50 -龍ノ石
鳥肌がどうしたって止まるはずがない。
竜は身体をゆっくりと寄せながら頭を差し出し、ジュナはその冷たく硬い感触にそっと手を添えた。
*********************************************************************************************
視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア
50 -龍ノ石
♤
「僕についてきて」
しゃらり、と鎖が鳴る。
龍造天竜の首に吊るされたそれを軽く引き、付殿の最奥にある厩舎へ目を向けた。
鎖をわずかに引けば、その分だけ歩幅を合わせる。足を緩めれば、遅れずに止まってくれる。
いつものように直接命じているわけではないのに、それでも龍造天竜は迷うことなく後ろをついてくる。
兄が託した役目を正確に果たしている。そんな動きだった。
(そこまで分かるのか)
その精度に素直に感心する。
けれど巨体に似合わず、その歩みはどこかぎこちない。
どで、どて、と――床を踏みしめる重みを伴いながらも、どこか不器用に自身の体を運んでいる。
拍子抜けするほど愛嬌があった。
ジュナは歩みを緩め、龍造天竜を見上げる。
琥珀の瞳と、正面から視線が重なった。
繋がれるかもしれない。
ふと、そんな確信めいた思いが胸に浮かんだ。
拒絶も、誤解も、挟まらない。言葉を交わさずとも意志が届く。
あの言葉にできない感覚を、この龍造天竜とも分かち合えたなら。
意識を沈め、龍石へと触れるように感覚を伸ばす。
(……。)
手応えはない。
表層に触れることすら叶わず、ぱちり、と弾かれた。
龍素含有量が高い個体ほど、制御への抵抗は強い。それは経験として理解していた。
龍石は、龍素の含有量によって学術的な名称で区分されている。
上位から順に無煙龍石、瀝青龍石、亜瀝青龍石、褐龍石、亜龍石、泥胎龍石——。
等級が上がるほど、出力も容量も、そして制御への抵抗も桁違いに跳ね上がる。
龍造天竜を維持している核が、どの等級にあるかは公開されていない。
だがこの反応からすれば――
ジュナ自身でも龍素含有量が低い龍石であれば制御できる。
だが亜瀝青龍石になると話は別だ。干渉できるのは既存の制御をわずかに刷りかえる程度が限界。
瀝青龍石ともなれば、その刷りかえさえ容易ではない。
(繋がることもできない……となると)
アンゲロスの核は少なくとも瀝青龍石以上。軽々しく踏み込める領域ではない。
たるんだ鎖をわざと前へ引っ張った。腕を伸ばすと、革帯と小さな金具が擦れあって乾いた音が鳴る。
そんなことをしても龍造天竜は引かれた分だけどてどてと進み、
距離は一向に縮まらない。触れられない透明な壁の向こうにいるかのように、隔たりを強く感じてしまうだけだった。
付殿の奥にある厩舎の引き戸を開けて、龍造天竜を引き入れた。
厩舎の中は緊急時に備えて龍灯が常に灯され、昼と変わらない明るさが保たれている。
この場所に来ると、ようやく胸の奥底にあったものを吐き出せたような気がした。
天竜専用に誂えられたものではないが、厩舎の天井は高い。
大型の人形でも頭をぶつけぬよう設計されているため、梁まででもかなりの高さがある。
「ここが寝床だ。少し君には狭いかもしれないけど、我慢してね」
革帯を外してやると、龍造天竜はすんなり理解して前足を折り、香箱を組むように身を伏せた。
口元が横に伸びる。頬が自然と緩んでいた。
大きな体が床に収まり、龍造天竜はゆっくりと瞳を閉じる。
その光景を目にしていると、見慣れている厩舎がどこか特別な場所になった気がして……と、そこで思い出した。
まだ門前で待機している龍造馬のことを。
すっかり忘れていた。
ジュナは慌てて腕を伸ばす。
『走りたい、走りたい、走りたい——』
ただそれだけの衝動がこちらへ流れ込んでくる。地面を蹴り、風を裂き、それでもまだ足りないとばかりに前へ前へと突き進んでいく感覚。
だからジュナも「ここまで走っておいで」と、そのイメージに重ねてやる。
すると龍造馬は抵抗もなく応じ、厩舎まで駆けつけてくれた。
ぶるっと頭を震わせ、まだ走り足りないと言わんばかりに鼻を鳴らす。それをなだめすかしながら、ずるずると引きずるようにして寝床まで連れていく。
龍造馬を厩舎に収め終えると、どっと疲れが出た。
「帰るか」
明日からのことを思うとますます体が重い。明日は昼頃から遠方の客人たちが泊まり込みで到着するため、応対に追われることになる。明後日はバロバロッサ邸で祈念の式が暁刻に始まり、その夜には饗宴が催される。
もたれていた手すりから体を引き剥がす。
龍造人形の点検のため、ひと回りしておこう。そう思って背を伸ばした、そのときだった。
——こっち……に……きて。
最初は気のせいかと思った。
どこからか女の声が聞こえたような気がしたのだ。雫が水面に落ちるような、触れれば消えてしまいそうな声。一度も聞いたことのない響きだ。
ジュナは恐る恐る手すりに指を掛けたまま、声のした方へ歩み寄る。
「君が僕を呼んだの?」
龍造天竜がこちらを見ていた。
他の龍造人形と同じ琥珀の瞳。その奥で、煙のような影がゆっくりと円を描いている。
形を成してはほどけ、また渦を巻くように姿を変えていく。
果たしてこれに意味があるのだろうか。
雲のように、ただ見ている者が勝手に意味を見出そうとしているだけなのだろうか。
形は刻一刻と変わり、霧散してはまた渦を巻いてゆく……。
若草の、むせ返るほどに濃い命の匂いが鼻腔に流れ込んできた。
「うっ」
思わずむせ、袖口に顔を押し当てる。
さわさわと枝葉が揺れる間から太陽の光が差し込み、人を迷わせるように足元で光と影をちらちらと揺らしている。
考えることそのものが億劫になってくる。
龍造人形と同調した、あの限りなく自我が薄まっていくような感覚だった。
道なき道を進み、あてもなく彷徨いながら、枝をひとつひとつ押し分けていく。
ひんやりした葉が肩に触れ、細い枝が腕に絡んだ。
その隙間の向こうで、ふと視界がひらける。
するといつか見たことがある翡翠の湖が広がっていた。
水は透き通って底の石までよく見えている。湖面には木漏れ日が砕けるように散り、水面は凪いでいる。
その湖の中央、石の台座の上に丸いガラス玉のような水晶が置かれていた。そこから淡い白煙が上へ上へと揺蕩っている。
足が勝手に湖の上を歩いていた。もはや自分の居場所が明るみになることなどどうでもいい。
水面に波紋が広がるのも構わず、水を蹴り、台座にあるものを見上げる。
「変煙水晶だ」
誰かに見られていないか、あたりを見回してみる。
——誰もいない。
目をつぶり、両手で変煙水晶を握りしめた。兄たちが期待している赤煙になることを願いながら。
だが目を開いたとき、それは絡み合った糸が毛玉のように纏まり、白煙は黄煙へと変わってしまった。
「ご、ごめんなさい」
慌てて兄たちがいる方へ振り返る。
「兄上?」
声をかけてみたものの、そこに立っていたのは兄たちではないように思えた。
雑に塗りつぶした絵をそのまま投げかけたようなものが、湖畔の木漏れ日の中に映し出されている。
その輪郭はところどころ不自然にはみ出して、陽炎のようにゆらめいていた。
「あなたは誰?」
そこに立つ人影に声をかけると――
「アナタハダレ?」
抑揚のない声がおうむ返しに返ってくる。
「アナタハダレ?」
人影はこちらへ滑るように近づいてきているようだった。
「え?……何?」
怖くなって思わず一歩後ずさるが、後退した足が地をつかなかった。
背中から倒れ、咄嗟に何かを掴もうと腕を伸ばしたが、身体は黒一色の世界へ落ちていった。
奈落の底へどこまでも、どこまでも——




