運命の刻
「すっかり長居しちまったな」
「いえ。今度はもっと他愛のないお話をしましょう」
日が落ちた頃、小屋を後にした良人の気まずそうな表情を見たフィナーリアは、穏やかな声で語りかける。
「……!」
被捕食者であるはずのフィナーリアが捕食者であるはずの自分にそんなことを言ってくれるとは思いもよらなかった良人は、驚きに目を丸くする。
そんな良人の反応を見て微笑を浮かべたフィナーリアは、まるで知人に向けるような信頼しきった優しい声で語りかける。
「好きなものや嫌いなもの、楽しかったこと……もっとイートさんの事を教えてください」
まるでまた来てほしいと誘っているように聞こえるフィナーリアの言葉に、良人はしばし思案を巡らせてから答える。
「考えておく」
ただ一言いい残し、宙へと舞い上がった良人が森の中へ姿を消すまで見送ったフィナーリアは、一つ息をついて小屋へと戻っていく。
小屋の中――その一角に置かれた食糧庫の扉を開いたフィナーリアは、その中に入っているものを見て思案気に目を伏せる
「そろそろ食料がなくなってきてしまいましたね。調達に行かないと」
フィナーリアの視線の先、そこに置かれているのは帝王種の街で作られたこの星に生きる人間のパーツ――すなわち、調理用の素材だった。
※※※
それから一月ほど――良人は、同じようなサイクルで生活を始めた。
フィナーリアに会いに行って他愛もない話をし、その後オークが空腹になるのを待って帝王種の街へと赴く。
そこで帝王種達を適度に喰らい、満腹になった直後にフィナーリアの元を訪れる。
万一にもオークの食欲がフィナーリアに向かないように。空腹にならなければ獲物を喰わない王喰の矜持と習性を利用した生活サイクル。それが、良人の日課になりつつあった。
「じゃあまたな」
「はい」
『…………』
そんなことが何度か繰り返されたある日、いつものようにフィナーリアとの会話を終えた良人が森へと戻っていく中、オークはその双眸に険な光を宿す。
当初帝王種に抱いていた憎しみが薄れ、妹の生き写しであるフィナーリアと会うことを楽しみにするようになってしまっていた良人は気づかなかった。――その時オークの目に宿った邪な光に。
そして失念してしまっていた。己が身に宿った存在は何なのか、そして自分が何を願って、何者になったのかということを。
『ゲェップ』
どこかわざとらしさすら感じさせるゲップ音を鳴らしたオークが臨戦態勢を解いたことが、身体を共有する良人に伝わってくる。
『相棒。もういいぜぇ』
王喰にとって戦意と食欲は等しい。飢えが満たされればオークはこれ以上の闘争を望まない。
「そうか」
何度も繰り返してそのことを理解している良人は、どこか上の空と言った様子で応じる。
その脳内では、オークが満腹になったことでまたフィナーリアに会いにいく算段が巡っていた。
『……』
そんな良人の様子を見据え、オークはその口端を吊り上げて不敵な笑みを浮かべる。
だが、そんなオークの態度に良人は気付くことができなかった。――オークが喰らった帝王種がいつもより一人少なかったことに。
そしてこの時、良人の運命は決まってしまった。
「……いないのか?」
いつものように食事を終えた翌日フィナーリアが暮らす小屋を訪れた良人は、普段ならいる帝王種の少女の気配がないことに気づいて訝し気に周囲を見回す。
王喰の嗅覚を以てしてもフィナーリアの残り香しか感じ取れないことに違和感を覚えていた良人だったが、すぐにこちらへ近づいてくる気配に気づく。
「あら。今日でしたか」
良人が振り返るのと、森の一角から袋を下げたフィナーリアが姿を現したのはほぼ同時だった。
「どこに行ってたんだ?」
その手に持っている中の見えない袋を見止めた良人は、これまでになかったフィナーリアの行動に疑問を示す。
しかし、その声には不思議と警戒心が宿っておらず、この間に仲間を連れて王喰である自分を殺そうとするなどとは微塵も思っていないことがありありと表れていた。
「食料の補充です。私はここで自給自足をしているわけではありませんから」
そして、そんな良人の信頼に答えたフィナーリアは、手にした袋に一瞥を落として言う。
「そうか」
「ごめんなさい。イートさんにとってはあまりいい気分のするものではありませんよね」
帝王種であるフィナーリアにとって食料が何を意味するのかを理解している良人が呟くと、失言に気付いた帝王種の少女が慌てて弁明する。
今は王喰になっているとはいえ、良人は元々この星に暮らす地球人。
帝王種が生きていくために必要不可欠であるとはいえ、自分が持っているものが同族の肉だと知っていい気分がするものではないだろう。
「……俺は」
『アァ、腹が減ったな』
その言葉に少し戸惑った良人が口を開こうとした瞬間、舐めるような響きを帯びた声が響く。
「ッ! お前……!?」
反射的に視線を向けた良人は、己の身体から鎌首をもたげているオーク――王喰の瞳に宿った食欲の火に気付いて、心臓が凍るような危機感を覚える。
(まさか、こいつ……!)
事ここに至って、良人は初めて昨日オークが満足するまで帝王種を喰らっていなかったことに気づいた。
そして、そんな自身の失態に気付いた良人は、同時にその目論見にも気づいていた。
『悪く思うなよ、相棒。俺はもうこの娘を喰いたくて喰いたくてたまらないんだ』
「待て! 待ってくれ」
舌なめずりをして、涎を垂れ流すオークと共鳴するように身体が反応するのを感じ取った良人は、その場に膝をつく。
王喰であるオークの意思に呼応し、獲物に牙を剥かんとする身体を懸命に抑え込む良人に、フィナーリアが思わず声を上げる。
「イートさん!」
「逃……げろ」
駆け寄ってこようとするフィナーリアを制した良人は、身体の中で渦巻く飢餓の衝動に耐えながら懸命に声を絞り出す。
王喰にとっての食欲は、地球人や帝王種のそれとはわけが違う。
食事は、王喰という存在の根幹をなすもの。人間でいえば、全ての欲望と欲求を一つにしたようなものだ。
いわばその存在の全てにすら等しいものであり、到底意志の力で抑制できるようなものではない。
故に、王喰が食欲に耐えようとすれば、自身の中にある本能が暴走してしまう。それが今良人を苦しめているものの正体だった。
「っ!」
このままここにいては、フィナーリアオークに喰われてしまうことは確実。
自分が押さえている間に早く逃げろと訴える良人の声にフィナーリアの足が止まってしまう。
しかし、その一方でフィナーリアは、懸命に自分に呼びかける良人の口端が吊り上がり、涎を垂れ流しているのを目撃してしまった。
――それは、今まさに獲物に襲い掛からんとする飢えた獣のように。
「イートさん……っ」
逃げなければならないと分かっているはずなのに、良人を案じる気持ちが足を止めてしまう。
逃げなければならないと分かっているのに、捕食者に狙われた被捕食者としての根源的な恐怖が足を竦ませてしまう。
まさに蛇に睨まれた蛙のように、わずかな身じろぎが自身の死に直結することを理解してしまったフィナーリアは、ただ目の前にいる捕食者を見据えることしかできなかった。
「ぐ……ううっ」
『強がるなよ。お前はもう俺なんだ。お前の本能は完全に俺と同じものになってる。だから、今なら分かるだろう。目の前にいるのはなんだ?』
歯を食いしばり、食料となる獲物を貪らんとする本能に抗う良人の耳に、オークの舐めるような声が届けられる。
さながら堕落へと誘う悪魔のように囁くオークの言葉が甘やかに耳朶に滑り込み、良人の精神力を溶かしていく。
(分かってる。分かってた。でも、それでも俺は……)
オークと融合し、王喰となった良人の本能は、妹と瓜二つの外見をした帝王種の少女に、親愛よりも先に食べるべき獲物として捉えてしまっていた。
良人自身もそれに気づいていた。だからこそ、フィナーリアと距離を取ろうとし、それでも取ることが出来ず、せめてもの抵抗に絶対に襲わない食事をした翌日に訪れていたのだ。
――「喰いたい」。
「ぐ……う、ううっ」
――「味わいたい」。
王喰となった身体が訴えかけてくる衝動を懸命に耐えながら、良人はうずくまるようにして悶える。
――「喰らえ」。
『なあ、イート。何を我慢する必要があるんだ? 分かっているだろ? この女は――』
――「食え」。
「ち、違う! こいつは――」
――「食え」!
――「食え」!
食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え! 食え!
「フィナーリアは! 喰いもんじゃない! こいつは! フィナーリアは――!」
『そうだ。そいつは――』
――喰え
『――最高の飯だ』
舌舐めずりをするようなオークの言葉が聞こえてきた次の瞬間、良人の意識は暗転した――。