その先に誰がいるのかも知らずに
営業部の自席に戻るころには、フロアの照明も半分ほど落ちていた。
会議室から持ち帰ったメモを机に置き、彼はパソコンを開く。社内チャット、メール、客先への返信。どれも派手な案件ではない。だが、こういう小さな継ぎ目を誰かが丁寧に塞いでおかないと、翌日にはちゃんと面倒なことになる。
「ご確認ありがとうございます。修正版のとりまとめはこちらで進めます」
送信前に一度だけ文面を見直す。強すぎないか。弱すぎて先送りに見えないか。問題ないと判断して、画面を閉じた。
今日の会議も、最後に少しだけ空気が重くなった。先方に出す企画の修正案を、営業側でまとめるか企画側でまとめるか。どちらも忙しく、どちらの言い分も間違っていない。だからこそ話が止まる。
こういう時ほど、誰かが「では、私が持ちます」と言うしかなくなる。今日も、彼はその役目を担った。
別に、嫌な仕事ではない。理不尽な相手がいるわけでもない。むしろ彼は、こういう場面で「便利な人間」として、きちんと機能していた。
丁寧で、感じがいい。
返事が早くて、しかも正確。
面倒な話でも、どちらかを悪者にせず着地させる。
うまくやれている内は、誰にも何も言われない。
「さっきは、助かりました」
隣の席から声をかけられ、彼は振り向いて笑った。
「いえ、こちらこそ」
それも、ちょうどいい温度で返せたと思う。
パソコンを落とし、鞄を持って席を立つ。オフィスビルのエレベーターに一人で乗ったところで、口元の力が少しだけ抜けた。ちゃんとしている時間が長すぎると、自分がどんな顔をしていたかったのか、たまにわからなくなるのだ。
駅へ向かう途中で、スマホが震えた。家族のグループチャットだった。実家のエアコンがまた止まったらしい。同居中の妹が短い文を立て続けに送り、少し遅れて母が「まあまあ」と入る。父の返信見当たらないが、どうせ見てはいるのだろう。画面を見ただけで、だいたいわかる。
妹は怒っているというより、この面倒を一人で抱えたくない。
母は困っているが、今日のところは揉めずに済ませたい。
父は、こういう話になると返事をしない。
「業者、こっちで探して予約しようか?」
そこまで打って、消した。
彼がやれば話は早い。しかし、業者を探し、候補を母に送り、日程を合わせ、父に対応を頼むところまで、彼が段取りを持つことになる。
今日はやりたくなかった。通知を閉じる。既読はつけなかった。
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昔、一度だけ、夕飯の席で思ったことをそのまま言ったことがある。「言いたいことがあるなら、言えばいいのに」と。
言った瞬間、箸の音が止んだ。
父は黙り、母は困った顔をして、妹まで何も言わなくなった。ほんの数秒だったのに、彼の一言で食卓の温度が一段下がったことだけは明白だった。
あとになって母に「あなたの言ったことは間違ってないけど、今じゃなかった」と諭された。
それ以来、覚えたことがある。本当のことでも、場が悪くなるなら言わないほうがいい。空気が見えていても、その場に入らないほうがマシな時がある。
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帰宅して、シャワーを浴び、適当に夕飯を済ませる。時計を見る。
ログインするには、ちょうどいい時間だった。パソコンを立ち上げる。起動画面が開き、いつもの音楽が流れた瞬間、肩の力が少しだけ抜けた。
このゲームは、ただの暇つぶしではなかった。人と関われる。でも、現実ほど近すぎない。気が乗らない日はログアウトすればいい。人と完全に離れたいわけではない。ただ、いきなり深くは関われない。
この世界は、その中間にあった。
夜の都に降り立つ。
石畳の広場、魔法灯のやわらかい光、噴水のそばでステップを踏む踊り子、頭上を横切る騎乗用飛竜。 にぎやかなのに、こちらの顔色までは見てこない。他人が多いのに、近すぎない。その雑さがありがたかった。
少し先には、ゲーム本編の続きを始める場所がまだ残っていた。前章で別れた騎士が、その先でどうなるのか――でも、今日は行く気になれない。気持ちに余裕のない夜に好きな物語へ触れると、続きを味わうというより、ただ先へ進めるだけになってしまう。好きだからこそ、そういう触れ方はしたくなかった。
画面の隅ではフレンド欄に何人か名前が灯っている。だが、フレンドに声をかける気分でもなかった。
代わりに、その場限りのメンバーで組まれる戦闘に申請を入れる。毎日一度だけ追加報酬がつく。物語を追う余裕も、フレンドに声をかける気分もない夜には、それがいちばん楽だった。
すぐに画面が切り替わり、戦闘用のフィールドへ移された。マッチング直後、チャット欄に確認が流れてきた。
「初見います?」
少し遅れて、マッチングしたアタッカーが返す。
「自分です」
その返し方で、少しわかる。この戦闘は、失敗することより、そのあとの空気が悪くなるほうが厄介かもしれない。
開始の合図と同時に、各自が散る。前に出る役、後ろから撃つ役、全体を立て直す役。立ち位置だけは最初に決まる。
敵が放つ二回目の大技で、一人が立つ場所を少し間違えた。初見だと申告したアタッカーだ。本来なら一人で受けるはずの攻撃がずれて、隣の味方まで巻き込む。ヒーラーが予定外の立て直しをすることになり、流れが一拍ぶれた。
立て直しきれず、初戦は全滅した。戦闘は最初からやり直しになる。
そのときだった。
「さっきの、外側で受けるやつです」
内容だけ見れば親切な一文だった。でも、少しだけ硬い。
「すみません」
すぐに謝罪が返る。
それきり、誰も何も言わない。画面の向こうの顔は見えないのに、気まずさだけはきれいに伝わる。謝った側は、悪意なく手順を取り違えただけだろう。言った側も、責めたいわけではない。ただ、自分の中で当然になっていることを、そのまま言っただけだ。
全部、見えている。見えているのに、何を言えば悪くならないのかが決めきれない。
軽く流したつもりで滑ったら、もっと寒くなる。
庇いすぎたら、注意した側が責めた人みたいになる。
正しいことを重ねたら、謝った側は余計に萎縮する。
迷っている間に、会話を差し込む隙は過ぎた。彼は結局、自分の攻撃を続けながら、巻き込まれた味方のそばへ少し寄った。できる範囲で崩れを支える。それで戦闘自体は問題なく終わった。
街へ戻される。ついさっきまで一緒に戦っていた面子は、もうどこにもいない。
現実よりは楽だ。一緒に何かはできる。でも、それは彼が戻る席ではない。
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広場に戻ると、仲間を募集するチャットがいくつも流れていた。同じメンバー、攻略できるまで何週間も戦い続けるチームの募集だ。先程のような、その場限りの組み合わせより、ずっと重い。
活動日があり、進行スケジュールがある。
欠席すれば予定が崩れる。
考え方が噛み合わなければ、次の集合まで気まずさが残る。
だいたいの募集文は、やたら優しくて不安になるか、やけに厳しくて息が詰まるか、そのどちらかに見えた。だから普段は、流し見するだけだ。
なのに、スクロールする指が一度だけ止まった。
現在実装されている高難度バトルコンテンツを攻略するチーム。
活動は週二回。
必要な役割と時間帯、ボイスチャットあり、事前に見ておいてほしい攻略方法、欠席時の連絡方法。
書いてあること自体はまともだった。緩すぎず、厳しすぎず、必要なことはちゃんとある。珍しい書き方ではない。
――うまくやることより、続けて一緒に考えられることを大事にしています。
――言いづらいことを黙ったままにされるほうが困るので、違和感があれば短くても教えてください。
彼はそこで、もう一度読み返した。
今日の戦闘で、自分は何も言えなかった。家族のチャットでも、結局閉じた。見えていても、場を悪くするのが怖くて、入れなかった。
なのにこの募集文は、そこを最初から言葉にしている。しかも、言えと言うだけではなく、言った分は募集主自身が拾うつもりで書かれている。
ありがちな文かもしれない。けれど、今日の彼には、そこだけ文面の温度が違って見えた。
やさしい、ではなく。
ちゃんとしている、だけでもなく。
人を責めないまま、必要なことは引き受ける言い方。
書いた人の癖なのだと思った。
どうしてこの人がこんな書き方をするのかが、気になった。
チームに入りたいわけじゃない。知らない相手と、何週間も気まずくならずにやっていける自信はなかった。
けれど、もし本当にこの文面の通りなら。
もしここが、飲み込むだけじゃなくていい場所なら。
閉じるつもりで開いた画面を、彼はまだ閉じられずにいた。




