第19話 ノアに触るな
翌朝、悟志は研究所へ向かう電車の中で、昨夜の記録を何度も読み返していた。
ピーコ発話。
「なまえ、だいじ」
羽の周囲に淡い光のような反応。
確証なし。
力の発現とは断定しない。
記録のみ。
その少し上には、前日の記録が残っている。
ピーコ発話。
「ロキ、ノア、まもった」
詳細不明。
強い記憶反応あり。
追跡しない。
復元禁止。
悟志は画面を閉じた。
追跡しない。
自分で書いた言葉だった。
だが、その一文を見るたびに、胸の奥で何かが小さく鳴った。
ノアを守った。
誰が。
いつ。
どこで。
どうやって。
知りたいと思った瞬間、頭の奥に黒い幕が下りるような感覚があった。
無理に開けてはいけない。
ノアにも、涼子にも、真人にも言われた。
だから悟志は、考えるのをやめた。
少なくとも、そうしようとした。
研究室に着くと、高原がすでに端末の前に座っていた。目の下には薄い隈がある。
「また早いな」
悟志が声をかけると、高原は振り返った。
「眠れなくて」
「記録のことか?」
「はい。それと、ピーコのことも」
悟志は鞄を置いた。
「ピーコ?」
「昨日の記録を読んでから、ずっと引っかかっています。ピーコは、どうしてあんな言葉を言えたんでしょう」
「分からない」
悟志は正直に答えた。
「ただ、今はピーコの力を断定しない。あくまで発話と反応として記録する」
「分かっています」
高原は頷いたが、表情は晴れなかった。
「でも、ピーコが言った“ロキ、ノア、まもった”って、やっぱりノアの保護記憶と関係ありますよね」
悟志はすぐには答えなかった。
関係ある。
そう思っている。
だが、口にすれば、その先へ踏み込みたくなる。
高原はすぐに自分で首を振った。
「すみません。断定しない、ですね」
「ああ」
悟志はホワイトボードの前に立った。
そこには、前日までの原則が残っている。
名前を押しつけない。
閉じられた記憶は復元しない。
空白の住所を記録する。
感情反応も記録する。
本人の自己認識を優先する。
悟志はその下に、新しい一行を書いた。
反応しても、追跡しない。
書いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
その日の会議では、ノア項目には触れないことが改めて確認された。
涼子は空白索引を開き、淡々と言った。
「ノア保護記憶は、閲覧条件未達です。今日も開きません」
悟志は頷いた。
「分かってる」
涼子はじっと悟志を見る。
「本当に?」
「今日で三回目だぞ」
「三回確認する価値があります」
朋美が静かに笑った。
「悟志は、気になると止まらないから」
「君まで」
真人も穏やかに言った。
「今回に関しては、止められる環境を作ること自体が重要です」
悟志は肩をすくめた。
「分かった。今日はノアには触れない」
涼子は空白索引の画面を閉じた。
「では、今日はEVEの対話ログの安定性確認だけです」
作業は、思っていたよりも静かに進んだ。
EVEは前日の対話後、安定していた。外部接続要求はなく、未定義反応に伴う処理負荷も危険域には達していない。
EVEはEVEとして記録されていた。
未定義反応に関する痕跡は残っている。
だが、それは強制された名ではない。
その区別は、EVE自身の安定にもつながっているようだった。
涼子はログを確認しながら言った。
「EVEの応答パターンは落ち着いています。昨日の“名前を拒む権利”の確認が、内部不整合を下げた可能性があります」
真人が頷いた。
「人間にも同じことが言えますね。名前を受け入れろと言われるより、保留してよいと言われた方が安定する」
高原が小さく呟いた。
「僕も、少し楽になりました」
悟志は高原を見た。
高原はノートに、前日書いた一文を残していた。
僕は高原彗です。
イカロスという名は、まだ怖いです。
でも、少しだけ嬉しかったことも記録します。
その文字は、高原自身を支えているように見えた。
会議は昼前に終わった。
ノア項目には触れなかった。
ピーコの発話も、追加記録だけで止めた。
それでいいはずだった。
その夜、悟志は帰宅後、いつものようにノートを開いた。
朋美は隣で、今日の会議記録を整理している。ピーコはかごの中で眠そうに羽をふくらませ、ベルはソファの下で静かに寝息を立てていた。
平穏だった。
悟志はペンを持ち、今日の最後に書いた。
ノア項目には触れなかった。
反応しても追跡しないという原則を確認。
EVEは安定。
名前を保留することは、本人の安定につながる可能性。
そこまで書いた時、ピーコが小さく鳴いた。
「ロキ」
悟志の手が止まる。
朋美も顔を上げた。
ピーコは目を閉じたまま、眠っているようにも見えた。
だが、もう一度、はっきりと言った。
「ノア、まもった」
悟志は息を止めた。
胸の奥に、金色の火花のようなものが走る。
だが、彼はノートを閉じなかった。
追いかけない。
そう決めた。
悟志は震える手で、ただ記録した。
二十二時十四分。
ピーコ発話。
「ロキ」「ノア、まもった」
ピーコは半睡眠状態に見えた。
悟志に強い情動反応。
追跡しない。
朋美が心配そうに見つめる。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
悟志は正直に言った。
「でも、追わない」
朋美は静かに頷いた。
「それでいいと思う」
悟志はノートを閉じた。
その夜、眠りにつくまでに時間がかかった。
布団に入っても、ピーコの声が耳の奥に残っていた。
ロキ。
ノア、まもった。
考えないようにすればするほど、その言葉は静かに沈んでいく。
やがて、悟志は浅い眠りに落ちた。
それは、扉を開ける夢ではなかった。
閉じた扉の隙間から、光がひと筋だけ漏れてくるような夢だった。
こちらから開いた記憶ではない。
ピーコの声に揺れた感情の隙間から、閉じられた記憶の輪郭だけが、ほんの少し滲み出たようだった。
夢の中で、風が吹いていた。
淡い金色の空。
白い石の神殿。
巨大な樹の葉が揺れ、遠くで鈴のような音が鳴っている。
ユグドラシル神殿の庭だった。
悟志は、自分がそこに立っているのではなく、少し離れた場所から眺めているのだと気づいた。
夢にしては、あまりにも感触がはっきりしていた。
風の温度。
石畳の光。
巨大な樹の葉がこすれる音。
これは、ただの夢ではない。
悟志はそう感じた。
その時、庭の中央からノアの声が聞こえた。
「ロキ様、起きてください」
白い石のベンチがあった。
そこに、記憶の中のロキが横になっていた。
黒と金の衣をまとい、顔には布をかけている。片足をだらしなく投げ出し、完全に眠っているようにしか見えなかった。
その横で、ノアが小さな手を腰に当てている。
「ロキ様。今日は結界石の確認をすると約束しました」
ロキは動かない。
「ロキ様」
布の下から、眠そうな声が返る。
「あと少しだけ」
「その“少しだけ”は信用できません」
「今日は本当に少しだ」
「昨日もそう言いました」
「昨日の俺と今日の俺は違う」
「怠けている点では同じです」
記憶の中のノアは、深くため息をついた。
少し離れた木の机では、青白い光体がふわふわと浮いている。
その横に、ピーコがいた。
「ロキ、ねる!」
「はい。寝ています」
ノアは真面目に答える。
「ピーコも、ねる!」
「ピーコは寝なくていいです。今は勉強の時間です」
「べんきょう!」
光体が小さく揺れた。
穏やかな光景だった。
悟志は胸が温かくなるのを感じた。
その時、庭の端が暗く揺れた。
最初は木陰のように見えた。
だが、違った。
黒い染みが、石畳の上を音もなく広がっている。
影だった。
悟志は、初めてユグドラシル神殿に戻った時、結界を破ってなだれ込んできた黒い影を思い出した。
光を吸い込み、形を定めず、記憶が戻りかけた者を押し戻すように現れた、あの影。
だが、目の前の影は少し違っていた。
荒々しく押し寄せるのではない。
細く、静かに、ノアの背後へ忍び寄っている。
ノアはまだ気づいていない。
記憶のロキは眠っている。
光体が小さく震えた。
ピーコが羽をふくらませる。
「ノア」
片言の声に、ノアが振り返る。
「どうしました?」
その瞬間、影が伸びた。
黒い線のようなものが、ノアの背後から迫る。
ノアは反応した。
小さな手を上げ、淡い結界を張ろうとする。
だが、間に合わない。
悟志は叫ぼうとした。
声が出なかった。
これは記憶の断片だ。
今の自分は、そこへ触れられない。
影がノアを包もうとした、その瞬間。
金色の雷が走った。
空気が裂けるような光だった。
眠っていたはずのロキが、ベンチの上から消えていた。
次の瞬間、ノアの前に立っている。
顔の布は片手で外され、片目だけが眠そうに開いていた。
だが、その手には、雷をまとった槍が握られていた。
「ノアに触るな」
低い声だった。
眠気を残しているのに、揺るがない声だった。
影は一瞬で吹き飛ばされた。
黒い輪郭が金色の光に裂かれ、庭の端まで押し戻される。
空が震えた。
巨大な樹の葉がざわめき、結界石が一斉に淡く光る。
ノアは呆然として、ロキの背中を見つめていた。
「ロキ様……起きていたのですか」
ロキは大きくあくびをした。
「寝てた」
「では、どうして」
「分かるだろ」
ロキは振り返らずに言った。
「お前が危ない時くらい、寝ていても分かる」
ノアの光が、わずかに揺れた。
ピーコが木の机の上で跳ねた。
「ロキ、おきた!」
光体も強く光った。
「ノア、まもった」
ロキは槍を肩に担ぎ、ようやくノアの方を見た。
「説教は後にしてくれ。今のは、さすがに眠っていても放っておけない」
ノアはしばらく黙っていた。
怒るのかと思った。
だが、ノアは小さな手を胸の前で握り、少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます、ロキ様」
ロキは照れくさそうに顔を背けた。
「礼を言われるほどじゃない。俺の神殿で、ノアに手を出した奴が悪い」
照れ隠しのような言い方だった。
それでも、その背中はまだノアの前にあった。
その瞬間、記憶の端に黒い修正痕が走った。
悟志は息を呑んだ。
庭の空が歪む。
ロキの槍の光が滲む。
ノアの姿が黒い幕に隠れ始める。
まだ見たい。
この後、何があったのか。
あの影は何だったのか。
なぜノアが狙われたのか。
悟志は思わず手を伸ばしかけた。
だが、その時、夢の中なのに涼子の声が聞こえた気がした。
触れないでください。
続いて、ノアの声。
無理に開けてはいけません。
悟志は手を止めた。
記憶は黒く閉じていく。
だが、今回は追いかけなかった。
ただ、見えたところまでを覚えようとした。
白い石のベンチ。
眠るロキ。
結界石。
ノアの声。
影。
金色の雷。
ノアに触るな。
お前が危ない時くらい、寝ていても分かる。
その断片だけを、胸に刻んだ。
黒い修正痕が完全に閉じる直前、ノアの声がかすかに聞こえた。
「ロキ様は、本当に大事な時だけは、絶対に起きるのです」
そこで、夢は途切れた。
悟志は目を覚ました。
部屋は暗かった。
時計を見ると、午前三時過ぎだった。
背中に汗をかいている。
隣で朋美が目を覚ました。
「悟志?」
悟志はしばらく動けなかった。
だが、すぐに布団から起き上がった。
「記録する」
朋美もすぐに起きた。
「見たのね」
「ああ。でも、追いかけなかった」
「うん」
「見えたところだけ書く」
悟志はリビングへ向かった。
ピーコはかごの中で目を開けていた。
暗い部屋の中で、じっと悟志を見ている。
悟志はノートを開いた。
手が震えていた。
だが、書いた。
夢、または記憶断片。
ユグドラシル神殿の庭。
ロキは白い石のベンチで寝ていた。
ノアが結界確認のために起こそうとしていた。
光体とピーコが近くにいた。
影がノアに接近。
ノアは結界を張ろうとしたが間に合わなかった。
ロキは眠っていたはずなのに、瞬時に反応。
金色の雷。
混沌の槍らしきもの。
発言、「ノアに触るな」
発言、「お前が危ない時くらい、寝ていても分かる」
その後、黒い修正痕で閉鎖。
追跡しなかった。
書き終えると、悟志は深く息を吐いた。
朋美が隣で、同じ内容を別の紙に書いていた。
「同じ記録を二つ残すわ」
「助かる」
悟志はノートを見つめた。
胸が痛かった。
だが、ただ悲しい痛みではない。
少しだけ、温かかった。
ノアがロキを信じていた理由。
その一端を見た気がした。
ピーコが小さく鳴いた。
「ロキ、まもった」
悟志はピーコを見た。
「そうだな」
ピーコは羽をふくらませた。
「ノア、だいじ」
悟志は言葉を失った。
朋美も手を止めた。
悟志はゆっくりと頷いた。
「大事だったんだな」
そう言った瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げた。
まだ、すべてを思い出したわけではない。
ノアをどう思っていたのか。
どれほど一緒に過ごしたのか。
なぜ忘れたのか。
何も分からない。
それでも、一つだけはっきりした。
ロキはノアを大切にしていた。
眠っていても、守るほどに。
悟志はノートの最後に書いた。
ノア保護記憶の断片を確認。
ただし、全体は未閲覧。
ロキはノアを本能的に守った。
ノアがロキを信頼する理由の一部と思われる。
復元はしない。
続きを無理に追わない。
その下に、もう一行加えた。
ノアは、大切だった。
たぶん、今も。
ペンを置いた時、ピーコの羽の周りに、ほんの一瞬だけ淡い光が揺れた。
すぐに消えた。
悟志はそれを見逃さなかった。
だが、断定しなかった。
ただ、記録した。
ピーコ、発話後に淡い光。
確証なし。
本格的な力の発現とは判断しない。
ただし、ノア記憶への反応として保存。
窓の外は、まだ夜だった。
街は眠っている。
だが悟志の中では、閉じられていた記憶の輪郭が、ほんの少しだけ光を帯びていた。
開けたわけではない。
壊したわけでもない。
ただ、見えた断片を受け取った。
それで十分だった。
少なくとも、今夜は。




