51 -水景園
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51 -水景園
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「聞いておられますか、返事をしてください」
覆っていた白いもやの奥で、サルウィンの声がぼんやりと聞こえた気がした。
「聞こえてるよ」
そう返したのに、サルウィンはまだ「大丈夫ですか」と心配そうに呼びかけてくる。
「だから聞こえてるってば!」
怒鳴るように声を張り上げてもそれは変わらなかった。
何度も声を上げ続け、ふと嫌な違和感に気づいた。
——届いていない。
声が頭の中で反響しているだけだ。
人差し指をひとつ動かそうとした。
だが金縛りにあったときのように、身体は微動だにしない。
それでも視覚は機能しているらしい。
立ちこめる霧の中を探るように、目を細めてみる。
銀色の粒がきらきらと揺れていた。
その少し先には、赤い花が一面に広がっている。
この花が視界に入ったときからか、どこかで嗅いだことのある懐かしい香りがしていた。
——甘くて切ない香り。
鼻先でほどけたその気配が、遠い記憶の輪郭をなぞっていく。
そこにはほんのりとした汗の匂いと、やわらかな体温。抱き上げられて、子守唄を聞きながら眠る。何ものにも侵されない安らぎの場所だった。
そうか――。
正体を理解した瞬間、視界を曇らせていた靄がほどけるように薄れた。
「どうして、僕はここに」
ゆるく反った橋の上で並んで立つサルウィンに問いかけると、彼は怪訝そうに目を細めた。
「何をおっしゃっているのですか。
ご自身が華王をご覧になりたいと仰るから、少ない時間を確保して水景園に参ったのでしょう」
「え?」
「寝ぼけるのもいい加減にしてください。
大切な祈念の式は終わりましたが、このあと同年代の方々との親交会が設けられております。もう時間は残されてませんよ」
「祈念の式が終わった?」
「……。」
サルウィンはしばし無言のままこちらを見据え、眉間に深い縦皺を刻んだ。
「ジュナ様の本日のご予定は、暁刻(午前五時)祈念の式。
その後、朝食。
そしてジュナ様が華王をご覧になりたいと仰ったため、無理に捻じ込んで水景園へ参りました。
これから中刻(正午)までは親交の席が設けられております。
昼食はそのままご友人方とお取りいただく手筈です。
以降は男女で別行動となります。
ご令嬢方は詩会へ、殿方は狩猟へ。
夕刻(午後五時)になりますと、饗宴に備えお客様方は一度自室へ戻られます。
もっとも、ジュナ様は学院の制服のままで問題ありませんので、早めに大広間へお入りいただきます。
そしてそのまま夜の饗宴へ、という流れになります」
言葉を失うとは、こういうことを言うのだろうか。
まるで俯瞰した位置から今の自分を見下ろしているようで、驚きよりも先に苦笑にも似た感情が浮かぶ。
今日が饗宴の日だというなら、昨日の記憶が丸ごと消えていることになる。
そ、そうだ。
龍造天竜に呼ばれた夜――あそこから先の記憶がない。
以前にも記憶のないまま行動していたことはあった。だがそれでも長くて半刻(1時間)ほどだ。
今回のように一日以上も記憶が失われているなど、一度もなかった。
サルウィンにどう説明すればいいのか考えあぐねていると、水景園の入り口から
「お・に・い・さ・ま!」と、音ずつ区切るような楽しげな声がした。
振り返ると、ルミーがスカートの裾をつまみながら小走りにやってくる。
黒を基調とした落ち着いたドレスに身を包んでいた。光の加減でわずかに赤を帯びるその布は、華王の色をかすかに思わせる。装飾は控えめで、静かな気品だけが際立っていた。
「やっぱり、ジュナお兄さまはこちらにおいででしたのね」
少し息を弾ませながらそう言うと、付き人に「はしたないですよ」と窘められるが、「大丈夫、大丈夫。ほら、ここには身内しかいませんよ」
ルミーは悪びれた様子もなく付き人に舌を出した。
そのあどけない仕草に付き人はつられるように頬を綻ばせ、愛情のこもった目でルミーを見ている。
人の内にすっと入り込んでしまう才能。
境を踏み越えているはずなのに、それを侵入とは思わせない。
「僕がここにいること、よくわかったね」
自分でも口調がわずかに和らいでいるのがわかる。記憶のない不安な状況は変わらないはずなのに、頭の中を風が吹き抜け、混乱はいつの間にか凪いでいた。
ルミーはそれを知ってか知らずか、わざとらしいほどに頬を膨らませる。
「もちろんですわ。
お兄さまは一人になりたいと思われると、いつもこの水景園にいらしておいでですもの」
裾を摘まむようにして腰を下ろし、興味に引かれるままに、華王の花弁へと指を伸ばした。
「ルミー気をつけて。華王の毒は、粉にして細胞を壊さないと出てこないけど、花茎には小さな棘があるから」
「……はい」
そう答えながらも、ルミーの瞳は華王の底へと沈んでいた。
「ここに来ると、内省が深まるといえばいいのでしょうか」
真っ赤な花弁をルミーは指の腹でゆっくりとなぞる。
そのまま花を覗き込むように身を寄せ、息をひとつ落とした。
「美しさと命を蝕む気配とが、ひとつに溶け合う華王を眺めていると……
つい人の一生について、思いが向いてしまうみたい」
ルミーの言葉を聞きながら、水面へと視線を落とす。
水に映る華王は現の花よりもわずかに暗く、光からこぼれ落ちた不純だけを引き受けたかのように黒ずんで見える。
「お兄さまのような龍の子の皆さまにとって、華王は恩寵。
龍神の血を持たぬ私たちにとっては、美しいだけの猛毒になってしまう」
ルミーは小さく首を傾げ、言葉を選ぶようにわずかに沈黙し、「でも」とつぶやく。
「恩寵も、猛毒も。
実は同じものなのかもしれません。遠く、離れているように見えるだけで」
ルミーはふと立ち上がった。
こちらへ向けられた瞳は、かすかに潤み、まだ思索の底に沈んでいるようだった。
「私には、ジュナお兄さまの苦しみを真に理解することはできません」
ルミーは一瞬だけ口元を引き結び、整えたような笑みを作る。
「でも……だからこそ、このルミーを頼ってください。
お兄さまはけっして独りではありませんから。
バロバロッサの家に生まれ、心から南端を愛する者同士、きっと支え合っていきましょうね」
「……ありがとう、ルミー。
誓うよ、龍の御許に。龍の子として」
ルミーはこくりと頷いた。
その余韻を壊すように、ぱちん、と小気味よく手を合わせる。
「お兄さま、プルワ家のご令嬢はご存知ですよね?」
「えっと?」
その名は以前から何度か耳にしている。
ルミーと同年代で、たしかモリーン嬢、だったか。話題に上ることはあったが、面識はなかったはずだ。
「ルミーが、ジュナお兄さまのお話をしておりましたら……モリーンさまが大変関心を持たれまして。
ぜひ親交会の折に、個室でお茶をと」
「え?」
「……あっ、もちろんルミーも同席いたします。三人でのお茶会です」
個室。三人きり。
それだけなら、さほど珍しい話でもない。
だが、そこに龍の子が混ざるとなれば別だ。
政への私的な接触は明確に禁じられている。
モリーン嬢はルミーと同年。まだ幼い。
だが公爵家の娘である以上、その一挙一動は政に繋がる。
法に触れるとまでは言えない。だが、限りなく危うい。
兄上たちも、父も、認めるはずがない。
「まさか、誰にも告げずに開くつもり?」
「ええ。もちろん内緒の席になります。
先ほどジュナお兄さまは、ルミーに誓ってくださいました」
上目遣いにこちらを見上げてくる。
——断れないと知っている目で。
「お願い、できますか?」
龍の子として誓いを立てた以上、断れるはずがない。
「も……もちろんだよ」
そう言った後、ルミーは「やったー」と声を弾ませ、橋の上でくるりと身を翻した。
ルミーの弾む足取りとは裏腹に、自分の肩には逃げ場のない重みだけが残された。 置かれた状況を整理する間もないままに。




