その夜
すてきな来世だ。
真剣な顔で言った馨の言葉がいつまでも頭の中で響いている。
本当にそう思ってくれたのだろうか。
それなら、一緒に死んでみようか。馨にとっての日常は、来世よりも善いものかも知れない。ならばそれを奪うことになってしまう。しかしそれならばあんな風に言うだろうか。私の明日は来世よりも善くなる可能性はないのか。思い通りの来世が来る保証などない。来世の私が私でない可能性は?
幾つもの考えが浮かび打ち消されていく間に、部屋は漆黒を纏い始める。紅い夕闇の部屋は平素以上に歪んで見えた。知らぬ間に冷えた足は痺れてしまっている。血肉を覗かせる腕にはぷつぷつと鳥肌が出ていた。
かたり、と。
玄関の方で小さな音がした。
母だろうか。田上かも知れない。あの男の顔を思い浮かべるだけでこめかみが熱くなるのを感じた。
私は立ち上がり、不格好に歩いた。
あの男が。
あの男が私をこんなに惨めにしたんだ。
田上さえいなければ、母と私は静かに暮らしていたのに、あの男のせいで私は幸福と安穏を失い、未来まで暗く閉ざされ、来世の約束まで――。
まるで重い泥を腹に抱えているようだ。これは怒りなのだろうか。体が熱い。息が詰まりそうになる。田上さえいなければいいのだ。あの男を排除すれば、私は馨と幸せになれる。
扉を開く。
その先には汚い男が立っていた。
「田上」
男は目を見開く。この薄汚い男が私を。
「お前さえいなければよかったのに」
男の後ろで白いものが動く。
「お前さえ存在ければッ」
白いものは私と同じ顔をしている。
嗚呼、母だ。
この男が、私から最初に奪ったものだ。
私はテーブルの上の灰皿をとる。硝子製のそれは重く、私はそれを両手で握らなくてはならなかった。どれくらい殴ればあの男は死ぬだろうか。
「お前のせいだ」
私は腕を振り上げた。重力の力を借りて私はそれを田上の額に打ち込む。
がすり、と汚い音がした。やはり汚い男からは汚い音しかしないのだろう。
よろけた田上の後頭部にもう一度振り落とす。
同じように何度も何度も、殴りつけた。しっかり殺さなくては。
私の息が上がった頃、先ほどと同じような音を立てて硝子の塊は私の手から滑り落ちた。見ると、田上の血と髪の毛が滑っていた。
もう大丈夫だろうかと、私は男を見た。
まだ息がある。
何故か、その横に母が死んでいた。
それも、どうだっていいのだ。今は田上を殺さなくてはいけない。
もし生きていたら、この男はまた私から何もかもを奪っていくだろう。
しかしこれでは効率が悪い。私は灰皿から包丁に持ち替えることにした。
それは灰皿よりも随分軽く、何故初めからこうしなかったのだろうと私は今更ながら後悔した。
そして、振りかぶる。
刃先はすんなり男の腹に収まった。私はそれを横に引く。
キャベツよりもすべらかに切れたが、すぐに血と脂で使えなくなった。
もう死んだだろうから、それでもいい。これで安心だ。
母はいつ死んでしまったのだろう。田上のものになったとき、もう死んでいたのかも知れない。
私は手を洗って、すっきりした、安らかな心持で部屋を後にした。
私と馨の、約束された来世に向かって。