慙愧・切望・急転
「……ッ!」
闇に呑まれていた視界が再び開けた時、良人の目に真っ先に映ったのは、地面に広がる血痕だった。
その中には最後の記憶の中でフィナーリアが持っていた袋が落ちており、その中身が零れ出ている。
そして同時に、良人は自分の中にあった抑えきれない飢餓感と食への衝動が収まっていることを感じとっていた。
恍惚として喜びに震えるオーク。気が狂いそうなほどの飢餓感が消えている事実。地面に残った血の跡。――それが何を意味しているのかは考えるまでもない。
だが、良人は目の前の現実を受け止められず、これが悪夢であってほしいと願わずにはいられなかった。
『ハハハハハッ! 思った通り……いや、思っていた以上の最高の味だったぜ! 力が漲ってくる。分かるだろ相棒。この女を一人喰っただけで、俺の力は次のステージに進化したんだ!
分かるだろ、イート! お前の中にも残ってるはずだ。あの極上の味の記憶が!』
そんな良人の耳に届く恍惚としたオークの言葉が、残酷な現実を突き付けてくる。
食欲に呑まれ、我を忘れてフィナーリアを貪り食ったその時の記憶――オークが極上と評したその味の光悦が良人の中にはっきりと刻まれていた。
「あ……あぁ……――」
しかし、それ以上に、何よりも良人を絶望させたのは、自分の中に残っているフィナーリアの味が、食欲に負けてしまったことが霞むほどの喜びとして感じていることだった。
途中で意識を失ってしまった良人には、フィナーリアの最期は視覚にも聴覚にも残っていない。
しかし王喰と身体を共有している良人には、フィナーリアを喰らった時に感じた極上の美味の記憶がはっきりと感じられた。
(俺は……俺は――)
妹に瓜二つのフィナーリアを守ることができなかった事実。
フィナーリアを喰らってしまった絶望。
その現実に打ちのめされた良人は、嗚咽を漏らし、そして溢れ出す絶望に押し流されて慟哭する。
「あ、あああああああああああああああっ!」
その声は森の中に吸い込まれ、それを聞いていたのは、赤い血の中に沈んでいるフィナーリアの金色の指輪だけだった。
※※※
「イシュカティール様」
窓の外に見える金色の月を見つめ、静かな夜の一時を過ごしていた帝王種の女帝――「イシュカティール」は、不意に名を呼ばれて視線を向ける。
帝王種はこの地球の外から来た存在。当然ながら、その生態と生活サイクルはこの星の生物とは異なっており、夜になったからといって眠るわけではない。
そのため、何日も眠ることなく、都市の中枢に籠って王喰を含めた都市全ての執政を取り仕切っていたイシュカティールは、その声の主に冷ややかな眼差しを向ける。
「……ザイオスか。何のようだ?」
そこにいたのは、大きな角が目を引くがっしりとした体躯の帝王種。この都市の中において、イシュカティールに次ぐ権力を持つ人物だった。
地位は高くとも政治に携わることはできないザイオスが自分に声をかけてきたことを訝しみながら、問いかけた次の瞬間、一条の光が閃く。
「っ」
ザイオスから放たれた光と共に、身体に袈裟懸けの傷を刻み付けられたイシュカティールは、自分の身体から零れた鮮血が宙を舞うのを見ながら吹き飛ばされる。
目にも止まらぬ速さで振り抜かれたその手には、身の丈にも及ぶ長さを持つ巨大な戦斧が握られており、その刃はイシュカティールを斬り裂いた際に付着した血に濡れていた。
「……なんのつもりだ?」
ザイオスの一撃によってイシュカティールが攻撃を受け、室内にいた他の帝王種達が騒然となる中、傷を抑えながらゆっくりと立ち上がったイシュカティールは、その瞳に怒りと敵愾心を露にする。
傷口から零れ落ちる血が床に赤い染みを作っていく様を睥睨するザイオスは、イシュカティールの質問に対して冷淡な眼差しを返す。
「なんのつもり? 見て分からないか? お前を殺し、俺がこの地を総べるのだ」
激昂を隠さないイシュカティールの言葉に嘲笑めいた声で応じたザイオスは、血で濡れた戦斧の切先を突きつけると共に言い放つ。
その口から告げられた反逆の意思にイシュカティールが歯噛みする中、ザイオスはその瞳に憤りを滲ませると、低く重厚な声で言う。
「しばらく様子を窺っていたが、お前のやり方は生ぬるすぎる。故に、この星は我ら『美食派』が掌握することにしたのだ」
苛立ちを隠さないその声で紡がれた言葉が突きつける現実に、イシュカティールは小さく歯噛みする。
「美食派……そういえば、お前はそうだったな」
帝王種の組織と食の派閥は同じとは限らない。自然派であるイシュカティールの下に、美食派であるザイオスが着いているのも珍しいことではない。
そして帝王種は何よりも己の力、格を重んじる種族。上に立つ者に器無しとみれば、下にいた者達が簒奪に動くのも道理だった。
「あなたのやり方は生ぬるすぎる。この星の生き物は全て我らの食料、我らの糧であるべきだ。
その甘さが、家畜の王喰化を招いたと言っても過言ではない。だからこそ一匹残らず全てを管理し、より美味に味わえるようにするべきなのだ」
拳を握り締め、強い語気で告げたザイオスの言葉がイシュカティールに叩きつけられる。
「お前も分かっているはずだ。この街の統治を任されているのはお前だが、単純な戦闘力では俺の方がはるかに勝っている。
これまでは命令だったから様子を見てきたが、これ以上お前の統治に従うのは我慢がならない!」
その双眸に宿るのは、主であったイシュカティールへと向けられる怒りの炎。そして、王喰に喰われた同胞達へと送られる哀悼の意だった。
「力で全てが思うままにできると思うな。その短慮が、お前が上に立てない理由だ」
ザイオスが述べた通り、戦闘力という一点に置いて己をはるかに上回る力を持つ相手の叛逆に、イシュカティールにできることは、精一杯の虚勢を張って不敵な笑みを浮かべることだけだった。
「遺言はそれでいいか? ならば死ね。愚昧なる王よ!」
イシュカティールにそう言い放ったザイオスは、王威の力を纏わせた戦斧を振り上げ、最上段から叩きつける
「く……っ」
まるで荒れ狂う竜巻のように渦巻く王威の力を纏ったザイオスの斬撃に、イシュカティールは歯噛みすると同時に、力を解放する。
瞬間、イシュカティールが生み出した光の壁とザイオスの嵐の斧が激突し、辺り一帯を吹き飛ばすは破壊の衝撃波を生み出す。
天を揺るがすような轟音と共に帝王種の街の中心にそびえたつ建造物の上層が吹き飛ばされ、その内側が露になる。
その爆塵の中、巨大な斧を担いだザイオスは、その口端から炎のような吐息を吐き出すと共に周囲に視線を巡らせる。
「逃げたか」
爆発の衝撃に紛れてイシュカティールが離脱したのを見て取ったザイオスは、その鋭利な瞳で周囲にいる帝王種達を見回す。
「見ての通りだ。さあ、選べ。あの女につくか、俺につくか。反対する奴はかかってこい! 俺が直々に相手をしてやる」
その身体から立ち昇る圧倒的な覇気に、その場にいる全ての帝王種達が圧倒される。
戦闘力に特化した帝王種、その中でもこの街にいる中で最強の力を持つザイオスの力を前に抗う力を持つ者はこの場にはいなかった。
「……よし。まずはあの女が野放しにしていた我らが天敵――王喰を討ち滅ぼす」
反論がないのを見て取ったザイオスは、この場にいる帝王種達を見回して、重低音の声で言い放つ。
「兵を派遣しろ。奴はまだ森の中に潜んでいるはずだ。探し出して、狩り殺せ!」




