波瀬田心 一日目(一)
朝だ。
カーテンを開けると、外はもう既に明るい。
八月も下旬になり、今日も暑くなるのが陽の光で分かる。
パジャマ代わりのTシャツを脱いで制服に着替える。ワイシャツに薄手のズボンとは言え、汗だくになるのは間違いない。
八月は学生の夏休み期間だ。
それなのに、なぜ制服なんぞを着ているのか。答えは簡単だ。
補習があるのである。
夏休み前の七月上旬、僕は入院していたから、授業に出れなかった。
入院に至るまでの経緯は省略しておく。とてもみっともない理由だから。
予報では、今日は三十四度まで気温が上がると言っている。毎朝欠かさず見ているテレビ番組のお天気コーナーで言っていた。
降水確率は低いけれど、一応傘は持って行こう。夕立があったりするから。
着替えを終えてリビングに行くと、母が懸命にテレビを見ていた。母の好きなアイドルのコーナーの最中だった。
母は可愛い男の子が好きだ。アイドルも、役者も、ニュースのキャスターでさえも。
僕がリビングのドアを開けたことにも気づかず、テレビの中で笑うアイドルに熱い視線を送っている。
これじゃあ朝食なんて準備されてないだろうなぁ。
とりあえず、いつもストックされている食パンを二枚、オーブントースターで焼く。パンが焼けるまで、目玉焼きとウインナーも焼いておくことにする。
僕の朝食は大抵こんなものだ。
二学期が始まれば、母が何か作ってくれる気になるかもしれない。
母は怠け者のようだが、以前はテキパキと主婦業をこなす人だった。
不満を言うこともなく、人付き合いも上手にこなす。
父はさぞかし恵まれていることだっただろう。
今、父はいないが、聞いても答えてはくれないだろうから、聞いたことはなかった。
そんなことを考えているうちに、トーストが焼け、目玉焼きとウインナーと共に僕の腹に収まった。
時計は七時十五分を指している。
食器を洗い、身だしなみを整えて、玄関のドアを開けた。
「行ってきます」
母は聞いているのかいないのか、リビングからはテレビの音だけが漏れ聞こえていた。
僕の通う学校までは自転車で十分ほどだ。いつも早く着いてしまうのだが、家の空気の中にいるよりはマシだ。
誰もいない教室で一人、母のことを考えていた。
いつから変わってしまったんだろう。
僕では母を戻すことができない。
せめて父がいたら。
父は今、とても遠い所にいる。どうやったって行けない所に。
母もいつか、そこへ行ってしまうのではないか。
不安が胸の中で荒れ始めた。
八時二十分。
このくらいの時間になると、僕と同様に補習を受けるクラスメイトたちが登校して来る。
さっきまでの静けさが幻のように騒がしくなる教室。少しだけ、安心した。
僕はまだ、すべてを失ってはいない。
「波瀬田ー、課題やった?」
「うん。もしかしてやってないの、吉村」
吉村はあっけらかんとしている。僕の文句に顔色ひとつ変えやしない。
「見せてくれよー。俺、今日の英語で当たるんだよー」
八の字の眉で笑う吉村を、なぜか嫌いになれない。
「今回だけだからね」
僕もつくづく甘い人間だと思う。
けれど、常に他人に甘くしていなければ嫌われるのではないか、と怯えている。
嫌われるのが怖い。
みんなに好かれようとは、さすがに思わない。それは嫌われるより、ずっと難しいことだから。
吉村にノートを貸している間、空を見ていた。
雲ひとつない、快晴。まだ午前だというのに、太陽がギラギラと輝いている。
「あっついなぁ」
この学校にはクーラーがない。予算がないのだろうか。
毎年、こんな暑い中で授業をして、よく誰も倒れないものだ。
もう一度、窓から空を見て、席に戻る。
吉村はまだ、僕のノートを写している。
一日の補習を終えた帰り道は、昼間の暑さが残っていた。
結局、吉村は提出する課題までも僕のノートを写していた。先生だってバカじゃないのだから、彼の不正は気づかれるだろうに。
でも、まぁ。吉村が先生に怒られようと、関係のないことだ。
今日新たに出された課題を入れたリュックを背負い、家へと急いだ。
自転車できっかり十分。辿り着いた我が家には、相変わらずテレビの音だけが響いていた。
朝と違うのは、テレビに映る人物と、テーブルの上に散らかったお菓子のビニール袋。
「母さん、ちゃんとご飯食べなよ」
母の目はテレビに向いたままだ。
はぁ、とため息をついて片付けを始める。
夕飯は何にしよう。
考えたいことは多いけれど、目先の問題はそれだ。
米はあるから、おかずは魚にしようかな。それと、酢の物でも作ろう。
家事をするようになって一年ほどしか経っていないが、少しは主夫っぽくなったと思う。
炊飯器のタイマーをセットして、一度自分の部屋に戻る。制服から着替えるためだ。
階段を昇って右側の部屋が僕の部屋だ。東側に窓があるから、夕方は少し涼しい。
部屋のドアを開けた僕は目を疑った。
見知らぬ女性が、そこにいた。一目で日本人ではないと分かる灰色の髪が風に揺れている。
記憶のどこを探しても、その女性を見たという記憶はない。
「あの……、どちら様?」
恐る恐る声をかけると、その女性の――これも日本人ではないような――青い瞳が僕に向けられる。
すべてを見透かすような、深い青の瞳。
女性は、鈴の鳴るような声で言った。
「はじめまして、支配者候補」
にこりと笑った女性の黒いスカートが、ふわりと揺れた。




