44 -天秤を差し出す女
44 -天秤を差し出す女
龍造馬が低く嘶き、馬車がゆっくりと動き出した。
車輪が石畳を離れると、揺れはすぐに規則正しいものへと変わる。
よく喋るあの男の声は結局ここまでだったらしい。
カリオンは革張りの座席に背を預け、深く腰を下ろした。
張り詰めていた身体がわずかに緩み、車内にはほのかに甘い香りが満ちていた。
(二人きり、か)
そう意識した途端、胸の奥が妙にざわついた。
思いがけない旅の道連れ。しかもこれほどの女だ。
王命を受けた直後という高揚も相まって、気分が浮き足立っているのを自覚せずにはいられなかった。
カリオンは咳払いをひとつし、姿勢を正した。
「失礼。挨拶が遅れました」
わずかに微笑み、癖で口角を上げる。
「カリオン・ニコマコスです。
クレマチスさん、あなたのような麗しい女性とご一緒できるとは、光栄の……」
言い終える前に気づいた。
前歯に空気が抜ける。
(……しまった)
反射的に唇を引き結ぶ。
今さら取り繕っても遅いと分かっていながら、無意識に視線を逸らしていた。
「……お見苦しいところをお見せしました」
苦笑を浮かべる。
「ですが……あなたは、これもご存じなのでしょう?」
自分でも意外なほど、言葉は抵抗なくこぼれた。
王命を受けた直後の高揚が足元を少しだけ軽くしていたのかもしれない。
あるいは、この女とのあいだに保たれていた距離が別の形へと変質してしまうことを恐れたのか。
クレマチスは、すぐには答えなかった。
赤い瞳が静かにこちらを映す。
値踏みするでも、探るでもない。
ただ、そこに在った。
「いいえ」
やがて、穏やかな声が落ちた。
「不幸なことは、誰にでも起きうるものです」
唇に、かすかな微笑みを宿す。
「どうぞ、私の前では無理をなさらずに。
ありのままのあなたを、見ますわ」
その言葉に妙な安堵が胸に広がった。
「……あなたは」
気づけば、言葉が先に出ていた。
「心までも美しい」
馬車が大きく揺れた。
車輪が硬いものを踏み、次いで傾きが変わる。
どうやら、山道へ入ったらしい。外の景色は見えないが速度と揺れがそれを教えてくる。
クレマチスは小さな革袋を取り出し、グラスへ赤い液体を注いだ。
「よろしければ」
差し出されたワインを受け取り、喉へ流す。
渋みの奥に柔らかな甘さが残った。
それからしばらくは、他愛のない話が続いた。
聖都の噂、旅路のこと、祈りの習わし。
どれを語っていたのかさえ、次第に曖昧になる。彼女の声に応じて言葉を返す――それだけで、心は満たされていた。
やがて、クレマチスがふと視線を上げた。
「退屈しのぎに、少しだけ遊びませんか?」
「ゲーム、ですか?」
カリオンは間を置かずに応じる。
「もちろん。やりましょう。どんな遊びです?」
彼女は、楽しげに微笑んだ。
「内容は……もう少しだけ、お待ちになって」
赤い瞳が、柔らかく細められる。
「私も、今ちょうど考えているところなのです」
馬車は、山道を進み続けていた。
その揺れの中で、カリオンはまだ気づかない。
――天秤が、すでに差し出されていることを。
♦︎♢♦︎
ロゴスの國の中枢、聖都。
左右に整然と並ぶ石柱の列が、
視線を否応なく、ただ一つの玉座へと収束させていた。
そこは王城の謁見の間である。
男はあるひとりを一瞥した後、頭を垂れた。
視線が合ったのは一瞬だったがその所作に迷いはない。
「陛下。
例の異端検分具の件、人目を避けてお伝えすべき内容かと存じます」
それだけを告げ、男は口を閉ざした。
王は玉座に肘をついたまま、数多の報告のひとつを受け取るかのように億劫そうに視線だけを向ける。
「ここにいる者はすべて朕のもの。すべてが朕の手足である。
問題ない。構わず申せ」
「はっ」
男は短く応じた。
「異端検分具が反応したとの報が、内々に上がっております。
……恐れながら、
バロバロッサ辺境伯の継子。
ジュナ・バロバロッサ
変煙水晶(異端検分具)を黒く変煙させたとのことです」
「ほほほ。」
玉座の隣。
フードを深く被った王の付き人が、愉快そうに喉を鳴らした。
「陛下、発言をお許しください」
中性的な声だった。
男とも女ともつかぬ、不確かな響き。
王は玉座の肘掛けを、指先で軽く弾いた。
沈黙が落ちた。
その間に、男は背をさらに低く保ったまま、視線を床に縫い止める。
やがて、付き人の声が置かれた。
「よく報告してくださいました。
ですが、変煙の儀式を目撃した教会の方々が聖都へお戻りになる前に」
わずかに間を置き、
無邪気さすら感じさせる調子で言葉を継ぐ。
「変煙水晶が“黒く”変じた、などという噂が広まっては……少々、困ってしまいますね」
その言葉に重なるように、男はさらに背を落とした。
意志というより反射に近い動きだ。
床に額が擦りついても構わず、声だけを残す。
「ご懸念には及びません。
それを目撃した神官にはすでに厳命しております。
他言は一切、許しておりません」
「ほほほ。」
王の付き人は、満足げに喉を鳴らした。
「では、アナタの言葉を信じてみましょう。
どうぞ、お身体をお休めください。報告、ご苦労さまでした」
男が謁見の間を辞そうとした、その背に、王の付き人が思い出したような調子で声をかける。
「――子々孫々に至るまで、
アナタ方を、龍神は《《いつも》》見守ってくださるでしょう」
男が振り返るよりも早く、
重々しい音を立てて扉は閉じられた。
謁見の間に再び静けさが戻る。
玉座に座する王は傍らの付き人へと視線を向けた。
「久しいな。
黒煙を刻んだ者が現れるとは」
「……百年は、なかったはずだ」
それは驚きというより、記憶をなぞるような声だった。
「お前の務めだ。
すでに、手は打っておるな」
付き人は、喉の奥で小さく笑った。
「もちろんでございます、我が愛しの王よ。
異端審問首席官の彼女を、すでに南端へと向かわせております」
付き人は玉座へと歩み寄り、
ためらいもなく王の身を抱き寄せた。
「どうぞ、お任せください。
私がお仕えするすべては――
アナタがかつて愛された平穏へと、還ることなのですから」
♦︎♢♦︎
枝葉を掻き分けるたび、皮膚が裂けた。
人の手の入らぬ森。
獣すら足跡を残さない斜面を、踏みとどまることもかなわず、転がるように下る。
擦り傷は増え、泥が顔に跳ねる。
それを払いのける余裕は、とうに失われていた。
息は乱れ、肺は痛みで張り裂けそうだったが、それでも脚を止めることだけはできない。
右肩から先が存在しない。
女に切り落とされ、あの女の手で傷口はすでに塞がれている。
その欠落が身体の釣り合いを狂わせ、何度も足を取らせた。
――逃げなければ。
そう思ったのが自分の意思だったのかどうかも、もう分からない。
思考は恐怖に呑まれ、本能だけが身体を引きずっていった。
跳ねた枝が顔面を直撃し、泥と血が混ざって視界を濁す。
鼻先を貫く衝撃にも、枝葉が視界を塞ごうとも、身体は抗うことを忘れ、ただ下へ、下へと転がり落ちていった。
――ピピー、ピピー、ピピ。
遠くで、金属を打ち鳴らすような音が響いた。
龍造犬の警戒音だ。
捧げられた鎮魂が――終わった。
……来る。
奴らが、殺しに来る。
「誰かいないのか……!
誰か……助けてくれ……」
声は掠れ、息が途中で途切れた。
えずくような音だけしか喉から漏れ出てこない。
三肢を地に突き、這うように進む中、あの女の声がぬるりと思考の底からよみがえる。
絹の衣擦れのように異様なほど穏やかな声が、血と泥の匂いに絡みついた。
「孤児院の子供たちになさった因果が、すべてあなたに返ってきただけのことです」
女は、ころころと笑った。
「因果が……巡る。
こういう最後が、私は好きです」
「ぁぁああああああ!!」
片腕しか残されていない腕を虚空へ振り回した。
龍神の名が喉に浮かび、声になる前に潰えた。
あの女の声。
馬車で告げられた言葉が今の叫びを呑み込み、なおも奥で鳴り響いている。
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