Prologue 30年前 不明艦
大正三年。
日本領南方外縁海域。
帝国海軍所属巡洋艦は、小笠原諸島を越えた外洋哨戒任務に就いていた。
海は静かだった。
波も穏やかで、空も曇ってはいない。
ただ、朝方特有の薄い霧が海面を這うように流れていた。
見張り台に立っていた観測士、北野は、双眼鏡をゆっくりと下ろした。
そして、もう一度上げる。
視界の先。
水平線付近。
そこに、艦影があった。
「……艦影確認。」
北野は低く呟いた。
艦影は大きい。
巡洋艦よりも大きい。
戦艦級。
だが、妙だった。
北野は眉を寄せる。
「所属不明艦を確認。」
艦橋へ報告を入れる。
雑音混じりの通信機越しに、艦橋士官の声が返った。
『所属国は判別できるか。』
「不明です。」
北野は双眼鏡の倍率を上げた。
朝霧の向こう。
巨大な艦影が、海面を滑るように進んでいる。
煙が見えない。
いや。
煙だけではない。
波が、おかしい。
通常、戦艦級の艦艇であれば、艦首で海を割る。
白波が立ち、航跡が長く残る。
だが、その艦は違った。
まるで。
海の上を、滑っている。
北野は無意識に息を止めていた。
『特徴を報告しろ。』
艦橋から再び声が飛ぶ。
北野は視線を離さず答えた。
「艦形は戦艦級。」
そこで言葉が止まる。
何かがおかしい。
だが、それが何なのか、言葉にできない。
北野はさらに双眼鏡を押し当てた。
そして。
気づく。
「……継ぎ目が、ありません。」
『何だと。』
「溶接痕が確認できません。鋲接痕もありません。」
鉄の継ぎ目が存在しない。
まるで、一つの塊を削り出したような艦体だった。
艦橋がざわつく。
だが、北野はそれどころではなかった。
その艦は、異様だった。
形は戦艦。
だが。
戦艦ではない。
何か別のものが、戦艦の形を真似ている。
そんな感覚が、北野の背筋を冷やしていた。
距離は遠い。
互いに砲撃圏へ入ることもない。
所属不明艦は、ただ静かに巡洋艦の進路を横切っていく。
北野は最後まで双眼鏡を下ろさなかった。
下ろしてはいけない気がした。
艦影は、ゆっくりと霧の中へ入っていく。
そして。
消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……艦影消失。」
北野の報告に、一瞬、通信の向こうが沈黙した。
『消失、だと。』
「はい。」
北野は双眼鏡を握ったまま答える。
「艦影を完全に喪失しました。」
『見失ったのではないのか。』
「違います。」
北野は霧の海を見つめ続けた。
「……消えました。」
海は静かだった。
波の音だけが、外洋を流れていた。
後に、この記録は。
帝国海軍外洋観測記録。
通称――『北野観測記録』として保管されることになる。
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