9.強引な作戦
フラミンゴの財布を盗んだ男は一瞬で姿を消した。かなり足が速い。いや、逃げるのに慣れている。スリは常習なのだろう。ガナッシュは走っていた足を止め辺りを見回した。
建物が多く立ち並ぶ住宅街は道が細く、家と家の間の路地が何本もある。この中のどれかに入っていったのだろうが、ハズせば最後。絶対に捕まえられない。
フラミンゴに深追いするなと言われたことを思い出す。金よりもお前が大事だと。「・・・・あの人のああいうところが好きなんだよな」自分が大公の息子だからとか関係なく、人情味に溢れた人。酒を飲めばふざけているように見えるが義理堅く情に厚い人であることは、先日あった酒場サンジェルでの件でよくわかる。
心配をかけるのもよくない。ロゼも不安そうな顔をしていた。初めての遠出なのに楽しむより先に怖がらせてしまっては、すぐあの居心地の良い酒場に帰ってしまうかもしれない。夢とロマンに溢れた、どこか現実とは画している空間に。
はあ、と大きく息を吐く。旅慣れしているフラミンゴであれば、一つの財布に全財産を入れているわけもないだろう。ガナッシュは来た道を戻ろうと踵を返すと「は?いや、見てわかんない?俺も同じように困ってんのよ」聞き覚えのある声がすぐ隣の路地から聞こえた。
「なんでもいいから食いもんくれ・・・腹が減って死にそうなんだ」
「いやさ、だからさ、俺も困ってんの。なんも持ってねーの」
「お前さっき菓子屋から出てきた女の子から何かもらってたろ。・・・見てたぞ」
「げえ」
フラミンゴから財布を盗んだ男が、もっとみすぼらしい姿をした老婆に捕まっている。その姿は正にさっきのフラミンゴと同じで、物乞いに擦り寄られている。男は一定の距離を保ちながらも及び腰で「まてまて、やる!やるから!」とロゼからもらったフィナンシェの入っている包みを取り出す。
「・・・・ん?ちょっとまてよ。あの子、結構可愛かったな」
「なにしてる、はよ寄越さんかい」
「いや、なんか、勿体ない気がしてきた。ばーさんにあげるの勿体ない気がしてきた!」
「差別する気かい!あんた!」
「いやまてよ?あの子、人が好さそうな子だったな。・・・俺が困ってること知ったら一緒に食事でも」
「行きません」
スリの男の首に腕を回しガナッシュは逃がすまいと力を入れた。「盗んだものを返してもらえませんかね?」頸動脈を絞めると男は息を詰まらせる。ガナッシュは空いている左手で菓子の包みを男から奪うと老婆に渡した。
「どうぞ」
「・・・・ああ」
老婆は躊躇いながらも菓子を受け取る。「これもどうぞ」ガナッシュはポケットからハニードロップを取り出し五つほど老婆の手に置いた。「今度の日曜日には公園でボランティアの炊き出しがありますから、それまでどうにかそれで凌いでください」小さく頭を下げるガナッシュを老婆は見つめるだけで動かない。「私はこの人に用があるので、この辺で」と男の首を絞めたまま引き摺ってその場を去る。男は抵抗して手足をじたばたさせるがガナッシュは大通りまで男を引っ張る。逃がしてまた路地に入られたら困るからだ。
「はい、回収」
男のズボンのポケットに突っ込まれていたフラミンゴの財布を取ったガナッシュは男の肩を突き放す。男はその場に倒れ必死に肩で息をしていた。失神寸前だったのだろう。青紫色の顔は中々元の顔色に戻らない。
「これに懲りたら、ちゃんと働きなよ。まだ若いんだし」
「じゃ」とガナッシュは男に背を向けて歩き出す。早く戻ろう。きっと二人は心配している。足早になったガナッシュの腰に小さな衝撃があった。後ろを振り返ると合皮が剥げたボロボロのブーツが落ちている。飛んできた先を見ると、まだ肩で息をしている男がガナッシュを見ていた。
これ以上関わるとマズい。そう察したガナッシュはまた男に背を向けて歩き出す。すると今度は背中に衝撃を感じた。どうせまたあの草臥れたブーツだろう。ガナッシュは振り返らなかった。
「ま、まて!!」
どこに待つ必要がある。ガナッシュは足を止めない。
「頼む!!待ってくれ!!」
スリの頼みなんか聞く必要ないだろう。ガナッシュは足を速める。
「女の子の財布も盗ったぞ!いいのか!?」
ハッタリだってわかっているのに、ガナッシュは足を止めてしまった。
**
「ガナッシュさん、戻ってこないね」
ロゼは公爵邸の厩舎で待機させてもらっているジンの首を撫でながら呟いた。「探しに行ったフラミンゴさんも戻ってこないし・・・どうしよう」不安に駆られてジンの首に抱きつく。ジンは慰めるようにロゼの背中に顔を摺り寄せた。
「ねえジン、旅っていつもこんなに危険が多いの?」
「ブフフゥッ」
「ガナッシュさん大丈夫かな?ケガしたりしてないかな?」
「私も探してきていい?」ロゼはジンと目を合わせて訊ねる。ジンは首を横に振った。「ジンも一緒に行こうよ」ジンはまた首を横に振る。「・・もう、ジンもダメっていうんだから」ロゼはまたジンの首に抱きつくと「ロゼさんは馬と会話ができるのですか?」と小さな笑いと優しい声が背後からした。振り返るとそこにはジェイミー夫人の執事がいた。
「私が一方的に話しかけてただけです」
「ですが、ちゃんと意思疎通できているように見えましたよ」
「そうですか?」
「はい。人馬一体という言葉があるように、人と馬は心を通わすことができるのでしょうね」
「実のところ、私は少し怖いのですが」そういう執事は確かにロゼとジンとの距離を縮めようとはしない。「お馬さんって大きいですもんね」ロゼはジンの首を撫でるとジンから離れ執事に近寄る。「すみません」執事は申し訳なさそうに頭を下げるのでロゼは首を左右に振った。
「フラミンゴさんはまだお戻りではないのですが、お弟子さんがいらっしゃいました」
「ガナッシュさんが!?」
「フラミンゴさんと入れ違いになってしまったので中でお待ちくださいと申し上げているのですが、それはできないと言われまして。何か理由があるのかもしれませんが、奥様からもフラミンゴさんたちのことは丁重にもてなすように仰せつかっておりますので、どうにか中でお待ちいただきたいのですが、どうしたらよいのかわからず・・・。それをロゼさんにお聞きしたくて」
執事は申し訳なさそうに身体を小さくする。「え・・・と、私に何ができるのかわかりませんが話を聞いてみますね」と執事に告げると「助かります」執事はロゼに深々とお辞儀をした。
執事に連れられ公爵邸の門前に行くとガナッシュの後ろ姿が見えた。ロゼは思わず小走りになる。腕を組み宙を見上げているガナッシュに「ガナッシュさん!」声をかけると、振り向いたガナッシュの少し険しかった表情が緩んだ。
「良かった、元気そうで」
「元気ですよ!ガナッシュさんこそ大丈夫ですか?フラミンゴさん心配して慌ててガナッシュさんを探しに行ったんです」
「え?どうして?」
「今この街にマフィアのボスさんが来てるんですって」
「マフィアのボスさん?」
「はい。ジェイミー夫人が言ってました。だから気を付けてねって」
ガナッシュはまた険しい顔をして頭を搔いた。「気を付けてって言われたのにフラミンゴさん一人で行っちゃったの?」乱暴に搔くので髪が逆立っている。険しい顔も焦った様子も初めて見るガナッシュの姿にロゼは顔を強張らせて何も言えなくなった。「・・・あ!」顔を強張らせたロゼに気づいたガナッシュは「ごめん、ごめん!すぐフラミンゴさん探してくるから」顔の前で両手を合わせると、その手をロゼが掴み取る。
「行かせません!」
「へ?」
「絶対絶対行かせません!だってまた入れ違いになっちゃいます!」
「そうかもしれないけど」
「行くなら私が行きます!」
「なんでそうなるの」
「一般の人は相手にしないそうなので。私、商人じゃありませんから!」
「そういう問題じゃなくて、ロゼは女の子だし、そもそも道を知らないでしょ?」
「ジンと行きます!」
「あーもー、意味わかんないこと言い出した」
掴んだ手を離そうとしないロゼに「わかった、待ってるから」困ったように笑うガナッシュ。困らせたいわけじゃなかったロゼは「すみません」謝ると掴んでいたガナッシュの手をようやく離した。まるで子供の我儘のようだと俯く。するとガナッシュの腕が伸びてきて頭を撫でられた。
「大丈夫。ロゼの言いたいことわかってるから」
「・・・・はい」
「けど、ちょっと待っててくれる?俺、変な奴に絡まれちゃってさ」
「変な奴?」
ロゼは顔を上げるとガナッシュは眉をハの字にして微笑む。ロゼの頭に乗せていた手を離しポケットに入れるとフラミンゴの財布を取り出した。
「取り戻したんですね」
「うん。だけど、これを盗んだのが困った奴で、どれだけ撒いてもついてくるんだよ」
「ついてくる?」
「物乞いとは少し違う。大金が必要だっていって俺に同情を買わせようとしてくる」
「はあ」と大きく溜め息をついたガナッシュは項垂れ首を振った。「放っておいたらどこまでもついてきそうで、それをフラミンゴさんに相談しようと思ってさ」取り出した財布をまたポケットに仕舞い、ガナッシュは公爵邸から街へと続く道の先を見つめる。その目線をロゼも追った。けれどそこには誰もいない。「誰かいますか?」訊ねてみた。ガナッシュに返事はなかったが誰かからロゼを隠すようにガナッシュはロゼの前に立つ。
「フラミンゴさん、どこ行くとか言ってなかった?」
「知り合いと情報共有しながら一周して戻ってくるって言ってました」
「そっか。なら少しは安心かな」
「そうそう、だから俺とお茶しない?」
誰かが突然会話に入ってきた。「え?」ロゼは後ろを振り向くと、見たことのある顔がすぐ傍にあった。長い前髪で目を隠しているが後ろ髪を結んでいるアンバランスな男。思わずロゼはガナッシュにしがみつく。ガナッシュはロゼを庇いながら身体を翻し、勢いを殺すことなく男の脇腹に蹴りを入れると「ぐほおっ!」避けもせずまともに蹴りを食らった男は横に吹っ飛んだ。
「うわー、本当に追ってきた。食べるのに時間かかる料理注文したのに」
「あんなの出てきた瞬間ペロリよ、ペロリ」
起き上がった男は舌を出して膨らんだ腹をポンポンと叩いた。「ゴチっす~」大きな口を引き上げ笑っている男が不気味でならない。ロゼはガナッシュにしがみついたまま離れようとしない。それを見た男は「あれ?びっくりさせちゃった?ごめんね~」どこにも申し訳なさそうな素振りは見当たらず口先だけで男は謝る。ガナッシュは怒気を含んだ溜め息をついた。
「戻ってくるって言っただろう。相談してくるからついてくるなと」
「そんなの信じられるわけないじゃ~ん。今までどれだけの人に騙されたと思ってんの?」
「素直に信じたこともないだろうに」
「ピンポーン!やっぱお兄さんは俺のことわかってるね~。これぞ相思相愛、でしょ?」
「一方的な思い込みは相思相愛とは言わない」
苦い顔をしたガナッシュは男を睨みつける。睨まれた男はそんなの気にせずガナッシュの後ろに隠れているロゼを覗こうと身体を横に倒した。ロゼは顔もガナッシュの背中に押し付けて怯えている。それを見た男は「ずるい」と口を尖らせた。
「ずるい!お兄さんばっかり!俺も女の子に引っ付かれたい!」
「人生の全てをやり直して、ありとあらゆる努力したら?」
「ねえねえ、どうしてそんなに怯えてるの~?さっきはあんなに優しかったのに~」
「自分が悪いことしたの忘れてる?本当に近づかないで。この子が穢れる」
「二人は兄妹?微笑ましくて可愛いね~」
「お願い、黙って」
ロゼにしがみつかれて動けないでいるガナッシュは、じりじりとにじり寄ってくる男と距離が取れない。「あの、」小さく弱弱しい声がした方を二人は見た。そこには公爵家の執事がおり「申し訳ありませんが関係者以外の方はお引き取りください」声の柔らかさとは裏腹にスリの男を鋭く睨みつけた。
「え?俺?」
「門前で騒いでしまい申し訳ありません。すぐ連れていきます」
「いえ、お弟子さんは」
「ロゼ、執事さんのところで待ってて」
ガナッシュはロゼに声をかけるが返事はない。「ロゼ」ガナッシュはもう一度声をかける。ようやくロゼはゆっくりと手を離しガナッシュから離れた。顔を上げれず自分の足元を見ていたロゼの上に影が覆いかぶさる。
「え?」
何が起こったのか認識できないまま身体が宙に浮いた。「悪いねお兄さん。俺、人攫いは好きじゃないけど状況が状況なんで」目の隠れた男は軽々とロゼを持ち上げて走り出す。「ちょっ!まて!」ガナッシュが追いかけようとすると男はロゼを抱えながらロゼの首に爪を立てた。
「はーい、ちょっとお待ちくださーい。妹ちゃん、どうなってもいいの?」
「ふざけるな!お前が欲しいのは金なんだろ!?」
「そう、金。金が欲しいのよ。公爵家との付き合いがあるお兄さんたちなら大金用意できるっしょ?・・・一千万、用意して持ってきな。それで妹ちゃんを返してやるよ」
「一千万だと・・!?」
「お兄さんにとって一千万ってどれだけの価値があるんだろうね。妹の命で一千万って高い?安い?どっちでもいいけどさ、妹ちゃん返してほしければ日没までにチェッカーっていう酒場に持ってきな」
男は爪先でロゼの顎を擦る。ロゼは大きく男の手から顔を離した。目の見えない男は大きな口だけが笑っていて気持ち悪い。恐怖よりも嫌悪感の方が強かった。こんなにも汚い男は知らない。毛むくじゃらのイエティだって清潔感はなくても温もりがあった。けれどロゼの目の前で笑っている男は温かくないのに冷たくもない、生温い蛇のようだ。
「さあ、役に立ってもらうよ、妹ちゃん」