第75話 誰にも名前を呼ばれなかった日々を
火がぱちりとはぜた。
夜の静けさの中で、その音だけが柔らかく響いた。
ユイは焚き火のそばにしゃがみこみ、乾いた枝を一本ずつ足していく。
炎が揺れ、オレンジ色の光が夜闇に滲んでいく。
ノームコードは少し離れた場所に座っていた。
焚き火に背を向けるでも、正面から見つめるでもなく。
ただその場に“存在している”というだけの姿だった。
「寒くないかな」
リルがぽつりとつぶやいた。
「焚き火、もう少し近くに来ればいいのに……」
「……あの距離が、彼にとっての“精一杯”なんだろうね」
ユイの声は焚き火と同じくらい静かで、あたたかかった。
「……そっか。無理に引っ張るんじゃなくて、待っててあげたほうがいいんだね」
リルは立ち上がり、ミレから受け取った毛布を手にノームコードのもとへと向かった。
ノームコードは動かない。
けれど、リルが近づいても拒絶の気配はなかった。
彼女はそっと膝をつき、何も言わずに毛布を膝の上に置いた。
そして静かに立ち上がり、また焚き火の方へと戻っていく。
ノームコードの視線は炎の揺らぎに向けられたままだった。
けれどその手が、そっと毛布に伸びる。
指先がかすかに震えていたが、それは確かに“受け取った”という意思だった。
セラが観測端末に目を落とす。
「祈念核の波動、極めて安定。揺らぎもノイズもない。……ここまでの安定は記録にないわ」
「彼は、恐れてる。でも、怯えてはいない。……たぶん、自分と向き合ってるんだ」
ユイは焚き火を見つめたまま言った。
「“誰かに決められる”んじゃなくて、自分で“自分”を選ぼうとしてる。……それって、すごいことだよ」
「普通は、名前がないと不安よ。何者かでいたくて、意味を与えてほしくなる。……でも彼は、その不確かさに向き合ってる」
セラはノームコードの横顔を見つめた。
ユイもまた、静かに頷く。
リルが戻ってきて、焚き火の向かいに腰を下ろす。
「毛布、ちゃんと握ってた。……そっとだけど」
「うん。たぶん、それが彼の“ありがとう”なんだと思う」
ミレが少し離れた岩に腰かけて、空を見上げた。
「……夜って、深くなると、音がよく聞こえるよね。焚き火の音も、草の音も、自分の心音も」
「それが怖いときもあるけど……今日は違う。誰かがいるから、ちゃんと“ここにいる”って思える」
「“誰かと一緒にいる”って、それだけで、自分の存在を肯定できる。……僕は、そう思う」
ユイの声は静かだった。
けれど、その言葉はたしかに皆に届いていた。
そのときだった。
森の奥の空気が変わった。
セラが顔を上げる。
「……祈念圧が変化。これは……」
ミレも立ち上がる。
「ノームコードの、じゃないよね?」
「違う。もっと重い。……揺らぎが、ない」
霧が静かに裂けた。
黒衣の人物が、音もなく姿を現す。
その存在だけで、空気が張り詰める。
セラがその姿を見て、目を見開いた。
「……ソル・マギア第二席、“アナタ”……!」
◇ ◇ ◇
森の奥、霧の向こう。
黒衣をまとった人物は、ただ無言でそこに立っていた。
顔は覆面で隠されており、年齢も性別もわからない。
だが、その気配は尋常ではなかった。
空気が、ぴんと張り詰める。
誰もが、息を呑んだ。
「……ソル・マギア第二席、“アナタ”」
セラの声が、わずかに震えた。
「なぜ、ここに」
黒衣の人物――“アナタ”は応えない。
ただ、霧の奥からゆっくりと一歩を踏み出す。
足音はしない。
けれど、その気配だけで地面が沈むような重圧があった。
ミレがユイの前に立つ。
肩越しに、ノームコードのほうへ目を走らせる。
「ユイ、祈念体を守って。私たちが時間を稼ぐ」
「……わかった。でも、できれば――傷つけないで」
その言葉に、アナタの足が止まる。
「願いか」
初めて発せられた声は、中性的で、ひどく冷たい響きを持っていた。
それでいて、どこか機械的な抑揚すら感じさせる。
「この世界に、“祈念されているもの”を留めておくことは構造上、極めて不安定だ。
異物は構造を乱す。構造を乱すものは、排除される」
「……それが、あなたの“役割”なの?」
ユイが一歩前に出る。
焚き火の明かりが彼の横顔を照らす。
「誰かが選んだ正しさの中で、人を定義するのが“魔導師団”のやり方?」
「我々は観測し、記録し、保全する。それは機能。意思ではない。
ゆえに、個の感情に左右されてはならない」
「じゃあ、僕がここで“拒否”したら?」
「あなたは、僕らを……この子を、壊すの?」
アナタの頭が、ゆっくりと傾いた。
まるで、その問いの意味を理解しようとしているかのように。
「観測対象が反応した。構造上、例外事象が発生」
「ユイ、来るよ!」
セラが叫ぶと同時に、周囲の風が逆巻いた。
アナタの足元に、転移魔法陣――アストラル・コードが展開される。
紋様は高速で輝き、周囲の大気を一瞬で凍らせた。
「この速さ……!」
セラが咄嗟に詠唱を始め、ミレが両手を広げて防壁を展開する。
ユイはノームコードの前に立ち、祈るように手を伸ばした。
風が弾ける。
大気が逆流する。
アナタの姿が、一瞬でユイの正面に現れる。
その手には武器もなく、魔法の詠唱もなかった。
けれど――その存在そのものが、攻撃だった。
「来るなっ!」
ユイの叫びとともに、大地が跳ね上がる。
地を這うように放たれたユイの魔力が、アナタの足元を抉る。
だが、それは触れることすらできなかった。
アナタは“ずれていた”。
この空間に確かに存在しているはずなのに、どこか歪んでいる。
「干渉が……届かない……?」
ユイが歯を食いしばる。
アナタの手が、ゆっくりとこちらへ伸びてきた。
「やめて!」
その声に、空気が一瞬、止まった。
叫んだのは――リルだった。
彼女はユイの背後から飛び出し、両手を広げて立ちはだかる。
アナタの動きが、止まる。
その目が、彼女を見た。
無感情に、機械のように、ただ“観測”するように。
ユイが、叫ぶ。
「リル、下がって!」
けれどリルは動かなかった。
震える足を踏ん張り、必死に立ち続けていた。
「お願い、やめて……この子は、誰も傷つけない……!」
アナタの手が止まり、そのまま空中で静止する。
まるで、判断を保留しているように。
そして、霧が再び吹き上がった。
アナタの姿が、次の瞬間には消えていた。
◇ ◇ ◇
霧が静かに晴れていく。
そこには、誰の姿もなかった。
ユイは息を殺すように立ち尽くしていた。
その前にはリル。
彼女はまだ、微かに肩を震わせていた。
「リル……無事?」
ユイがそっと声をかけると、彼女は振り返って小さく頷いた。
「うん、大丈夫……たぶん」
その目は怯えていた。
でも、それ以上に強かった。
ミレが駆け寄って、彼女の肩を支える。
「無茶しすぎ。怖くなかったの?」
「怖かったよ。でも……でも、止めなきゃって思ったの。
あの人、すごく冷たかった。何も感じてないみたいで……それが一番、怖かった」
リルの言葉に、セラが頷く。
「……あれが、“構造維持機構”の本質よ。感情を持たないまま、“正しさ”だけを貫く。それが魔導師団の“深層”」
「ソル・マギア……の、もう一つの顔」
ユイはゆっくりと立ち上がり、ノームコードの前に視線を向けた。
ノームコードは微動だにせず、焚き火の灯りを静かに見つめていた。
「……大丈夫だよ。もう、誰も君を連れていったりしない」
そう言って、ユイはそっとその隣に座る。
ノームコードは、ほんのわずかに顔をユイのほうへ向けた。
目が合う。
けれど、何も言わない。
ただ、その無言が――ほんのすこしだけ、優しくなっていた。
「この子、まだ“話す”ってことも知らないのかな……?」
リルが不思議そうに首を傾げる。
「もしかしたら、そうかも。記憶や感情を断片的にしか持ってないなら、言葉という概念そのものがないのかも」
セラが静かに答える。
「じゃあ、これから教えてあげようよ」
ミレの言葉に、ユイが頷く。
「名前も、気持ちも。ゆっくりでいいから、一緒に覚えていこう」
ノームコードの目が、ほんの少しだけ見開かれる。
そして、わずかに視線を落とし――膝の上の毛布を、握りしめた。
焚き火が、ぱちりとはぜる。
その音は、さっきよりも少しだけあたたかかった。




