表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/24

第20話 守る記憶

翌朝、悟志はいつもより早く研究所に着いた。


空はよく晴れていた。窓の外には、何の変哲もない朝の光が広がっている。通勤する人々も、研究所の職員たちも、普段と変わらない表情で一日を始めていた。


世界は、まだ何も知らない顔をしている。


悟志は鞄の中のノートの重みを感じながら、研究室の扉を開けた。


すでに高原がいた。


「おはようございます、小泉先生」


「早いな」


「眠れませんでした」


高原は少し気まずそうに笑った。


机の上には、高原のノートが開かれている。昨夜から何度も読み返したのだろう。ページの端が少し丸まっていた。


悟志は椅子に座り、鞄から自分のノートを取り出した。


「俺も、あまり眠れなかった」


高原はすぐに顔を上げた。


「何か見たんですか」


悟志は頷いた。


「ノアの保護記憶の断片だと思う」


高原の表情が変わった。


驚きと、緊張と、少しの期待。


だが、彼はすぐに口を閉じた。


以前なら、すぐに「何を見たんですか」と聞いていたかもしれない。けれど今は違った。


高原は自分のノートに視線を落とし、ゆっくりと言った。


「追跡はしない、ですよね」


悟志は少しだけ笑った。


「そうだ。見えたところだけ記録した」


「分かりました」


高原は姿勢を正した。


「では、聞きます。復元するためではなく、記録するために」


その言葉に、悟志は静かに頷いた。


少しずつ、皆が変わってきている。


分からないものへ飛び込むのではなく、分からないまま扱う方法を覚え始めている。


やがて、朋美、真人、涼子も研究室に入ってきた。


涼子は端末ケースを机に置くなり、悟志の顔を見た。


「見たんですね」


悟志は少し驚いた。


「分かるのか」


「顔に出ています」


「そんなにか」


「はい。今にも開けたい顔です」


「失礼だな」


「事実です」


涼子は淡々と言って、椅子に座った。


「最初に確認します。今日もノアの保護記憶の全体復元はしません」


「分かっている」


「小泉さんの“分かっている”は、ノアに関しては信用しません」


悟志は言葉に詰まった。


高原が小さく目を伏せる。朋美は何も言わなかった。真人も否定しない。


涼子は続けた。


「断片の共有のみ。空白索引への登録。危険度評価。必要なら撤退条件の見直し。それ以外はしません」


「ああ」


真人が穏やかに言った。


「まず体調を確認しましょう。頭痛、めまい、吐き気、記憶の混濁は?」


「頭痛はない。少し眠いくらいだ。記憶の混濁もないと思う」


「感情反応は?」


悟志は少し黙った。


「強い」


真人は頷き、記録した。


「感情反応、強。内容は?」


悟志はノートを開いた。


昨夜、震える手で書いた文字がそこに残っている。


夢、または記憶断片。

ユグドラシル神殿の庭。

ロキは白い石のベンチで寝ていた。

ノアが結界確認のために起こそうとしていた。

光体とピーコが近くにいた。

影がノアに接近。

ノアは結界を張ろうとしたが間に合わなかった。

ロキは眠っていたはずなのに、瞬時に反応。

金色の雷。

混沌の槍らしきもの。

発言、「ノアに触るな」

発言、「お前が危ない時くらい、寝ていても分かる」

その後、黒い修正痕で閉鎖。

追跡しなかった。


悟志は、そこまでをゆっくり読んだ。


会議室は静かだった。


誰も途中で口を挟まなかった。


読み終えた後も、しばらく沈黙が残った。


高原は息を詰めるようにしていた。


朋美は目を伏せ、何かを考えている。


真人は表情を変えず、悟志の声と呼吸の乱れを観察していた。


涼子は端末に記録しながら、最後の一文で手を止めた。


「追跡しなかった」


「そこが一番重要だと思う」


悟志は言った。


「見たい気持ちはあった。でも止まった」


涼子は少しだけ頷いた。


「良い判断です。珍しく」


「最後の一言は必要か」


「必要です。今後も同じ判断ができるとは限りません」


悟志は反論できなかった。


高原が小さく言った。


「ロキは、本当にノアさんを大切にしていたんですね」


その言葉に、悟志の胸が痛んだ。


「たぶんな」


「たぶん、ですか」


「まだ全部は思い出していない。だから断定はしない」


悟志はノートを見つめた。


「でも、あの瞬間だけは分かった。ロキは、寝ていてもノアの危険に反応した」


朋美が静かに言った。


「それは、ただの主従関係ではないわね」


真人も頷いた。


「本能的な保護反応に近い。意識より先に身体が動いている」


涼子は画面に入力した。


「ノア保護記憶。断片閲覧あり。ロキによるノア保護場面。本人感情反応、強。復元追跡なし。危険度、再評価」


高原が涼子を見る。


「危険度は上がりますか」


「上げます」


涼子は即答した。


「守る記憶は、本人の核に近い可能性が高いからです」


悟志は顔を上げた。


「守る記憶……」


涼子は端末から目を離さずに続けた。


「攻撃された記憶や恐怖の記憶も深く残ります。でも、誰かを守った記憶、誰かを守ろうとした記憶は、自己認識に直結することがあります」


真人が頷いた。


「自分が何を恐れたかより、自分が何を守ろうとしたかの方が、その人の価値観を示すことがあります」


朋美はノートに書いた。


守る記憶は、自己認識に近い。


高原も同じ言葉を書いた。


悟志はその文字を見ながら、ノアの声を思い出した。


ロキ様は、本当に大事な時だけは、絶対に起きるのです。


それは、ノアがロキを信じていた理由なのかもしれない。


涼子は空白索引を更新した。


空白五。

対象、ノア。

分類、保護記憶。

状態、断片閲覧あり。

内容、ロキによるノア保護場面。

全体復元、禁止。

危険度、中から高へ変更。

理由、本人の自己認識および守る対象に関わる可能性。

備考、断片閲覧時、追跡なし。記録安定。


高原がその画面を見て、少し息を吐いた。


「高、ですか」


「はい。避けるためではありません。扱いを間違えないためです」


涼子は悟志を見た。


「特に、小泉さんの場合は」


「俺限定か」


「はい。ノアに関しては、感情が判断を追い越す可能性があります」


悟志は黙った。


否定できなかった。


その時、検証用端末のランプが一度だけ点滅した。


全員が反応した。


涼子がすぐにログを確認する。


「EVE側に微弱反応」


「対話要求か?」


悟志が尋ねる。


「いいえ。対話要求ではありません。ログ生成です」


画面に短い文字列が浮かんだ。


涼子は目を細める。


「出ます」


全員が画面を見る。


そこには、一行だけ表示されていた。


守る記憶は、攻撃された記憶より深く閉じられる。


研究室の空気が止まった。


高原が小さく言った。


「EVEが……?」


涼子はすぐにログを確認する。


「EVEの通常応答層からではありません。未定義反応に近い領域から生成されています。ただし、外部接続要求はありません」


朋美が慎重に言った。


「EVEは、ノアの話を聞いていたの?」


「接続は閉じています」


涼子は画面を見つめたまま答えた。


「少なくとも、通常の意味では聞いていません」


真人が眉をひそめた。


「では、なぜ反応したのでしょう」


「分かりません」


涼子は短く言った。


「ただ、EVEの未定義反応は、“守る記憶”という概念に反応した」


悟志は画面の一文を見つめた。


守る記憶は、攻撃された記憶より深く閉じられる。


その言葉は、ひどく重かった。


なぜなら、心当たりがあったからだ。


ノアを守った記憶は閉じられていた。


黒い修正痕の向こうに隠されていた。


攻撃されたからではない。


守ったから、閉じられていたのかもしれない。


高原が恐る恐る尋ねた。


「守る記憶って、どうして深く閉じられるんでしょう」


真人が少し考えてから答えた。


「守る記憶には、責任が伴うからかもしれません」


「責任……」


「誰かを守った記憶は、同時に、守れなかった時の恐怖ともつながります。失いたくないものが何かを思い出すことになる」


悟志は胸の奥を押さえた。


ノア。


大切だった。


たぶん、今も。


その言葉を書いた時の感覚が蘇る。


思い出せば、守りたい気持ちも戻る。


だが同時に、失う恐怖も戻る。


閉じられている理由が、少しだけ見えた気がした。


朋美が静かに言った。


「それなら、ノア項目が危険度高なのは当然ね」


涼子は頷いた。


「はい。開けた瞬間、感情だけでなく行動判断にも影響する可能性があります」


高原が悟志を見た。


「先生、大丈夫ですか」


悟志は少しだけ笑った。


「大丈夫じゃないけど、大丈夫だ」


「どっちですか」


「今は、分けて考えられている」


悟志はノートを指した。


「見たこと。感じたこと。解釈しないこと。その三つに分ければ、まだ立っていられる」


真人は静かに頷いた。


「それで十分です」


涼子はEVEのログを空白索引に追加した。


EVE未定義反応。

ノア断片共有後、ログ生成。

文言、「守る記憶は、攻撃された記憶より深く閉じられる」

通常応答層ではない。

外部接続要求なし。

復元禁止。

対話は行わない。


「EVEとは話さないんですか」


高原が聞く。


涼子は首を横に振った。


「今日は話しません。出てきた一文に飛びつくのは、研究ではなく反射です」


高原は黙って頷いた。


朋美が静かに言った。


「名前の時と同じね。押しつけない」


「はい」


涼子は答えた。


「EVEにも、解釈を押しつけません」


午後、森野夫妻にも記録が共有された。


美砂は画面越しに、悟志の記録を静かに読んだ。


「守る記憶……」


宙も慎重に言った。


「私たちの夢とは違う種類の記憶ですね」


「ああ」


悟志は答えた。


「ガイアやウラノスの夢は、名前への反応だった。今回のノアの記憶は、関係性への反応だと思う」


「関係性……」


美砂は胸に手を当てた。


「名前よりも深いかもしれないわね」


宙は静かに頷いた。


「自分が何者かより、自分が誰を守りたいか。その方が根本に近い場合もある」


涼子はその言葉も記録した。


悟志は画面越しに二人を見た。


「無理に自分の夢へつなげないでください」


美砂は少しだけ笑った。


「あなたがそれを言うのね」


「言われ続けて覚えました」


「ノアさんのおかげ?」


「たぶんな」


その名を口にした時、悟志の声は少しだけ柔らかくなった。


美砂はそれ以上、何も言わなかった。


会議が終わる頃、涼子が新しい方針を提示した。


「ノアの保護記憶については、今後三段階で扱います」


彼女はホワイトボードに書いた。


第一段階、断片記録。

第二段階、反応照合。

第三段階、条件確認。


「今は第一段階です。断片を記録するだけ」


高原が尋ねた。


「第二段階は?」


「同じ断片に対して、他の人、EVE、ピーコ、空白索引がどう反応するかを照合する」


「第三段階は?」


「その記憶に触れる条件が何かを確認する。ただし、復元ではありません」


悟志はホワイトボードを見つめた。


少しずつ、扱い方が見えてきている。


闇雲に開けるのではない。


閉じられているものに、乱暴に手をかけるのではない。


どこまで近づけるのか。


何に反応するのか。


誰が苦しくなるのか。


それを確かめながら進む。


悟志は、自分のノートに書いた。


ノアの保護記憶は、開ける対象ではない。

向き合う対象。

ノアを思い出すことは、ロキを思い出すことでもある。

ただし、急がない。


その時、悟志のスマートフォンが震えた。


表示されたのは、家庭用見守りカメラの自動通知だった。


リビングで動体検知。


悟志は映像を開いた。


映っていたのは、ピーコのかごだった。


ピーコは止まり木の上で、羽を少しふくらませている。


部屋には誰もいない。


ベルは画面の端で眠っている。


ピーコが、ゆっくりと羽を広げた。


その羽の周りに、淡い光のようなものが一瞬だけ揺れる。


次の瞬間、映像の一部が滲んだ。


ピーコの輪郭だけが、まるで水面越しに見ているようにぼやける。


音声が入る。


「まもる」


悟志は息を止めた。


ピーコはもう一度、小さく鳴いた。


「ノア、まもる」


映像はそこで通常に戻った。


涼子がすぐに言った。


「そのまま共有しないでください。可愛いから大丈夫、という判断が一番危ないです」


悟志はスマートフォンを涼子に渡した。


涼子は映像を検証環境へ直接コピーせず、まず外部保存を止めた。


「映像の該当部分だけ、電子媒体で空白化する可能性があります」


高原が緊張した声で言った。


「ピーコも、空白索引の対象になりますか」


涼子は少しだけ沈黙した。


それから、画面を見たまま答えた。


「なります」


朋美は不安そうに悟志を見る。


悟志は静かに頷いた。


「ただし、ピーコの力とは断定しない」


涼子は新しい項目を作った。


空白七。

対象、ピーコ。

状態、未定義。

反応、ノア保護記憶共有後、遠隔発話。

発話、「まもる」「ノア、まもる」

映像、該当部分に滲み。

力の発現とは断定しない。

観察のみ。

復元禁止。


高原が画面を見つめる。


「ピーコ……」


「まだ未定義です」


涼子は強く言った。


「ここで“ピーコは何かの力を持っている”と決めるのは早い」


「はい」


悟志は映像の中のピーコを見つめた。


ピーコは小さなセキセイインコだ。


現実世界では、ただの家族の一員だった。


朝に鳴き、餌を食べ、時々片言で言葉を真似する。


そのピーコが、異世界の記憶に反応している。


ノア。


ロキ。


名前。


声。


そして、守ること。


悟志は胸の奥が静かに震えるのを感じた。


まだ、ピーコに何が起きているのかを決める段階ではない。


だが、ピーコがただの傍観者ではないことも、もう隠しきれなくなり始めていた。


その日の記録会議は、予定より長引いた。


最後に真人が全員へ確認した。


「今日分かったことを整理します」


彼はホワイトボードに書いた。


一、悟志はノア保護記憶の断片を見た。

二、追跡はしなかった。

三、EVEの未定義反応が「守る記憶」に反応した。

四、ピーコにも遠隔反応があった。

五、ノア、EVE、ピーコの三つが「守る」という語で接続した可能性がある。

六、ただし、いずれも断定しない。


涼子が最後に一行を追加した。


七、守る記憶は、開けるより先に守る。


悟志はその言葉を見つめた。


守る記憶を守る。


変な表現だ。


けれど、今の彼らには必要な言葉だった。


ノアを思い出したい。


だが、その記憶を壊してまで見たいわけではない。


ノアが大切だったなら。


なおさら、乱暴に開けてはいけない。


夕方、研究所を出る時、高原が悟志に言った。


「先生」


「何だ」


「ロキがノアさんを守った記憶、僕は少し羨ましいと思いました」


悟志は驚いて高原を見た。


高原は少し照れたように笑った。


「誰かをそこまで大切にできるって、すごいと思って」


悟志はすぐには答えられなかった。


自分が見た記憶は、まだ断片でしかない。


だが、高原の言葉は胸に残った。


「そうだな」


悟志は静かに言った。


「俺も、そう思う」


その夜、悟志は家に帰ると、まずピーコのかごの前に立った。


ピーコはいつも通り、止まり木の上で羽をふくらませていた。


「ただいま、ピーコ」


「おかえり!」


その声は、いつものピーコだった。


悟志は少し笑った。


「今日は、お前も記録されたぞ」


ピーコは首をかしげる。


「ピーコ、いいこ!」


「ああ。いい子だ」


悟志はしばらくピーコを見つめた。


ノアを守った記憶。


ピーコの反応。


EVEの一文。


すべてが、少しずつつながり始めている。


だが、まだ急がない。


悟志はリビングのテーブルでノートを開いた。


今日の最後の記録を書く。


ノアの保護記憶は、ロキ個人の記憶に見える。

しかし、EVEとピーコも反応した。

ロキがノアを守った個人的な記憶であると同時に、「守る」という構造にも反応している可能性がある。

ただし断定しない。

ノアを思い出すことは、ノアの記憶を守ることでもある。

急がない。


ペンを置いた時、ピーコが小さく鳴いた。


「まもる」


悟志は顔を上げた。


「何を守るんだ?」


ピーコは首をかしげた。


少し間を置いて、片言で言った。


「たいせつ」


悟志は何も言えなかった。


朋美がそっと隣に来て、ノートに一行を書き足した。


ピーコ発話。

「たいせつ」

対象不明。

ただし、ノア記憶後の反応として保存。


悟志はその文字を見つめた。


たいせつ。


その一言だけで十分だった。


今は、まだそれ以上を求めなくていい。


窓の外には、夜の街の光が広がっている。


世界はまだ、平穏な顔をしている。


だが悟志たちは、その内側で静かに積み重ねていた。


忘れないための記録を。


閉じられたものを壊さないための方法を。


そして、大切なものを大切なまま守るための約束を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ