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闇路作法  作者: 野中
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1/8

一幕

〈警告〉

悲劇になります。苦手な方は避けてください。エセ時代劇。

夜天を雲が奔った。


月が隠れる。

鋭利な鎌に似た三日月が。

地上に突き立つ月光が薄れ、世界が一時無明に消えた。

深夜の暗黒。

果てない深淵を縁取るのは、薄野。穂は、月光を含み、ほのかに輝く頭を垂れている。

月が隠れても、薄穂に白銀の光で満たされた土手を、風が乱暴に撫で上がっていった。


ざ、ざ、ざー。


穂の波が、輝きを散らせて倒れ伏す。

それらは、墨に満たされたかのごとき濃密な闇を、冷えた輝きで割り砕いた。

疾風は、秋色の中に気の早い冬を牽引している。土手の上まで駆け、一陣は空へ勢いつけて去っていった。

だが、月を覆う雲はまだ晴れない。


風に枝を蹴散らされた木から、葉が舞った。土手の上にある木だ。

葉の色は、黄、茶、紅。

闇にあってはいずれも漆黒。影絵に踊る蝶の動きで落ちていく。

それらの乾いた接吻を、濡れた大地は焦がれていた。


つい先刻、驟雨が過ぎ去ったばかりだ。

風に銀輪たる露を散らせ、水気を吸わない枯葉は、しかし幾つかが地上に抱擁を与える前に再び濡れて重みを増した。

無音で大地に降り落ちた朽ち葉。


濡れた幾つかの上に、不動の影がある。

影は、ヒトの形をしていた。

葉を再び濡らしたものの正体は、おそらくはその影。

いつからそこにいたものか。


全身、ぐっしょりと濡れそぼっている。

黒装束に黒頭巾。その姿は闇と木陰の交錯点に開いた、ヒト型の穴のようだ。

男と言うには小さい。子供と言うには、長身だ。


その手元で、何かが光った。

月の不在になんの不自由もなく輝く薄野の光よりなお、鋭く険しい光。

それが象るのは、鏃の形だ。

影は、弓矢を手にしていた。


仁王立ちの影が、ふ、と顔を上げる。

視線の先には、黒々とした流れを湛える川面があった。

一筋の流れが夜の更なる割れ目と見えた、向こう岸。

この町外れ目指して、迫り来る気配があった。複数だ。


それらを見遣り、人影は、すぅと腕を上げる。

ひた、と鏃が一方向へ据えられた。


近付く無数の気配、その先頭目がけて。



きぃ、と川面の小船が小さな悲鳴を上げた。

岸に繋ぐ縄が解けたのか、いくつか川の真ん中で迷子になっている。

その音が響いたとたん、風が止んだ。

小船の放った儚くも鋭い音に、流れを断ち切られたか。

風に乱され濁っていた夜気が、水音が、生気を取り戻す。


刹那。


雲が流れた。

月が高貴な面を現す。

月光が、しめやかに地上へ足を下ろした。

雲の動きを追って、小走りに光は大地を駆ける。

輝きの壁が、暗がりを染め抜き、押しやった。


その境界を。


ど、と闇から光の領域へ突き破ったものがある。

一見、光に抗する闇の奔流と見えた。

否、烏の集団か。

しかし、それにしては大きい。

おそらくは、ヒトであろう。


ヒトとすぐさま判断し損ねた理由は、影たちから発散される体温の低さにある。

精霊といった、神秘的な存在に近いものだと、思わず判断しそうになるほど影たちがまとう空気は静謐だった。


彼らの姿を光の中に見出した瞬間。

木陰に潜んでいた人影の、まとう空気が一変した。

殺意が、燐光となって身体を縁取る。

真っ先に、空気を貫き走ったのは、その殺気だ。


それに引き摺られ、矢が放たれた。


闇と光と風を一直線の摩擦に巻き込んで。


影たちの先頭にいたものが、鞭打たれたように顔を上げた。

刺客たる人影は、心で舌打ちを零す。

気付かれた!


悟って、奥歯を食い縛った。

この初手をしくじれば次はない。

命を狙った者の、次を許す相手ではない!


焦燥にまみれた視線の先で、矢は夜闇の中一条の光芒と化し疾駆する。

もはや止めようもない。

歯噛みすると同時に、影の集団、その先頭を駆ける人物を矢は貫いた。

真横から見れば、顔と矢が十文字に交錯した影が見えたろう。だが。


木陰に佇む人影は、息を引く。

鋭利な切っ先が引き裂いたのは。


狙った相手の鼻先まで覆った口布のみ。

しかも、それを掠め取ろうとした矢は、掴まれた。素手で。

のみならず、相手は足の速度を緩めない。

何事もなかったかのように。

だが今、その顔は露だった。






月光に撫でられた面立ちに、人影は、矢を射た姿勢のまま、視線を食い入らせる。

引き抜けない。


木陰で、逃げることも忘れ、無意識に首を横に振った。


「まさか…」


そんな、と落ちた自失の声は、うら若い少女のものである。






刺客たる人影が肝を抜かれたのは、不敵な相手の挙動ではない。

今や月光にあますところなく晒された相手の面立ちが、鉄より強く鍛えられた彼女の決意を打ちのめしたのだ。


狙ったのは、ヒトに慣れない野の獣を思わせる蓬髪。

しかし、その下から現れた顔は、気品と高貴の輪郭で彫り込まれていた。

美貌、ではないが、精悍を湛えた端正な面立ち。


その顔に少女は見覚えがあったのだ。


燃え上がった殺気が、芯まで水浸しになった心地で彼女は案山子より頼りなく突っ立った。

とは言え、少女の放心は、そう長くなかったろう。

だが、いかに短くともそれは致命的な一瞬である。

矢を掴むなり、男は背後を突き離した。

足を速めたのだ。

後続からぐんぐん距離を開ける。


驚嘆すべき神速で。


我に返った少女が肩を引いたときには、川の対岸に至っていた。早い。

その行動は、紛れもなく射手を追い詰める意思に貫かれたもの。


逃げなければ。

身を翻そうとした少女は、しかしぎょっと立ち竦む。

理由は、男の行動にあった。

彼は、川の上に身を躍らせたのだ。

なんの躊躇もなく軽々と。


冬も間近な秋の宵。

この時期、川に飛び込むのは誰しも躊躇するだろう。

下手をすれば凍死する。

驟雨に濡れ果てた少女自身、全身が氷と化したようなのだ。それを。


ぽーん、と鞠のごとくに、男の身体は跳ねた。

あ、と身を乗り出した少女の心にあったのは、彼を案ずる心のみ。

だが、すぐに心配は無用と知れた。


跳ね上がった敏捷の所作に対して、彼の身体が落ちる動きは、ふわり、と優しい。

蝶ほども体重はないのでは、と思われた足先が落ちたのは。


…川の真ん中で、迷子になった小船の上。

間髪いれず、二度目の跳躍。男の身体は浮き上がる。

ふわ、と花弁よりも軽く。

蹴りつけたはずの小船は、微動だにしない。


非常識な体術だ。


あれは本当に人間だろうか。しかし確かに、彼と同じ顔をしている。

少女の愕然とした心が、彼女の身体をその場に縛り付けた、頭上。

太い木の枝が突如撓った。

水滴が、少女の頬に乱れ落ちる。


振り仰げば、縄が絡み付いていた。

否、縄ではない。鎖だ。細い、鉄鎖だ。

それは宙に浮いた男から振り放たれていた。



来る。



彼女の理解に、おそらく男は笑った。

彼は力任せに木を引き寄せる。

無論、木を引き抜こうとしたわけではない。逆だ。

引き寄せようとする動きで、彼は一息で木に迫った。

勢いに乗って、枝を蹴る。

男の身体は地面へ落ちた。


逆手に掴まれた刃が、切っ先で地面を、刺客を、真逆落としに貫かんと走った。

少女が避けられる速さではない。

複数の所作が一呼吸のうちにおさめられた、無音の一幕。


彼女の瞳に映る切っ先の輝きが、闇に小さな日輪を象る。

「…右京さま」


相手の名を呟いたのは、相手が彼と知らなかったとは言え、命を狙ってしまった謝罪を込めてのことだ。

しかし。






それが今度は、男の肝をおしひしいだ。


「…小雪…っ!?」






幽鬼のごとく跳梁し、猛り迫った殺意が頭上を叩いた、と少女が感じたときには二人もつれ合い、川とは逆方向の土手を転がり落ちていた。

小雪の手から弓が落ちる。何が起こった。

彼女は理解できないままに転がった。

身体に痛みはない。

右京の腕が、小雪を守っているのだ。

だがたった今、その腕に振り下ろされた刃はどうなったのか。

「う、右京さ」


「しっ。…黙って、ついておいで」

土手の下、身体が止まったと思う間もなく小雪の腕を掴んで右京は駆け出した。

あれほどの動きを見せて、息のひとつも乱していない。

腕を掴まれていなければ、本当に彼はそこにいるのかと疑ってかかりたくなるほど気配もない。

「右京さま、私は」


何を言おうとしたのか。

小雪自身にも分からなかった。

彼女の心は、混乱の坩堝と化している。

今、小雪の腕を引いているのは右京だ。

彼は小雪の声を聴き、彼女の名を断定した。

ならば紛れもなくこの青年は、町の中でも大店に数えられる呉服屋風見の次男坊。


しかしその彼がなぜ。

右京は穏やかに、だが有無を言わせない命令に慣れた口調で囁いた。


「だめだよ、黙って。分かってる、君が狙ったのは盗賊の三代目如月一清。…けどだからこそ、仲間が来る前にあの場から離れておかないと。小雪の命が危ないからね」


「右京さま、アナタは」


小雪の喉が痙攣して、声が詰まった。そこでようやく自覚する。

小雪は泣いていた。


右京は、小雪にとって恩人である。


けれども。


「アナタは、三代目如月一清なんですか」






如月一清は、小雪にとって、仇であった。






行き場のない憤怒が底光る小雪の瞳に映るのは、ただひとつの影。

今、目の前を駆ける背中。

その持ち主は、彼女の腕を引き、ひた走る。


小雪の惑乱に気付いたろうに、右京は振り向きもせず清々しく応じた。






「そうだよ」






ごく当たり前の、覚悟と誇りをもって。






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