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第六話:浮き粉の謎

 第632環、黒曜月の週四巡目、火律かりつ。陽1刻を告げる「初明けの鐘」が鳴り響くよりも少し前、マーレンの住宅街にあるチヅルたちの借家では、すでに三人が身支度を整えていた。リビングの明かりの下、チヅルはベッドの下に眠らせていた特殊装備を広げた。前日の作戦会議で決まった通り、今日からは調査任務が始まる。いつか必要になると思い、彼女が事前に馴染みの防具屋で特注しておいたのだが、チヅル本人は、こんなに早く出番が来るとは思っていなかった。


「わぁ、これがあたしたちの装備? なんだか、格好いいわね」


 ラズベルが感嘆の声を漏らしながら、ダークグリーンの生地に触れた。上服はフードとネックゲイターが一体となった弾力と伸縮性があるスリムなチュニック。下服は足捌きを邪魔しないスリムなズボンで、上服と同じように弾力と伸縮性がある。どちらの素材も同じもので、汚れや傷に強く、魔物の鋭い爪でも容易には裂けない特殊な魔法繊維が織り込まれている。


「あたしの元の世界にいた『トクシュブタイ』の隊員みたいじゃん。たまにはこういう、シュッとしたのも悪くないな」


 ユイは鏡の前で手早く着替えを済ませると、腰に白綱しらつなを差し、満足げに微笑んだ。セーラー服とは一転して、夜の森に溶け込むようなその姿は、一人の剣士としての鋭さをより際立たせている。


 ラズベルも続いて着替えを終えたが、鏡に映った自分を見て少し頬を赤らめた。


「ちょっと、胸のあたりがきつい気がするけれど……でも、すごく動きやすいわ。ふふっ、見てチヅルちゃん。こうやってネックゲイターを鼻まで上げると……あたし、盗賊みたいじゃない?」


 ラズベルがくすくすと笑いながらフードを深く被る。そのお茶目な姿に、チヅルもつられて顔を綻ばせた。


「こんなに早く、隠密スーツの出番がやってくるとは思わなかったから、まだフィッティングを済ませてないんだけど……」


 そう言いながら、ラズベルの胸を見て、自分の胸を見た。チヅルは最後に静音仕様ブーツのベルトの締まり具合を確認した。歩行音が極力出ないように加工された底が、床を静かに捉える。スーツの下には、いつものお気に入りである革製のチョーカーが、彼女のネックラインにしっかりと馴染んでいた。


「よし。じゃあ行こうか。……あ、ごめん。あたし、ちょっと寄り道したいところがあるから、二人は先にギルドへ向かっててくれるかな?」


「寄り道? こんな早朝に?」


 ユイが不思議そうに首を傾げたが、チヅルは「すぐに追いつくから」と笑って手を振り、一足先に玄関を飛び出していった。


***


 チヅルが向かったのは、借家から数ブロック離れた場所にある一軒の「お弁当屋」だった。早朝の潮風が吹き抜ける中、店先にはすでに明かりが灯り、白い湯気が立ち上っている。この店は近隣の教会向けに生麩なまふを製造して卸しており、店主のおばちゃんは夜通し作業をしていることをチヅルは知っていた。


「ごめんくださーい! おばちゃん、いる?」


 チヅルが声をかけると、奥から粉まみれのエプロンをした、恰幅の良い女性が顔を出した。


「おや、チヅルじゃないか。こんな早くに、またお腹を空かせたのかい?」


「ううん、今日は買い物。……おばちゃん、浮きうきこを20Kg、売ってもらえるかな?」


 チヅルの言葉に、おばちゃんは目を丸くして手を止めた。


「浮き粉を20Kgだって? 生麩を作る時に出る、あの小麦の澱粉だろう? そんなに大量にどうするんだい。パンを焼くにしても、混ぜる量に限界があるよ」


「ちょっと、使うあてがあってさ。無理かな?」


 おばちゃんはチヅルの真剣な眼差し、そして何よりそのダークグリーンのスーツをじっと見つめ、何かを察したようにニヤリと笑った。


「……ふふ、今からひと仕事かい? いいよ、たくさん余ってるから、好きなだけ持っていきな。で、煙幕にでも使うつもりかい?」


「あはは、さすがおばちゃん! するどいね!」


 チヅルは肯定も否定もせず、代金の銀貨1枚をカウンターに置いた。運ばれてきた大きな袋二つ分の浮き粉。チヅルはそれを抱え上げると、腰のマジックポーチに収納し始めた。ポーチの入り口が光を放ち、20Kgの粉を吸い込んでいく。常備しているスリンガーや礫、財布、スクロール等の備品が入っており、更に大きな麻袋を飲み込んだことで、収容力はほぼ限界に近かった。


「……ふぅ、ギリギリ入ったかな」


 チヅルは額に浮かんだ汗を拭い、ポーチの重み(といっても、魔法で収容物の重みはほぼ感じないが)を確かめた。


「怪我だけはするんじゃないよ、チヅル。あんた、うっかりしてるんだからさ」


 おばちゃんの不器用な、けれど温かい言葉に、チヅルは足を止めて振り返った。


「ありがとう、おばちゃん。……必ず戻ってくるから、その時はまた最高の日替わり弁当を作ってね」


 チヅルは短く応じると、陽光が差し始め、黄金色に染まり始めた石畳を全速力で駆け出した。


***


 ギルド「潮鳴りの鉄錨」の前には、前日の作戦会議で手配されていた六頭立ての大型馬車が、威風堂々と横付けされていた。定員20人乗りの頑丈な造りで、荷台には支援物資の結界石や信号弾がすでに積み込まれている。


「おっ、チヅルが来た!」


 馬車の側で待っていたユイが声を上げた。ラズベルとマリア、そしてゼッペル、エマ、シービィたちのパーティー――計12名のEランク冒険者たちも、すでに全員が集合していた。三人の隠密スーツ姿に、若手冒険者たちは「本気なんだな……」と圧倒されたような表情を見せている。


「待たせてごめん! ……あ、マリアさん。ごきげんよう!」


 駆け寄るチヅルに、受付嬢のマリアが目を丸くした。


「ごきげんよう、チヅルさん。……ずいぶんと息を切らして。寄り道って、おやつでも買ってきたのかしら?」


「違うよ。これ、仕入れてきたんだ」


 チヅルがマジックポーチをポンと叩くと、ユイが眉を寄せた。


「仕入れたって……お前、さっきお弁当屋の方へ行ってただろ? 何をそんなにパンパンに詰めてるんだよ」


「浮き粉を20Kgほどね。必要になるかもしれないものだから」


「浮き粉?」


 その場にいた全員が、きょとんとして顔を見合わせた。


「え、浮き粉って……何に使うんだよ、それ」


 ユイの至極真っ当な疑問に、ラズベルも首を傾げる。


「もしかして、野営でパンケーキでも作るつもりかしら? でも、20Kgって……それ、全部食べるつもりなの、チヅルちゃん?」


「さすがにそれはないよ。ていうか、食料にするつもりはないから。……でも、たぶん使うことになると思うよ。あたしの中の羅針盤がそう言ってるんだ」


 チヅルが含み笑いをしながら煙に巻くと、一同はそれ以上突っ込むことができなかった。彼女の強運と直感の鋭さは、すでにパーティー内では「理屈を超えたもの」として受け入れられつつあったからだ。


***


 支援物資の最終点検が終わる。金貨3枚分に相当するハイヒールポーションが5本、そして結界石が3個。赤色信号弾が10組。これらすべてがエマたちの管理する馬車の保管箱に収められた。


 いよいよ出発の時。いつもは事務的に冒険者を見送るマリアが、一歩前に進み出た。彼女の手は少しだけ震えており、その表情には受付嬢という立場を超えた、個人的な祈りが滲んでいた。


「……どうか、無事で。全員で、帰ってきてください」


 その静かで重みのある声に、馬車の周囲が静まり返った。チヅルは大型馬車のステップに足をかけ、振り返ってマリアに最高の笑みを向けた。


「任せて。あたしたちは冒険者なんだよ。できるだけ早く、詳細な情報を載せた報告書をマジックダヴで飛ばすから」


「……ふふっ。チヅルさんらしいですね。待っていますわ」


 マリアがようやく、いつもの穏やかな微笑みを取り戻した。陽1刻を告げる「初明けの鐘」が、マーレンの空に高らかに鳴り響く。


「さて、行こうか! ローガン村へ!」


 チヅルの号令と共に、15名の冒険者を乗せた六頭立ての馬車が動き出した。石畳を叩く蹄の音。冬の穏やかな朝日を背に受けて、チヅル一行は未知なる死線へと向かって、港湾都市を後にした。


 マジックポーチの中に重く沈む、20Kgの白い粉。それが何をもたらすのかを、この時まだ、チヅル含め誰も知る由はなかった。


いよいよ出発です!

明日はお昼12時過ぎと夜19時過ぎの更新になります。

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