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第70話 言葉を捨てた者が、まだ願うなら

黒杭が崩れ、空が静かになる。


だが、戦いは終わっていなかった。


シグラは、なお立っていた。


祈念を拒絶し、名を否定しながら、

それでも“何か”を胸に秘めている顔をしていた。



「……なぜ、立っていられる?」


セラが低く呟く。


「祈念核は限界。名の構造も崩れかけてる。

それなのに、あいつは――」



ユイは、ゆっくりと歩みを進めた。


「君は……“それでも残ってるもの”があるんだろ?」


「名も祈りも捨てたのに、

君はまだ、“この世界に立っている”」



シグラは口元を動かした。


「……皮肉なものだ」


「祈りを否定した私が、祈りに抗っている」



ユイは立ち止まる。


「だったら、“最後に話そう”」


「君が祈りを拒んだ理由を。

君が名を否定した理由を――」


「“僕に聞かせてくれ”」


◇ ◇ ◇


沈黙の中で、シグラは語り始めた。


「……私は、かつて名を持っていた」


「美しい名だった。

 誰かが私を呼んでくれたとき、私は“生きている”と感じた」


「だが、それは――戦火の中で、意味を失った」



かつて、彼は祈念都市の研究者だった。


名を記録し、祈りの強度を測り、

“感情の再構築技術”を開発していた。


だが、ある日――祈念構造の崩壊が起きた。


一斉に、名が消える事件。


“祈念杭爆縮”による、都市規模の喪失。


そのとき彼は、最も愛していた人の名前を忘れた。



「名前が、消えた。

 その人がいた記録すら、私の中から抹消された」


「なのに、私の“胸の痛み”だけが残ったんだ」


「私は、信じていた。“名”さえあれば、存在は永遠に残ると」


「でも――それは幻想だった」



ユイは、目を伏せた。



「君は……“祈りが壊れた”ときに、

“もう何も信じられなくなった”んだね」



シグラは頷く。


「私は……名前が届かない者たちを見た」

「記されなかった命を、何度も拾い上げた」

「だが、それらは――私の中に、痛みしか残さなかった」


「それなら、最初から祈られなければよかった。

 名などなければ、失うこともない。

 私は、そう思うようになった」



ユイは、胸の内に溜まっていた言葉を吐き出すように言った。


「それでも……君がその人を想っていたってことだけは、

なくならなかったんじゃないのか?」



シグラが一瞬、目を見開く。



「名が消えても、記録がなくても、

君がその人を想った“感情”は、消えてない」


「だから、君は今でも、こうして――

祈りを否定しながら、“祈ってる”」


「“あのとき届かなかった祈りが、もし届いていたら”って、

ずっと、心の奥で叫んでる」


◇ ◇ ◇


ユイの言葉に、シグラの祈念核が微かに揺れた。


それは祈念構造の動作ではない。

感情としての、“揺らぎ”だった。



「……それが、何になる」


「名を失った人は、もう還らない」

「私が今さら、想いを語ったところで――」



「でも、それでもいいんだよ」


ユイはまっすぐに言った。


「それでも君が、“まだ覚えていた”ことが、

もうそれだけで――その人は“ここにいた”ことになる」


「世界に認識されなくても、祈念波に記録されてなくても――」


「君が想い続けていた限り、

その人の存在は、どこかで、確かに続いてたんだ」



シグラの唇がわずかに震えた。


その瞳に、何かが揺れる。



ユイは、ゆっくりと歩き出す。


近づく。シグラの真正面に。


そして、そっと手を差し出す。



「名がなくてもいい。

今、言葉が出なくてもいい」


「でも……もし、君が“まだ願いたい”なら」


「その祈りを、僕と一緒に祈ろう」



沈黙。


風が止まった。


世界が凍るような、音のない時間。



そして――


シグラが、崩れた。


地面に膝をつき、頭を抱え、

小さく、声なき嗚咽を漏らした。



「……私は……ずっと、痛かったんだ……」


「“名前が残らなかった”ことじゃない」

「“その人がいたことを、誰にも信じてもらえなかった”ことが……」



ユイは、そっと彼の肩に手を置いた。


「なら、僕が信じる」


「その人は、君の中にいた」


「その想いは、今こうして、僕にまで届いた」



その言葉を受けて――


シグラの祈念核が、ゆっくりと光を放ち始めた。


◇ ◇ ◇


その光は、“名”ではなかった。


だが、誰かを想う“静かな波”だった。


世界に登録されていない。記録もされない。


けれど、それは“確かに生きていた祈り”。



セラが囁く。


「……これが、“祈念の起源”かもしれない」


「名前が形になる前の、ただの“想い”」


「でも、それが――一番強く、世界を動かす」



リルが涙をこぼしながら言った。


「やっと……届いたんだね。

“誰にも見えなかった願い”が」



ミレは、白い札を一枚、そっと風に乗せる。


「ねえ、これ、シグラに名前をつけてもいいかな」



ユイは静かに微笑んだ。


「ううん――君が名付けるんじゃない」


「今、彼が“願っている”ことが、

きっと、新しい“名前”になっていくんだ」


◇ ◇ ◇


戦いは終わった。


祈念構造は元に戻り、杭の破片は風に溶けていった。


シグラは、地に座ったまま空を見ていた。


彼は“許された”わけじゃない。


“何かが解決した”わけでもない。


でも――“誰かに、届いた”ことだけが、確かに残った。



ユイは最後に言った。


「名がなくてもいい。

でも、君がまた誰かを想ったとき――」


「それはもう、“祈り”なんだよ」



風が吹く。


彼らの旅は、また続く。


名のある祈りと、名のない祈りを携えて。

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