは、殿様に固執した訳じゃない。
自ら、殿様をお支えするのだって決めたんだ。
二人で、そう決めたんだ。
「何も知らないくせに、わかった顔をして弥平次さまを語らないでください!!」
勝手な憶測で、私と弥平次さまのことを語るな。
そんな下手な同情なんか、欲しくない。
気づけば、私は声を荒げて御前さまに言い返していた。
御前さまの冷え切った白い顔が、動揺で歪む。
「・・・っ、なんじゃ・・・なにをたわけたことを・・・っ!!」
「私も、弥平次さまも、何があろうと殿様のお味方です!! あの方を、裏切ったりなんて断じてしない!!」
私は女で、商人だ。
殿様の家来でもなければ、織田にご奉公しなきゃいけないような立場でもない。
改めて思い返せば、別段私が殿様に通す義理なんて持ち合わせていなくて。
それでも、私は殿様をお支えするんだって決めた。
殿様と出会って、関わって、私は自らの目で『織田信長』というお方を見て。
殿様と相対するすることもあったし、共に力を合わせて楽市令の普及に力を尽くしたりもした。天王祭の時のように、殿様に振り回されることだってあった(振り回されてばっかりのような気もするけれど・・・)。
そうして殿様と関わる日々の中で、私は殿様の人となりを知ったから。
『織田信長』というお方を知ったから。
弥平次さまだって、きっと同じだ。
美濃の出で帰蝶さまの従者として尾張に渡った弥平次さまが、どうして殿様直属のご家来になったのか。
弥平次さまも自らの目で殿様を見て、接して、『織田信長』を知ったから。
このお方は、尾張の国主たりうるお方だと思ったから。
全霊をもって、お支えする価値のあるお方だと思ったから。
私は生粋の商人だ。
価値の見いだせないものを、自らの商いに引っ張ったりなどしない。
「自らの腹を痛めて産んだ子を愛せない貴女には、きっとわからない!! 殿様とまともに向き合おうともせずに、こんな下らない謀反に加担する奴らにはきっとわからない!! 殿様が今までどんな想いでこの尾張のために力を尽くしてこられたか・・・っ」
私は縛られたまま、それでも御前さまや信勝を前にして臆さずこの胸の内を言葉にして言い放つ。
顔を上げて、私は言い切る。
言い切ってやる。
「この尾張の国主さまはっ、織田信長さまただ一人ですっ!!」




