四十三話 『織田勢ノ行軍』 一五五六年・土田弥平次
明朝に集まった織田の軍勢は、美濃へ向けて北上を開始した。
美濃へと通じる街道は、おそらく新九郎殿の軍勢に封鎖されているはず。
我々は、あえて美濃の山中を通るような裏道を通っていく。道は細く、歩きにくく、行軍は普段よりも手間と時がかかっていた。
それでも昼を迎える頃には木曽川を越え美濃へと入り、長良川に向けて兵を進めていく。
先鋒は犬千代の前田隊、内蔵助の佐々隊を先駆けとして、道案内を先日まで美濃の偵察を行っていた籐吉に任せた。
私は、五郎左とともに馬廻りとして殿のお側についている。殿の手足として刻々と届く先陣からの伝令をまとめ、意見具申をし、各隊に指示を出す参謀のような役目を与えられた。
五郎左ならともかく私などには不相応な役目だとは思ったが、何しろ美濃の土地を知っている者が織田勢の中では私と籐吉しかいない。
よく考えてみれば、確かに致し方のない配役なのかもしれないが・・・
「荷が重いお役目だ・・・」
つい、愚痴がこぼれてしまう。
「今更馬鹿なことを言うな。お前が申したことだろう、その責は果たせ」
側で馬を歩かせている殿が、鋭い目つきで私を睨みつける。
行軍の最中であるせいか、殿は普段以上に苛立っているように見えた。神経を尖らせ、まるで余裕のない顔つきでいらっしゃる。
・・・あぁ、そうだ。
ここは、もう美濃の地。我らにとって、戦場なのだ。
つい、懐かしい美濃の光景に私は気が緩んでしまっていた。
今から、戦をするのだ。
新九郎殿の大軍を相手に。
勝ち目など、まるでない戦を。
そのために、私は美濃に帰ってきた。
そのために、私はここにいるのだ。
馬に揺られ、緩んだ兜の結び目を再度結び直す。
もう一度、自らの気を引き締めるように。
・・・さぁ、戦だ。
道三様を、お救けする。
織田の軍勢は、木曽川に沿うように北上する。
進む道はやがて獣道のような細く歩きづらい道へと変わり、行軍はより一層苦戦した。
けれど、その分新九郎殿の軍勢に気付かれずに兵を進め、あと数里北上すれば長良川という位置まで行軍が完了した。
前方より、伝令の兵が殿に報告を告げる。
「先鋒の佐々隊より伝令!!」
「申せ」
「佐々、前田両隊、共に山の中の獣道を抜けたとのこと。道の先の木曽川沿いに、広々とした河原があるとのこと。佐々様より、一度そこに兵を集め陣を敷き直すべきと、意見具申あり!!」
「・・・河原? 弥平次様、何かご存知ですか?」
五郎左が、私に意見を求める。
木曽川沿いの、大きな河原・・・? 確か、これくらい木曽川を上った先にあるのは・・・
「おそらく、『大良河原』と呼ばれる場所と存じます。ここまで至れば、長良川の義龍の陣は近く。我が手勢の陣を立てるにはうってつけの場所と思います、殿」
私は殿にそのように伝える。
殿は迷うこともなく
「全隊に伝えよ。前方の大良河原にて軍を集め、陣立てをする」
そのような旨を、伝令の兵に命じた。
織田の軍勢は大良河原に集い、陣立てを始める。
隊列を組み、各々が槍、弓鉄砲を再度確認し、最後の戦支度を進める。
義龍勢の軍勢は、川沿いの森を抜けた目前だ。殿の下知が出れば、いよいよ奇襲が始まる。
鬱蒼と茂った森に囲まれた大良河原には、織田の兵が蠢き合い戦の前の異様な雰囲気が漂っていた。
私は五郎左と共にこの大良河原に本陣を立て、戦支度の指示を細かく各部隊に指示をしていたのだが・・・
不意に、殿の姿が見えないことに気づいた。
はぁ、全く、あのお方は・・・
戦に出ても変わらず勝手気ままなお人だ。
「悪い五郎左、少し頼む」
五郎左に一声かけ、私は殿を探しに本陣を出る。ふと周りを見渡したところで、川岸に腰をかけ木曽川を眺めている殿を見つけた。
「殿、何をしていらっしゃるのですか?」
私は殿に近づき、声をかける。
不意に呼ばれた殿は驚く素振りもせず、「弥平次か」と低い声で呟いた。
戦の前に気が立っているのか、いつも以上に顔をこわばらせ、鋭い目つきで私をその目に捉えているように感じた。
「戦を前に、大将が本陣から出られては困ります」
「わかっている、すぐ戻る」
そう申された殿は、いつものように無愛想ながら、どこか余裕のないように見受けられた。
・・・当然だろう。
今から、戦を行うのだ。
殿の下知一つで、采配一つで、織田の兵が死んでいく。
たくさんの者が死んでいく。
その下知を出す大将の心情とは、重圧とは、いかほどのものであろう。
端武者である私には、思いも及ばぬようなものなのだと思う。
目前に陣を構えた新九郎殿の軍勢は、二万を超える。
それに比べて、我が織田の軍勢は寡兵過ぎた。
大良河原に集まった織田の兵を、私はぐるりと眺める。
年若い武者や雑兵が多く目立つ。
殿が美濃に連れてきた織田の軍勢。
その数、千余り。
千の軍勢で二万の敵に奇襲をかけるという無謀な戦を、今から殿は行うのだ。
せめて、勘十郎様が兵を出してくれていれば・・・
出陣の陣触れの際、勘十郎様は織田の城に来なかった。
末森の城に使いを向けても、美濃への出兵を拒否する返事しか返って来ず。
それに連なるように佐渡守様や柴田様といった勘十郎様付きの譜代の方々も、兵を出すことを拒んだ。
みな、殿が不在の間、国に残って尾張を守るなどと尤もらしい理由を述べていたが、明らかに殿の美濃出兵に反対を示した出兵拒否に違いなく。
時もないなか仕方なく、殿は母衣衆を中心とした部隊を作り直し、なんとか千の軍勢だけ揃えて美濃へと出陣した。
殿と母衣衆。勘十郎様と譜代の家臣。
織田家は、はっきりとふたつに分かれてしまった。
殿は、そのような家中をどうするおつもりなのか・・・
目の前の戦にも、今後の織田家の見通しにも、大きな不安を抱えたまま殿は戦に臨まなければならない。
その肩に乗っかった、重い、重い・・・
「・・・殿」
私は、懐から吉乃殿の包みを取り出すと、殿に差し出す。
「戦の前に、腹ごしらえはどうでしょうか」
「糧食、か?」
「吉乃殿が持たせてくれました。お一つ、いかがです?」
包みを開けると大きな握り飯が三つ、姿を現す。
殿は、それを怪訝そうに眺める。
「あの女が握ったのか・・・口にできるものなのか?」
心底疑わしいと言いたげな声色で殿はそのようなことを呟くものだから、私は思わず吹き出すように笑ってしまった。
吉乃殿は、殿に一体どのような女子だと思われているのか・・・
殿にとって吉乃殿はまだ、出会ったばかりのような勝ち気で男勝りの商人なのだろうか。
あれから月日も流れ、吉乃殿はもう立派に私の妻を、武家の妻女の務めをやり遂げてくださっている。
飯も、美味いものを用意してくださる。
本当に、私には勿体無い妻で。
「大丈夫ですよ。吉乃殿の握り飯は本当に美味いのですから」
私は自信を込めて太鼓判を押した。
殿はそれでも訝しそうに眉をひそめ、恐る恐る握り飯を一つ手に取る。
握り飯ひとつにそのように不審に思うこともないだろうに・・・と思いながら、二人で吉乃殿の握り飯に齧りつき・・・
・・・・・ん?
口の中に、変な感触が残る。
「・・・おい」
殿が、顔を歪め低く唸る。
吉乃殿に渡された握り飯は、噛み切れないほどに米が硬く。
「・・・お前は常に、このような飯を喰わされているのか」
心底憐れむように、殿は私にそのような言葉をかける。
私はただ苦笑いを浮かべ、「面目ないです」と答えるしかなく。
おかしい、普段はこのようなことはないはずなのだが・・・
頼みますよ、吉乃殿・・・と思わずにはいられなかった。
吉乃殿の握り飯を、まるでするめのように噛み締め。
何気なく、殿と二人ぼんやりと木曽川の流れを眺めていた。
殿は一言も話すこともなく、黙々と咀嚼を続ける。
ふと横目で、そのような殿の顔を見たとき。
殿が、どのように思われたのか私は存じない。
ただその静かな時が、私にとっては無性に懐かしく思った。
そういえば、な・・・
随分前にも、このように殿と二人で握り飯を食っていた記憶がある。
殿が、家督を継ぐ前の『うつけ』だったころ。
ひたすら殿と道楽に連れ回されていたころ。
喧嘩の後で。市中の店先で。尾張の山野の真ん中で。
殿は母衣衆の中でも私だけを呼び、こうやって二人で路傍に座り黙々と握り飯や饅頭を食うことがあった。
なんてことのない、若い時分の記憶の一つ。
けれど、ただ、その時だけは君と臣ではない、
従兄弟として、友として、
織田信長という男と過ごしているのだと、不思議とそんな気分になったことを思い出す。
「・・・おい、弥平次」
不意に、殿が不躾な口調で声をかける。
「・・・はい、なんでしょう」
「あの時、お前らしからぬことをしたな。何故だ」
あの時・・・?
言葉足らずなその問いに一瞬首を傾げたが、すぐにそれが先日の評定のことだと気づいた。
私、らしからぬこと。
初めて、評定の場にて自らの意を具申した。
佐渡守様に楯突いた。
利のない戦だとわかっていながら、殿に出兵を促した。
全て、普段の私では決してしない行いだ。
だから、殿は疑問に思われたのだろうか。
ただ、あの時は・・・
「あれは・・・」
急に、言葉が詰まる。
どうして、あの時私は意見具申を申したのか。
その動機を、私ははっきりと自覚している。
あの日、あの場のあの評定にて。
あのように苦しそうに顔を歪めながら唇を噛む殿を見たとき。
あのお顔を見たとき、私は何も言わずにはいられなかった。
波風を立てまいと黙り、見てみぬ振りなど出来なかった。
その表情の意味を、私は知っている。
何度も、そのようなお顔をする殿を私は見てきた。
殿が家督を継ぐ前から、私は織田信長様に付き従ってきたから。
『土田』、弥平次であるから。
昔、殿は時折あのような苦いお顔をされていた。
織田家中の、元旦での挨拶にて。
先代信秀公の、葬儀の場にて。
母君、『土田御前』様の前で。
いつも、御前様の前ではあのようなお顔をされていた。
私が尾張に来た時から、殿は母君である御前様に疎まれていた。
その理由は、存じ上げていない。『うつけ』として横暴止まらぬ殿に愛想を尽かしたと噂も流れたが、側にお仕えする私には、なんだか殿が御前様の気を引くためにうつけを演じておられるようにも見えた。
卵が先か鶏が先か、それはわからない。
ただ、弟の勘十郎様を溺愛し自らを蔑み疎んじる母を、若い殿はどのように思っていらっしゃったのだろう・・・
愛してくれぬ母に向ける顔をあの日、あの表情の場で、殿は浮かべていた。
少なくとも、私にはそう見えてしまった。
きっと、殿は、
帰蝶様に、
母に疎まれた幼い己を重ね合わせてしまったのだ・・・
自らの父と兄が殺し合うことに、深く心を痛めておられる姫様に。
『親』というものを得ることができなかった殿の苦しみを。
だから、きっと。
殿は、此度の援軍を決意なされたのだ。
・・・それを、私は知ってしまったから。
織田信長というお方を。帰蝶様というお方を。
長い時の中で深く知ってしまったから。
だから、黙っていられなかったのだ。
臣として、友として、
殿に悔いを残す道を選ばせたくなかった。
ただ、それだけで・・・
「殿が、それを望んだためでありましょう。主君の意を汲むことが、家来の役目です」
そんな、当たり障りのない答えを私は殿に返した。
殿はつまらなさそうにふんっ、と鼻をならすと、握り飯の残りを豪快に口に入れて飲み込んだ。
「面白くない男だ」
「殿とは長い付き合いです、とうにご存知でしょう?」
そのような他愛もない言葉を殿と交わしていた。
その時、
「・・・・・・っ?」
ざざざっ、と辺り森から烏の群れが飛び立つ。
その、刹那に。
突如、種子島を撃った甲高い音が聞こえた。
「殿っ・・・っ!?」
何事かと殿と顔を合わせたとき
「っ!! 敵襲っ!! 敵襲っっ!!」
どこからか騒ぎ出す兵の叫び声と、緊急を告げる銅鑼の音が、五月蝿いほどに大良河原に響いていた。




