第一話:黒曜月の朝
はじめまして!
本作は全二十七話を予定している作品です。
毎日更新でGW期間中に全話お届けします。
まずは本話を含め本日中に三話連続で投稿します。
チヅルたちの冒険を最後までお楽しみください!
(……ふかふか、きもちいいー)
意識が覚醒の淵を漂う中、チヅル・ルナデウスが真っ先に感じたのは、頬を包み込む柔らかなシーツの感触だった。カーテンの隙間から差し込む光が、瞼の裏を淡く白く染めている。
「……ん」
薄紫の猫耳をぴこりと動かし、チヅルはゆっくりと体を起こした。無意識に首元へ手をやったが、そこにはいつも肌身離さず着けている革製のチョーカーがない。寝る前に外して枕元に置いたのを思い出し、彼女は小さく息を吐いた。
ここは、港湾都市マーレンの住宅街にある彼女たちの新しい拠点で、引っ越してからまだひと月にも満たない。元々この借家は、マーレンでの仕事が軌道に乗ってきたチヅルが、宿暮らしから卒業するために自分一人で住むつもりで探していた物件だった。彼女には、かつて王都のあるリアス島でひと財産を築いた蓄えがある。さらに先日のジャイアントボア討伐でまとまった報酬を得たことが、この高級物件を契約する最後の一押しとなったのだ。
ある晩、宿の食堂でチヅルが引っ越しの予定を切り出すと、共に過ごしてきた二人は感慨深げに言葉を返した。
「へぇ、チヅルちゃん、宿生活を卒業するんだね」
ラズベルが少し寂しそうに微笑むと、隣でエールの入ったジョッキを傾けていたユイも、自身の荷物が散らかった部屋を思い浮かべながら呟いた。
「あたしもそろそろ宿生活とおさらばしないといけねーな。……正直、羨ましいぜ」
二人の反応を見たチヅルは、ふと、広い新居で一人きりで過ごす寂しさを想像した。蓄えも報酬も十分にある。それなら、気心の知れた仲間と一緒の方が楽しいに決まっている。
「じゃぁ、一緒に住もうよ! パーティーの拠点としても機能するし、どうかなぁ?」
思いがけない提案に、二人は顔を見合わせて驚いたものの、すぐに弾んだ声で快諾した。
このような経緯があり、三人の共同生活が始まったのである。
窓の外からは、遠く「初明けの鐘」の音が響いてきた。陽1刻。第632環、黒曜月の四巡目。新たな七律の始まりの日、光律の朝を告げる音である。
「……いい気持ち」
暦の上では冬の第10月『黒曜月』だが、このカルディアス大陸の平野部は、一環を通して極めて穏やかな気候に恵まれている。窓を開ければ、そこにあるのは春先のような涼やかで清々しい風だ。寝起きの体に心地よい刺激を与えてくれる優しい空気が、部屋の中へと流れ込んできた。
チヅルは、胸元に三つのボタンが付いた膝下丈のネグリジェ姿のまま、ふらふらと一階へ降りていった。階段を降りきると、香ばしいパンの匂いと、何かがじゅうじゅうと焼ける小気味よい音がリビングまで漂ってくる。
「おはよう、ラズベルちゃん」
「おはよう、チヅルちゃん。もう起きたのね、偉いわ」
アイランドキッチンに立っていたのは、桃色の髪を揺らすラズベルだ。既に三角頭巾を被り、白のワンピースにエプロンといういつもの格好に着替えている。
「……いい匂い。お腹空いちゃった」
「ふふ、もうすぐできるわよ。あら、チヅルちゃん、寝癖がついてるわ。後で直してあげるわね」
ラズベルが柔らかい笑みを浮かべ、手際よく木皿にオムレツを盛り付けていたその時、二階からドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。チヅルと同じく膝下丈のネグリジェ姿のユイが、目をこすりながら降りてくる。
「……おはよー。あ、やべ、もう飯?」
ユイの寝衣は胸元のボタンがいくつか外れており、健康的な肌が少しばかり大胆に覗いていた。それを見たラズベルが、困ったように眉を下げる。
「おはよう、ユイちゃん。……もう、前が開いてるわよ。女の子なんだから、もう少し気をつけなさいな」
「あぁ……。サンキュ」
指摘されたユイは特に恥じ入る様子もなく、気の抜けた返事をしながら指先で不器用にボタンを留めた。そのままふらりと椅子に座り、卓上の水差しに手を伸ばす。
「二人とも、お顔を洗っておいで。朝食にするわよ」
***
朝食のテーブルには、焼きたてのパン、具だくさんのスープ、および新鮮な野菜が並んでいた。
「マジでこの七律の間は、久しぶりにマーレンの日常を満喫した気がする。……あー、美味い。ラズベルの飯は世界一だわ」
ユイが大きな口でパンを頬張る。休暇の間に引越しを終え、家具や生活用品を購入し、さらに十分な休養をとった彼女たちは、冒険者稼業をひととき忘れ、この新居を整えることに費やしてきた。
「ユイちゃんったら、お口の周りにジャムがついてるわよ。……ねえ、チヅルちゃん。三巡目は丸々、冒険とはまた違った意味で充実できたわね」
「うん。ようやくマーレンが生活拠点として、実感が湧いてきた。……でも、今日からまた冒険者として、依頼を受ける生活に戻らなきゃね」
チヅルはスープを一口啜り、温かさが体に染み渡るのを感じた。
「報酬が一人あたり銀貨150枚もあったからこそ、こうして腰を落ち着けられたんだし。しっかり稼いで、この生活を守っていきたいな」
「だな。チヅルに誘ってもらわなきゃ、まだ宿屋暮らしの放浪生活から抜け出せてなかったわけだし。……よーし、あたしも気合入れるわ」
ユイが拳を握り、満足げに微笑んだ。
***
朝食を終えた彼女たちは、それぞれの部屋に戻って身支度を整えた。
寝衣をハンガーにひっかけ、いつもの探索用衣装に着替えたチヅルは、鏡の前でポニーテールを結び直し、革製のチョーカーを首に巻いた。これをつけると、冒険者としてのスイッチが入るような気がするのだ。腰には愛用のミスリル製短刀を帯び、マジックポーチの具合を確かめた。
ユイもセーラー服に着替え、髪を後ろでまとめたあと、腰のベルトに白い鞘に収まった刀剣を引っ掛けた。魔刀白綱。転移時に持ち込んだ日本刀だが、その際、ユイ自身の魔力回路と同調し、魔刀へと変質したものだ。最後にウェストポーチを締め、二階から降りてくる。
家を出ると、黒曜月の穏やかな潮風が彼女たちの頬を優しく撫でた。住宅街の石畳には柔らかな陽光が降り注ぎ、冬の朝特有の澄んだ光を反射している。ヴァノス王国でも指折りの規模を誇る港湾都市マーレンは、常に活気と喧騒に満ちた賑やかな街だ。数多くの冒険者が集う場所でありながら、治安は驚くほど安定しており、その心地よさは定住を決めた大きな理由の一つでもあった。
「ふぅ……。気持ちいい朝だね」
チヅルは大きく背伸びをした。150Cmの視界から見るマーレンの街並みは、冒険者生活をしてきた中で一番落ち着く場所になりつつある。
「そうね。黒曜月になっても、こうして日差しが暖かいのはありがたいわね」
「……そうだな。あたしが元いた世界じゃ、この季節になるとマジでもっと寒くてさ。大雪でガッコウが休みになることもあったんだよな」
不意に、ユイが空を見上げて独り言のように言った。
「ガッコウ? ……それにユイちゃん、街に大雪が降るっていうことなの?」
チヅルが小首をかしげると、ユイはしまったという顔をして、頬をポリポリと掻いた。
「えっと、ガッコウは……アカデミーみたいなところ。大勢の子供が集まって勉強する場所だよ。で、あたしのいた世界では、街にも雪が、こう、ドバーッて降ってきて、街中を真っ白に埋め尽くすこともあったんだよ」
「街中を真っ白に埋め尽くすって……」
チヅルは驚きを隠せなかった。ラズベルも目を丸くして身を乗り出す。
「まあ、雪ならあたしの故郷――ルミナス山脈の中腹にある町でも、冬に少し登れば見られたけれど……街を埋め尽くすなんて聞いたことがないわ」
「うん、あたしも流浪の旅の途中で、寒い地方を通った時に見たことはあるよ。でも、ふわふわした綿みたいに降るだけで、村や町が動かなくなるほどじゃなかったな」
二人の反応に、ユイは「あー、やっぱそうだよな」と苦笑した。
「場所によるんだけど、マジで、家から出られなくなるくらい積もるんだぜ。それが当たり前の自然現象だったんだよな」
大雪の話にもまして、チヅルとラズベルが更に衝撃を受けたのは、もう一つの言葉だった。
「ねえ、ユイちゃん。その『ガッコウ』っていうのは……本当に小さな子供たちが、みんなで勉強しにいく場所なの?」
チヅルの問いに、ユイは「ああ。義務教育っつーか、基本みんな行くもんだぜ」と頷く。
「信じられないわね……。この世界でアカデミーといったら、貴族様や大商人、あるいは稀に見る才能を認められた一部のヒト族にしか門戸が開かれていない場所なのに」
「そうだね。あたしたちみたいな庶民には、一生縁がないような遠い存在だよね。そんな場所に、子供がみんな通えるなんて……」
ラズベルもチヅルも、文化の違いを痛感し、思わずため息をついた。ユイの世界は、厳しい自然環境を持ちながらも、誰もが等しく知を得られるという、この世界から見ればまるでお伽噺のような場所なのだ。
***
潮鳴りの鉄錨――冒険者ギルドの看板が、石造りの建物の上に見えてきたころ、不意にチヅルは石畳の継ぎ目でつまずいた。転びはしなかったが、足元を確かめるように一度立ち止まった。
「今、転びそうになった?」
ユイがからかうように声をかける。
「ならなかった。でもなんか踏んだっぽいんだよね」
そう言いながら、チヅルが足元を確かめると、石畳の隙間に、小さな銅色の何かが挟まっている。拾い上げると、それは朝の陽光を受けてきれいに輝く大銅貨だった。
「……拾っちゃった」
「なんていうか、理屈じゃないんだよな。そのただでは転ばない強運」
ユイが呆れたように、けれどどこか感心したように肩をすくめる。
「いやだから、転んでないってば」
「ふふ、まあ、チヅルちゃんらしいわね」
ラズベルがくすくすと笑い、三人は再び歩き出した。
ギルドの扉が近づいてくる。マーレンに来てから、何度この扉をくぐっただろう。最初は遠慮がちに開けていた大扉も、今では堂々と確かな足取りで押すことができる。扉の向こうからは、すでに活気に満ちたいくつもの声が漏れ聞こえていた。常連の冒険者たちが朝早くから集まっているのだろう。掲示板の依頼書の前で唸る声、昨日の討伐の顛末を自慢げに語る声、カウンターで受付嬢と交わされる事務的なやりとり。その騒がしい喧騒の中に、いつもの馴染み深い声が混じっているはずだ。
チヅルは扉に手をかけた。
「さぁ、行きますか!」
七律の間、休暇に充てて蓄えた活力は十分だ。その先に広がる幾多の志が渦巻く喧騒の中、幸運の羅針盤が指し示す新たな冒険への扉が、今ここに開かれようとしている。
お読みいただきありがとうございます。
この後、第二話、第三話を順次公開する予定です。
お楽しみに!




