政略結婚のはずが、普通に優しくされて困る
お待たせしましたデート回です。
戦場でも政略でもなく、ただの午後のお話。
ロンデルの午後
「今日、少し時間はありますか?
ヒマリさんと、外を歩きたいんです」
朝食の席で、アレクシスが言った。
ヒマリは、書類から顔を上げた。
「フェルマーに確認する」
フェルマーへの通信を開くと、
即座に返ってきた。
「今日の午後は、予定がない。
むしろ、少し休め」
「……あなたが、そんなことを言うの」
「言う。
疲弊した主は、判断が鈍る」
ヒマリは、通信を切った。
アレクシスを見た。
「時間、あるって」
公子は、あの笑顔で頷いた。
エルドラの街は、
朝の光の中にあった。
砂岩で作られた建物が、
日差しを受けて白く輝いている。
路地は細く、入り組んでいる。
北方の王都とは、何もかもが違った。
「どこへ行くの」
「少し歩きます」
アレクシスは、先に立って歩いた。
人混みの中でも、
自然に道を空けながら進む。
威圧しているわけではない。
ただ、丁寧に歩いているだけなのに、
人が自然に道を開ける。
(不思議な人だ)
ヒマリは、その後ろを歩きながら思った。
最初に連れて行かれたのは、
市場だった。
色とりどりの布。
乾燥した果物。
香辛料の匂いが、充満している。
市場に入った瞬間、
アレクシスが振り返った。
「何か気になるものがあれば、
遠慮なく言ってください」
逆光だった。
砂岩の白い壁に、午後の光が反射して、
アレクシスの銀髪が、白く輝いていた。
その中で、青い目が、
ヒマリをまっすぐに見ていた。
(……眩しい)
光のせいだと、
ヒマリは思うことにした。
「……何か、珍しいものを教えて」
声が、わずかに平板になった。
いつものやつだ、と
自分で気づいた。
「これ、何?」
ヒマリは、見たことのない果物を指した。
丸くて、赤い。
表面に、細かい棘がある。
「砂棗です。
ロンデルにしかない果物で」
アレクシスは、一つ買って、
ヒマリに渡した。
「食べ方は?」
「こうやって」
アレクシスは、果物の頂点を指で押した。
すると、花びらのように開いた。
「わ」
ヒマリは、思わず声を上げた。
中が、黄色かった。
蜜のような液体が、光っている。
「食べてみてください」
ヒマリは、一口食べた。
甘い。
でも、後から、かすかに辛い。
「……何これ、おいしい」
ヒマリは、もう一口食べた。
「甘くて、後から辛いのに、全体的には甘い。
不思議なバランス」
「それは……どういう意味ですか?」
「私のいた世界に、チョコレートって食べ物があって。
甘いのに、少し苦い。
そのバランスに似てる」
アレクシスは、首を傾けた。
「チョコレート……?」
「ああ、ないか、ここには」
ヒマリは、少し考えた。
「カカオっていう豆から作るんだけど。
甘くて、溶けて、食べると少し幸せな気持ちになる」
「……それは」
アレクシスは、真剣な顔で言った。
「砂棗より、おいしそうですね」
「砂棗もおいしいよ」
「でも、チョコレートの方が
あなたの顔が嬉しそうでした」
ヒマリは、一拍置いた。
「……顔に出てた?」
「はい」
アレクシスは、微笑んだ。
「出ていました」
(やめて)
ヒマリは、砂棗の残りを口に入れた。
誤魔化すように。
「よかった」
アレクシスは、心から嬉しそうに笑った。
市場を抜けると、石段が続いていた。
長い。
ヒマリは、黙って登った。
アレクシスは、ヒマリより少し後ろを歩いた。
追い越さない。
でも、離れない。
「なんで後ろを歩くの」
「足元が悪いので」
「転びそうになったら、支えるってこと?」
「はい」
ヒマリは、前を向いたまま言った。
「転ばない」
「そうですね」
アレクシスは、静かに言った。
「でも、後ろにいると、安心するので」
ヒマリは、前を向いたまま、
石段を登り続けた。
後ろから、アレクシスの気配がする。
音がない。
重くない。
ただ、確かにいる。
(……なんか)
ヒマリは、思った。
(悪くない)
そう思ったことに気づいて、石段を一段、速く登った。
頂上に出た。
ヒマリは、息を呑んだ。
エルドラの街が、眼下に広がっていた。
砂岩の建物が夕方の光を受けて、
橙色に輝いている。
その向こうに、砂漠。
さらにその向こうに、地平線。
「綺麗」
言葉が、先に出た。
「はい」
アレクシスは、隣に立った。
「子供の頃から、悩んだ時はここへ来ていました」
「何を悩んでいたの」
「色々と」
アレクシスは、街を見ながら言った。
「ロンデルは、小さい国です。
ずっと、大きな国に挟まれてきた。
王として何もできないという感覚が、
ずっとありました」
「今も?」
「今も、あります」
アレクシスは、正直に言った。
「でも」
彼は、ヒマリを見た。
「あなたに会ってから、少し変わりました」
「私に?」
「はい」
アレクシスは、街を見た。
「あなたは、捨てられた場所から、
自分で立ち上がった」
「……それは、運が良かっただけよ」
「運だけでは、ないと思います」
アレクシスは、静かに言った。
「王族で無い者が運だけで王にはなれません。
僕は、あなたがどんな選択をしても、
それを正しいと思います」
ヒマリは、答えなかった。
「だから」
アレクシスは、続けた。
「僕も、変わりたいと思った。
ロンデルを、守れる王になりたいと思った」
「それは、私のためじゃなくて、
ロンデルのためでしょう」
「両方です」
アレクシスは、迷わず言った。
「あなたのために、ロンデルを良くしたい。
ロンデルのために、
あなたと並べる王になりたい」
ヒマリは、その言葉を聞いた。
胸の奥の、緩んだ場所が、
また少し広がった。
(また、この感覚だ)
気持ち悪い、とはもう思わなかった。
ただ、困った、とは思った。
「アレクシス」
「はい」
「一つだけ、聞いていい」
「どうぞ」
「私は、完璧な人間じゃない。
間違えるし、怖いとも思う。
クルスに流されそうになることもある」
「はい」
「それでも?」
アレクシスは、ヒマリを見た。
「それでも、です」
迷いがなかった。
一秒も、なかった。
「あなたが間違えても、問題ありません。
――世界中があなたを否定しても、僕だけは肯定します」
「……それは、重いわよ」
「重くないです」
アレクシスは、微笑んだ。
「あなたの存在がそれほど大きいのです」
アレクシスは、それだけ言って、
また街を見た。
言い切った顔だった。
追加も、訂正も、するつもりがない顔。
ヒマリは、その横顔を見た。
夕日が、横から当たっていた。
鼻筋に、影が落ちている。
睫毛が、光を受けて、金色に透けていた。
(近い)
気づいた瞬間、わずかに呼吸が止まった。
伸ばせば届く距離だと理解して、
(どうしてこんな顔をしているんだろう)
整っている、とか、美しい、とかではなく。
ただ――
(どうして、こんなに)
言葉が、続かなかった。
ヒマリは、視線を街に戻した。
今度は、少し時間がかかった。
日が、傾いてきた。
橙色の光が、エルドラの街を染めている。
王宮へ戻る道。
二人は、並んで歩いた。
しばらく歩いてから、アレクシスが言った。
「チョコレートは、どうやって作るんですか?」
ヒマリは、少し考えた。
「カカオの実を発酵させて、乾燥させて、ロースト……。
砕いてペーストにしてから、砂糖と混ぜる」
「……できそうですか?」
「カカオが手に入るかどうかによる」
「必ず、再現してみせます」
ヒマリは、アレクシスを見た。
「なんで?」
「あなたが嬉しそうな顔をするものを、作りたいので」
ヒマリは、一拍置いた。
(また、そういうことを)
「……砂棗の方が、ロンデルらしくていい」
「でも、チョコレートも試してみたいです」
アレクシスは、真顔で言った。
ヒマリは、思わず笑った。
自分でも気づかないうちに。
アレクシスが、こちらを見ていた。
「笑顔、初めて見ました」
「……そんなことないでしょ」
アレクシスは、静かに言った。
「今まで見たどの表情より、好きです」
(やめて)
視線を逸らした。
夕暮れが、少しだけ濃く見えた。
内側で、クルスが囁いた。
『楽しかったか?』
(……うるさい)
『答えは、聞こえている』
ヒマリの心拍数が、スクリーンに映っている。
『……不愉快だな』
クルスは、その数値を見た。
市場で声を上げた時。
「後ろにいると安心する」と言われた時。
「それでも、です」と即答された時。
「今まで見たどの表情より、好きです」と言われた時。
それぞれの数値を、記録した。
ヒマリが少しずつ奪われていく気がする。
王宮へ続く石畳の道。
二人の影が、夕暮れの中に伸びていた。
アレクシスの影の方が、少し長かった。
特に、何も話さなかった。
それで、十分だった。
そう思っているのは、
自分だけではない気がした。
チョコレートの話を書きながら、
ヒマリがようやく笑ったな、と思いました。




