五十四話 『二人ノ喪失』 一五五六年・吉乃
私は殿様を応接の間にお通しすると、囲炉裏の茶釜で湯を沸かした。
不意の訪問だったから、殿様に出せるような良い茶葉は用意出来なかったけれど、丁寧にお茶を入れて、茶請けに干し柿をつけて。
お膳に載せて、それを応接の間に持っていくと・・・
「・・・あれ、いない・・・?」
応接の間に、殿様の姿はなくて。
あれ・・・どこに、行ったのだろう・・・
そう思って、お膳を持ったまま辺りを見回したとき、
「・・・っ」
殿、様・・・っ。
殿様は、奥の間にいた。
奥の間に作った、弥平次さまの仏前。
弥平次さまの戒名が書かれた位牌、そして、今朝取り替えたばかりの仏花の前で。
殿様は弥平次さまの仏前と向き合って、手を合わせられていたんだ。
あぁ、そっか・・・
殿様は、
弥平次さまに、手を合わせに来られたんだ・・・
そう、ですよね・・・
私は、殿様と弥平次さまの繋がりを存じている。
ただの主従の関わりだけではないんだ。殿様と弥平次さまは。
従兄弟同士で、友で・・・
殿様が最もお頼りになる、気を許したお方が弥平次さまだったから・・・
殿様は、お一人で弥平次さまに会いたかったんだ・・・
得心しながら、私は殿様のお側に腰を下ろしてお膳を置いた。
殿様はまぶたを閉じて、無心に弥平次さまに手を合わせておられて。
隣にいる私にも全く気づかなくて、私は何気なく合掌を続ける殿様の横顔を眺めていた。
・・・お痩せになった、のかな。
美丈夫な殿様の横顔は、なんだか普段より細く見えた。
お疲れなのか、色白の肌はさらに蒼白で。
少し、おやつれになっているみたいで・・・
おつらい立場を、状況を、さまざまな人から話を聞いているから。
心配、してしまう・・・
「・・・お茶を、お持ちしました」
私は殿様にお茶を勧める。
殿様は、何も言わずに私の差し出した茶碗を手にとって口をつける。美味いとも不味いと言わず、ただ黙々とお茶を飲んで。
初めて、だった。
殿様と二人きり、こうしてお茶を飲むなんて。
なんだか、こそばゆいような。
不思議な雰囲気が部屋の中に流れていて。
「・・・童は、どうした」
不意に、殿様が私に尋ねる。
殿様らしい、ぶっきらぼうな言葉で。
殿様、お類のことを、気にかけてくださっているの・・・?
お類は弥平次さまの、忘れ形見なのだから・・・?
「先ほど乳を飲んで、今は眠っています」
「であるか」ぼそりと呟くと、殿様はまたそれっきり黙ってしまって。
また、静かな時が続いていく。
外から、蝉の鳴く声が聴こえる。
普段はじりじりと五月蝿いその声も、何故か今だけはやたら遠くに感じられて。
まるで浮世じゃないみたいで。
殿様と私、二人だけ。
そんな、現実感のない時の流れに包まれていて。
「・・・暑い日が、続きますね」
ふと、私が殿様にそんな話題を振った。
「こういう日には、いつも、あの祭りのことを思い出します」
二年前の、津島神社の天王祭。
あの頃も、こういう、暑い日々が続く時節で。
「楽しかった、ですよね・・・」
自ら話しかけながら、殿様をお相手に、そんな、昔話をしていることがなんだか不思議だった。
あの頃は、商人として忙しくて。
店のことや、織田家との商い。祭りの準備までこなさなければいけなくて。
いつもその日その日のことに夢中で、昔話なんて振り返ることなんてなかった。
それが、今は殿様とそんな話をしている。
私が、武家の妻になったから・・・?
歳を取り、母になり、少しは落ち着いてきたから・・・?
それとも、弥平次さまがいなくなった喪失の気持ちからなのかな・・・
「・・・あぁ」
少し遠くを見つめながら、殿様は答える。
あの頃は・・・とても、とても、楽しかった。
私がいて、殿様がいて、帰蝶さまがいて・・・弥平次さまがいて。
楽市令のお陰で、みなが活気づいていた。
今日が豊かで、明日はきっと今日より豊かで・・・そんな日々がずっと続いていくような、そんな気がしていた。
「懐かしい、ですね・・・」
祭りの情景がありありと思い浮かんでくる。
仮装踊りの舞台の上で、殿様と二人舞いを舞ったこと。
平安貴族の男装をした私が、光源氏で。
天女の姿をした殿様が・・・
「その後に、私たちの婚儀があって。弥平次さまの下に嫁いで・・・殿様が、話をまとめてくださったのですよね。本当に、ありがとうございます。今でも、殿様には感謝しているんですよ」
私と弥平次さまの縁を結んでくださったのは、殿様だから。
「・・・くだらぬことを申すな」
冷え冷えとした口調で、殿様は言った。
殿様の表情が、不意に曇って。
怒ったような怖い顔を、鋭い視線を、私に向けていた。
「殿、様・・・」
「・・・お前の、そういうところが気に喰わぬのだ」
はっきりと、苛立ちを滲ませて殿様は言った。
どうして、殿様が怒っているのかはわかっている。
けれど、
初めて、だったんだ。
こんな、自らの感情をむき出しにした殿様を見るのは。
いつも殿様は無愛想で、自らの想いはその冷淡な表情で覆い隠してしまうから。
「何故俺を責めないっ、俺の命で、弥平次が死んだのだ。俺が、美濃への出兵を決め、俺が馬廻りに殿軍を命じ・・・っ!!」
「俺が、土田弥平次を殺したのだっ!!」
殿様が、私の胸ぐらを掴む。
私は、何の抵抗も出来なかった。殿方の乱暴な力に全く抗えなくて、ただ、なされるがまま殿様に強く引っ張られて。
私は、胸ぐらを掴まれたまま殿様と向かい合う。
目の前に、激昂された殿様の顔があって。
殿様の鼻息が、私の頬に当たっている。
「何か申せ・・・お前の旦那は、俺が殺したのだ」
こんなに、間近で殿様と向かい合うのなんて、初めてで。
とても、とても、怖かったけど。
まるで殺さんとばかりに私を睨みつける殿様の瞳から、私は目を、全く離せなかった。
だって、
憐れみの情を、感じずには入れられなかったんだ。
怒りに淀む殿様の瞳の奥がかすかに潤んでいることに、私は気づいてしまったから。
あぁ、本当に。
この御方は。
なんて、可哀想な人だろう・・・
「・・・馬鹿を、仰らないでください」
私は殿様に言い返す。
胸ぐらを、掴まれたまま。
鬼のような顔をして私を睨みつける殿様に問いかける。
「家来が殿様の代わりに死ぬのは、武士の誉れではないのですか・・・?」
・・・それが、武家の世なのではないのですか?
・・・弥平次さまは、立派に戦場で散ったのではないのですか?
なのに、殿様がそのように仰っては、
「殿様がそのようでは、弥平次さまは・・・死に損では、ないですか・・・」
死に損。
自らその言葉を口にしたとき、思わずこの苦しい感情が溢れ出して。
気づけば、涙が流れていて。
そのようなこと、仰らないでくださいよ・・・
弥平次さまが死に損だなんて、そんな酷いこと、しないでくださいよ・・・
私は・・・お類は・・・やり切れないではないですか・・・っ。
「っ・・・」
殿様は、涙を流す私に酷く動揺なされていて、申し訳なさそうにそっと私の胸ぐらから手を離した。
殿様は、何も仰らない。
口にする言葉が、あるはずもない。
殿様には、国主としての生き方しか出来なくて。
『織田信長』としての生き方しか、この御方には選べなくて。
何があろうとも。
例え、最愛の友が死のうとも。
殿様はずっと、『織田信長』さまを強いられる・・・
友の死を、嘆くことも赦されない。
友の仏前に、流す涙も持ち合わせてはいけない。
女の私は、すぐに感情を顔に出してえんえんと泣けばいい。
けどそれすら赦されない殿様は、
どれほど、苦しいのだろう・・・
どれほど、惨めな気持ちになるのだろう・・・
もう、殿様の隣に立ってくれる友はいない。
無礼なのは、わかっている。
それでも・・・
そのようなお立場の殿様が、可哀想に思えて仕方がなかったんだ・・・
それから、お茶をもう一杯飲んで、もう一度弥平次さまの仏前に手を合わせられて、殿様はお帰りになられた。
その間、ずっと、私たちは一切の言葉を交わすこともなくて。
何だか、今日一日で殿様との間に大きな溝が出来てしまったような、そんな心地を、私は抱えてしまっていた・・・




