71.聖女の資質
その日、セレスティアは泣きつかれてそのまま眠ってしまった。ベッドのないポラリスとマーカスは床に敷かれている絨毯の上に横になって眠った。身体が錘のようにずっしりと重く、一度横になっては動けない。意識を飛ばすのは簡単だった。
無事ムシュンドゥル国に着いたこと、そしてセレスティアが無事だったことの安心感からか二人は久しぶりにぐっすり眠ることができた。湿度が高く蒸し暑いムシュンドゥル国。睡眠時間の短いポラリスは誰よりも先に目を覚ますと、首の後ろに汗で引っ付いた髪の毛を搔きあげた。ふぅと息をつき窓際に寄る。外はまだ明るくない。朝と呼ぶには早すぎる時間のようだった。
「・・・・・・あの」
か細い声がする。ポラリスは後ろを振り返った。誰もいない。「・・・・・あの」また声がした。ポラリスはできるだけ足音を立てないようにゆっくり歩き、セレスティアの眠る寝台へと近づいた。
「起こしたか?」
薄暗いなかで天蓋の向こうにいるセレスティアの姿は見えない。「・・・・あの」呼びかけられるのは三度目だ。
「水か?」
「あの」
「トイレか?」
「あの」
「なんじゃ?」
「あの」
それしか言わないセレスティア。ポラリスは優しい声で「ポラリスじゃ」名乗った。すると「ポラリスさん、あの」セレスティアが初めてポラリスの名を呼んだ。
「・・・・お腹が、空きました」
「ん?」
「・・・・クッキーが、食べたいです」
セレスティアが恥ずかしそうに消え入りそうな声で呟く。ポラリスは自分が持ってきたセレスティアの荷物を探した。来た時と同じマーカスの鞄と一緒に並べられている。ポラリスはセレスティアの寝台から離れ、セレスティアの荷物に手をかける。何枚かあるドレスの下に、そう大きくない箱型の缶が二つ出てきた。「あ」一つはクッキー、一つは紅茶が入っていた。
「セレスティア、入るぞ?いいか?」
一度お伺いを立てながらも、セレスティアの許可が下りる前に天蓋の中に入っていくポラリス。ベッドの上に腰掛けるセレスティアは背中を丸め、顔を俯かせていた。
「紅茶、鞄に一緒に入れておったわ。しかし、お湯がないな。折角のクッキーを水で飲むのも味気ないし」
「構いません」
「そうか?」
ポラリスは缶の蓋を開けてセレスティアに差し出した。暗い部屋の中、セレスティアの細くて白い手がまるで幽霊のものかのように浮かび上がった。恐る恐る缶に手を伸ばし人差し指と親指でクッキーを掴み取る。それをゆっくりゆっくり口元へ運び、小さな口でクッキーを齧った。
「・・・・・おいしい」
「そうか」
「ここの食事は・・・口に、合わなくて。・・・ほとんど、食べていないのです」
「それは仕方ないな」
「・・・・・お菓子を・・お持ち、頂き・・・ありがとう、ございます」
ただでさえ丸まった背中に俯いている顔を更に俯かせる。「ああ。遠慮せず食べるがいいさ」ポラリスは持っていた缶をセレスティアの膝の上に置いた。
「先ほどは・・・申し訳ありません、でした」
「ん?」
「乱暴な・・・発言と・・それに手を」
「別に気にせんよ。怯えて噛みつかれることくらい想定内じゃ。いくら同じ西側の人間とはいえ、ワシらは初対面じゃからの。警戒して当然じゃろ」
ポラリスが、ふふっと小さく息を吐いて笑う。だがセレスティアは暗い表情のまま俯かせている顔を上げずにいた。小刻みに身体が震えている。だが、ポラリスは傍に寄ることも、温もりを与えることも、甘く優しい言葉をかけることもしなかった。元王女であるセレスティアの気位を考えれば、いくら弱っているからとはいえ、下賤の民に近寄られるのは不快であろう。セレスティアは普通の人間ではない。王族の血を引く特別な人間なのだ。
「・・・・・ポラリスさん、あなたは」
「ん?ワシか?ワシはカロッチャ島の者じゃ」
「カロッチャ島・・・。ディオが連れてきた避難民ですね」
「おお、そうじゃ。あのときは世話になった。いや、今もネラルク大公国には世話になっとるがな」
「それで・・・どうして、ここに?」
「お前さんの保護じゃよ」
「保護?」
「お前さんを無事国に帰さねばならん。かなり衰弱してる可能性があったから医者であるマーカスを連れてきた。ワシは、話し相手みたいなもんじゃよ」
「話し相手・・・。」
「不満か?それもそうか。セレスティアもこんな失礼なババアじゃなくて、ちゃんとしたお世話係がよかったに決まっておる」
「・・・・・・。」
「否定せんな」
またポラリスはフッと鼻で笑った。セレスティアは顔を俯かせたまま手に持った食べかけのクッキーをまた齧った。身体の震えは大分収まっている。
「・・・詳しい話をお聞きしても?」
「ああ、してやるぞ。だが、それは今お前さんが抱えている恐怖をはるかに上回るほどの恐ろしい話かもしれん。それでもいいのか?」
「・・・・・・。」
「医者は連れてきたが、精神を病んでしまうかもしれん。己を見失わずにいられるか?」
「・・・・・・。」
「お前さん、自分が聖女じゃないって言ってしもうたらしいな。だから、この国の王様は本物の聖女をご所望らしいぞ。けど、こうやって今でもお前さんが無事なのは、まだこの国の王様がセレスティアが聖女だという希望を捨てきれていないことにある。ここに本物の聖女が現れれば、お前さんの身が危ういと皆が心配しておった」
セレスティアの身体が強張る。急に動かなくなった。
「とまあ、不安にさせてしもうたが心配いらん。ちゃんとネラルク大公国のファルガ大公が」
「私は」
ポラリスの言葉を遮るようにセレスティアが語気を強めて言葉を紡ぐ。「私は、私から、自分が聖女だと言ったことはありません。周りが・・・勝手に・・・それなのに」言葉ははっきりとしているのに声が震えている。「どうして・・・こんな」涙声だ。
ポラリスはセレスティアとの距離を詰めることなく、その場に座り込み胡坐をかいた。この部屋に椅子がない。東の国の人々に椅子は必要ないのかもしれない。
「迷惑、じゃな。そういうの」
「否定しなかった・・私も、悪いのですけど・・。でも、お父様も、お兄様だって」
「なあ、セレスティアよ。お前さん、カロッチャ島の噂を耳にしたことはないか?」
「噂・・・ですか?」
「あの島には未来を予知できる聖女がいる、そんな噂じゃ」
「私は・・聞いたことがありません。・・本当に、そのような人がいたんですか?」
「さあな。けど、ある日突然予知夢を見るようになった孤独な女は存在した」
ポラリスは目を瞑り、船を漕ぐように前後に身体を揺らした。
「その女は漁村に住んでおって、早くで結婚し、子をもうけた。だが、夫と子は事故に遭い二度と村に帰ってくることはなかった」
「・・・え?」
「待っても待っても、どれだけ待っても帰ってくることはなかった。すると勝手に葬式が行われた。二つの笹船、そこに花を乗せて海に流すんじゃ。その船に魂が乗り、黄泉の国へ送ってくれる。そういった儀式、というか葬式じゃな」
「・・・・・。」
「最初は二人の死を受け入れることはできんかった。ずっと俯き、引きこもり、絶望の毎日じゃった。どうして自分ばっかり酷い目にあうのかと自暴自棄だった時期もあったが、あるときそれを乗り越えた。それからじゃ、予知夢を見るようになったのは」
「もしかして、その女の人って」
「どうして突然予知夢を見るようになったのかはわからん。しかもその予知夢っていうのは良いことばかりじゃない。良いこともあれば悪いこともある。そうやって夢で見たものを人々に話していると、その出来事が現実に起こり、その女は次第に聖女様と周りから言われるようになった」
ポラリスは揺らしていた身体を止める。目を開き顔を上げると、潤んだ瞳を押し出すように前のめりになっているセレスティアと目が合った。ポラリスはセレスティアに向かって微笑む。
「夢を見てるだけ。そしてそれを告げるだけ。ただそれだけ。だが、温泉を掘り当てたときくらいから周りが大いに盛り上がってしもうて。それから逃げるように隠居したんじゃ」
「それだけの特殊な力がありながら隠居だなんて」
「特別視されて怖くなったんじゃよ。ワシは夢を見るだけじゃ。良いものを更に良くすることも、悪いものを遠ざけることもできんかった。それなのに聖女の噂は広まっていく。どんどん自分がわからなくなっていく。聖女とはなにか、予知夢とはなにか、ワシとはなんなのか。そういったものがわからないまま現実から逃げた。逃げて逃げて逃げ続けて、目を背け続けて、結果、一番恐れていたことが現実に起こる寸前で出会ったのがロゼじゃよ」
「ロゼ・・さん。ディオの・・・セバスチャンの」
「中身は子供のくせに、その純粋さから大人では避けがちな面倒ごとに頭を突っ込んでくる。逃げもせず、隠れもせず、迷いもせず、前だけ見て、前だけ進む。たったそれだけなのに、その姿に人々は心が救われるんじゃ。多くの人が惹かれていくんじゃ。そこでようやくワシは目が覚めた。聖女とは、こういうことなのだとな」
「人の心に触れ、その心を動かし、共に苦境を越え、得た幸福を共に喜び分かち合う。その功績が世に広まり、人はその存在を聖女と呼んだ」ポラリスは目を伏せてくつくつ笑った。「たまたま結果だけ出したワシとは似ても似つかんよ」連続でしゃっくりをするように肩を弾ませて笑った。
「けど、こんなワシも仮初とはいえ聖女と呼ばれておる。ならばロゼのように、聖女の真似事をしながら、いつの間にか本物になってやろうかと思った次第じゃ」
「・・・・聖女の真似事?」
「ロゼに聖女の自覚はない。あの子は商人たちから聞いた聖女の話を真に受けてそれっぽく振舞ってるらしいし、それ以上に自分が思うまま勝手気ままにやってるだけだからな。だが周りは皆あの子のことを聖女と呼ぶ。それこそ“本物”だと思わんか?」
「・・・・・・。」
「ならワシも聖女という職務を嫌がるんじゃなく、勝手気ままにやってやろうかなと」
顔のシワを深くして笑ったポラリス。それを睨むようにセレスティアは鋭い視線を投げてきた。
「・・・・いいですね」
「ん?」
「ポラリスさんやロゼさんは特別な能力をお持ちです。人にはない特別な。聖女と呼ぶに相応しい能力ですよ」
「僻みか?」
「・・・・・・。」
「怒るな、怒るな」
ポラリスの笑顔は崩れない。だがセレスティアのふくれっ面はどんどん膨れるばかり。
「セレスティア、勘違いするな。人は特別な力を持っているから特別な人間になれるわけではない。それにワシやロゼ以上に特別な人間なのがお前さんじゃ」
「私?」
「王族の血。それこそ選ばれし者の証ではないか」
「・・・・・・。」
「セレスティア、よく考えてみよ。お前さんは何者で、何者でありたいのじゃ?聖女にはなれんかったか?王女の名はただの装飾品か?なんの力も持たず守られるだけの赤子でありたいのなら、ずっとずっと泣いておれ。もし、そうではないというのならセレスティアという人間がどうあるべきか、自分で答えを見つけよ」
ポラリスは「よっこいせ」とゆっくり立ち上がりセレスティアの腰掛ける寝台から離れた。「一つアドバイスをくれるとしたら」と喋りながら歩く。歩いて、ある人物に近づいた。
「この男を頼るのもアリだと思うぞ。医者は人の命を救う素晴らしい人だって思われているらしいからな。手っ取り早く、すんばらしい人になれるじゃろう」
部屋の隅で丸まって眠っているマーカスを指さす。深い眠りにつきピクリとも動かないマーカスはまるで置物のようだった。不安げに二人を見るセレスティアも置物のように動かなかった。
**
「あ、お疲れ様です」
製錬所に現れたガナッシュにシュナイダーが頭を下げる。ガナッシュは頷くように軽い会釈をした。
「ロゼとルノ、迷惑かけてないですか?」
「迷惑なんてかかってませんよ。けど、危なっかしいですね。特にルノちゃん」
「あぁ、張り切り過ぎると暴走しちゃうところがあるんですよね」
「そうなんですよ。危険なものには触らせないようにしてますけど、そうすると怒っちゃうんですよね」
ははは、と困った顔ではなく面白そうに笑うシュナイダー。対照的にガナッシュは申し訳なさそうに眉を垂らした。
「いいこにするようちゃんと言っておいたのに、すみません」
「いやいや、構いませんよ。見てて面白いです」
「そう言ってくれると助かります。ルノは幼いというより無知な部分が多いので、突拍子もないことをするかもしれませんが」
「心配しないでください。人数は多くいますので、危ないことしないように目を光らせておきますね」
頭を下げようとするガナッシュを「いやいやいや」とシュナイダーは止めようとする。「そんな畏まらないでください。むしろ作業員全員喜んでますから。ロゼさんたちとまた一緒に作業ができて。今度はなにをするんだろうってワクワクしてます」下げようとした頭を上げて製錬所の周りを見回すと、多くの作業員たちが忙しなく働いているが表情はイキイキしたものだった。
「ディオ」
今度は背後から声がする。振り返ればローウィンが距離を詰めず、遠くからガナッシュを眺めている。
「こちらのことは、ご心配なく」
「すみません。また来ますから」
シュナイダーはガナッシュにお辞儀をするとその場を離れた。代わりにローウィンがガナッシュに近づく。ガナッシュはローウィンに顔を向けずに「会えた?」極力声を小さくして訊ねた。
「会えるよ。だって泳がされてるからね」
「なんて?」
「ディオたちより先に出るって。沖の方で待機して、そのあとそっちに紛れて上陸するらしい」
「弾薬の積載量は?」
「三十トンはあるんじゃないかな」
「三十トン?結構積むな」
「それだけ欲しがってるお客さんがいるってことなんでしょ」
「考えるだけで嫌気がさすな」
ガナッシュは小さく息をつく。だがローウィンは大きな溜め息をついた。
「ねえ、僕の仕事内容変えられない?いつどのタイミングで殺されるんだろうって、かなりビビッてるんだけど」
「ロウは殺されないと思うよ。ロウに手を出せばウチは黙ってない。それじゃあ金が手に入らないだろ?向こうが欲しいのは成功報酬だから」
「その言葉にいつまで騙され続ければいいんだか」
「賭けに勝てばいいんだろ?なら勝ってみせるさ」
ガナッシュは相変わらずローウィンに顔を向けない。「俺はあのランサーという男を知っている。あの男は目的を達成するためにあらゆるところに楔を打つ慎重な男だ。成功に安易に飛びつかない。失敗しても傷痕を残さない。そのギリギリの線をいつも狙ってる。・・・その裏を突いたのがロゼだ」ガナッシュは自分の首元に手を回す。服の中にしまっているゴールドのネックレスは取り出さず、服の上からぎゅっと握った。
「今更だけどロゼさんって何者なの?前に、魔女って話をちらっと聞いたんだけど」
「間違ってはないけど、ロゼはもっと別のものだよ」
「ふーん?」
「俺はロゼを小さな酒場から連れ出しちゃって、危険な目にも沢山遭わせてしまって、後悔も多くあるけど、っていうか後悔しかしてないけど、でも、こうやってロゼが多くの人に囲まれて自分も周りも笑顔になれるなら、ここに至るまでの過程は間違ってはなかったのかなって思う」
ロゼやフラミンゴがいないときにはすぐ表情が無になるガナッシュの顔が僅かに緩んだ。悟られたくなくて小さく鼻を搔く。
「僕は、ディオがロゼさんを聖女にしたんじゃないのかなって、今、ふと思った」
「は?」
「元々その素質はあったんだろうけど、それをここまで広げたのはディオだと思う。二人で築き上げたものが今に至るんだって」
今までローウィンの方を見なかったガナッシュが、ようやくローウィンに振り返った。けど、ローウィンと目が合わない。ローウィンはわざと視線をガナッシュではなく遠くで作業に勤しむシュナイダーたちに向け微笑んだ。
「間違いなんかじゃない。これが二人にとっての正解だ」
ガナッシュはローウィンに向けていた顔を正面に戻し少し俯く。「あれ?もしかして喜んじゃってる?」背後から笑いの混じった声でローウィンが言う。ガナッシュは何も言わず、俯かせていた顔を上げると、大きく息を吐いて、ぎこちない動きで頷いた。




