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公園はもうすでに、以前と同じような姿を取り戻していた。優子が死んですぐのときは、ものものしいテープやビニールシートが貼られていたのだが、いつ撤去されたのか、卓也は知らない。見ると公園のブランコの柱の下に、いくつかの花が手向けられていた。
桜田幸兵―そう名乗った男は、片手で持っていた花を同じように地面に置き、しゃがんで手を合わせた。卓也も、同じようにした。優子が死んでから、手を合わせたのは初めてだった。
時間が経つにつれ、こうした儀式を重ねるにつれ、きちんと全てが収まるべきところに戻っていくのだろうか。
鼻で笑う。
「いや、でもびっくりしましたよ」
声が異様に近かった。
ぎょっとして目を開けると、すぐ近くに桜田幸兵が立っていた。
「優子ちゃん、ギャルギャルになっちゃってて。
昔はとっても清楚な子だったのに」
「……へえ」
「なんかせつなくなっちゃいました。僕、ちょっと好きだったんで。優子ちゃんのこと」
何を言い出すのかと思えば。卓也に向かって、男は歯を見せて笑った。卓也も、社交辞令で口の端だけ上げて笑う。それにさらに張り合うかのように、男は歯茎まで見せて笑う。お互いの笑みが限界まで硬直しきったとき、ううんと咳払いをして、男はそのままの口の形で一気にまくしたてた。
「でもなんか分かる気もするんですよね。クラスの女子とかとそっくりですもん。優子ちゃん。おんなじように化粧して、おんなじようなモノもって、おんなじような喋り方して。でもみんなとっても楽しそうだから、優子ちゃんもきっと、楽しかったんでしょうね。楽しかったらきっと、何でもアリなんでしょうね。彼女のツイッター、すごいですもん。なんでも事細かに報告して。いっぱいのお友達とやりとりして、ああ原田さんの話題も出てましたよ、デートの様子が逐一報告されてました。度重なる浮気のこともね。深刻に書いてましたけど、同情のツイートがいっぱいありましたけど、きっとそれって楽しいんでしょうね。楽しかったんでしょうね。そういうことが、すごく楽しかったんでしょうね」
「………え?」
怒りというよりはあっけにとられて、卓也は目の前の男を見つめた。精神が怒りに達していない。理解が追いついていない。男はまったく視線を合わせてこず、ただ滔々と、義務的に聖書を読み上げる無神論者のように、言葉をひたすら紡いでいる。
「高校デビューしてギャルギャルになって?今までのわたしとはさようなら、ですか。ちょっとうらやましいですよね、そんなに簡単に自分とさよならできるなんて。皆と同じ風にしてれば皆と同じように楽しい?うらやましいですよね。そんなことで楽しめるなんて。僕は全然楽しめませんよ、そんなことじゃ。全然全然楽しめない」
「いや、お前が」
「おまけに!」
いや、お前が楽しめるかなんてどうでもいいんだよ。そんな卓也の反論を停まらない急行列車のように却下し男は続ける。
「おまけに選んだ彼氏もギャル男ですもんね。ちょっと不良っぽいけどそこが好き?女好きだけど許しちゃう?クールに見せかけて実は優しい?ははははは、テンプレすぎて笑えますね。優子ちゃん、きっと、別に本当に原田さんのこと好きだったわけじゃないんですよね。楽しみたかったから、友達に自慢するのに、いや、承認されるのにちょうどいい人間だったから、原田さんのこと、好きになったんですよねー」
「おい!」
発した自分の声は、思っていたよりずっと、苛立っていた。もちろん怒らなくてもよいときにまで怒るのは、ただの子供である。けれど怒らなければならないときに怒れないやつは、プライドばかりが高い情けないでくのぼうである。怒るべきところと怒るべきではないところ。その微細な切り分けがあるからこそ、卓也の信頼は厚い。卓也は大きく息を吸った。そして冷静な、わざと暗く低い声で、呟いた。
「何も知らねぇだろ、あんた」
今ならば、この男を一種の哀れさをもって、見下ろしてやることができる気がした。怒っているとき、一方でまた、卓也自身は冷静であった。目の前の男が、どれだけにやにやと、挑発するような、嫌らしい顔を浮かべていたとしても、絶対に、動じることはない。顔を上げた。
けれど、桜田幸兵は、凪のような、静かな表情をしていた。
卓也は、今まで並べ立てた罵詈雑言が、まったくこの男の本心ではないことを悟った。それどころか、同じ人間を人間としていとおしむかのように、その瞳は、どこまでもどこまでも静かだった。目の前の男は、自分以上に冷静であり、客観的な立場で、「優子」のことを聴きたがっている。卓也しか知らない「優子」のことを、聴きたがっている。なぜだかは分からないが、漠然としたその思いは、日に焼けたカーテンのように、静かに肌をこすり、伝わってくる。
小さく、ためいきのような、長い息が出た。安堵のためいきだとは、絶対に認めたくなかったが、最後のほうはどうしても震えてしまった。
「…優子は」
「はい」
「優子は、そんな、そんな女じゃなかったんだよ」
呑みこまれゆく人のように、瞳を閉じた。
見た目こそ派手。けれど、卓也には見えていた。それが見せかけのものであることが。わかりやすい優子だからこそ、見えていた。みんなの仲間に入りたくて入りたくて必死で、けれどその必死さで、どこか空回りしているところが行動の端々に、ちょっとした仕草に表れていた。卓也だけじゃない。周りの連中も、優子のそのどこかおびえた中身を、敏感に感じ取っていた。
誰も無視したり拒否したりはしなかったが、優子が混じると、その場はどこかぎこちない雰囲気になることが多かった。妙な緊張感が、静かに連鎖していくようだった。
卓也はなんてことない気まぐれで、上手く声をかけてやった。その不器用さには見覚えがあった。弟とそっくりなのだ。親戚の集まりがあっても、気をつかいすぎて、いつの間にか黙って笑うだけになってしまう弟と、そっくりだったのだ。見ているこっちの肩が凝ってくる。
そんなときのフォローの仕方も分かっていた。優子にも同じようにしてやった。そしたら犬みたいに、弟以上に嬉しそうな顔をして、駆け寄ってきた。
最初は上手くなじむことができなかった優子だが、ある日バカキャラ扱いをしてみたら、意外に優子はいいネタになった。そのままバカバカバカバカ言ってたら、ある時期からバカじゃないもんと言い返すようになった。けれどやっぱり優子はバカだったから、バカ子と呼んでからかっていたらある日ぽろぽろ泣いて怒った。あの時は心底ぎょっとした。バカキャラ扱いしてやったからこそ、ここまで仲良くなれたんだろ。後で太田に文句を言ったら、なぜか大笑いされた。
今までの経緯はどうであれ、涙を流す女の子は被害者である。男性陣はおろおろするのに対し、女性というのは不思議なもので、涙を流す女の子は「自分が守るべき」だと認識する。同性であるのに、いや、同性だからこそ、だろうか。女子達は一斉に優子の味方をし、優子はグループに完全に溶け込み、そして、なぜか次の日に卓也と優子は付き合うこととなった。優子が、卓也のことが好きだと女子に告白したからである。その次の瞬間から、太刀打ちできない女子の策略に、あっという間に卓也は巻き込まれていた。
手をつなげと冷やかされた。優子は真っ赤になって、いやだと言った。その様子がなんだか可愛く見えて、手をつないでやった。優子の手は小さく、指はひんやり冷たかった。
けれど今は、バカ子、その響きも、もう懐かしいくらいだ。
「ああ、じゃあ、優子ちゃんのこと、分かってあげてたんですね」
「…そうだよ」
地面に捧げられた花を見下ろす。
分かってたんだよ、俺は。
優子のバカさ。
優子の不器用さ。
優子の弱さ。
優子がどれだけ俺のことを好きだったかも。全部。
でっかいキティのストラップだとか、金色に近い髪だとか、真っ黒なアイラインだとか、長いピンクの付け爪だとか、それが意味するものだとか。それらに何を求めていたかも、全部。けれど俺はあのときは知らなかったんだ。こんな未来があるってこと。おバカな優子は、ずっとずっと尻尾ふって、まとわりついてくると思ってたんだ。
「違う」
一瞬、誰の声だか分からなかった。顔を上げると、ずっと黙っていたもう一人の男の方、名前を名乗らなかった男の方が、じっと、卓也を見ていた。眼鏡の奥の瞳は、そう、手前の男―桜田幸兵のものと、同じだった。
「……違う?」
もう一人の男は、こっくりとうなずいて、こう断言した。
「あなたの思いは、そんなものじゃないはずだ」




