43.その手に縋ってしまえば
今はどんなに年老いたババアでも若かった時代は必ずある。髪も白くないし、禿げてもいないし、顔にシワもシミもない、胸だって垂れ下がっていない。そんな時代がポラリスにもあった。
およそ五十年前。カロッチャ島の人口もさほど多くない頃、カロッチャ島の住民は海の傍に居を構えていた。それは山は危険なものだと認識していたからだ。先人の教えにより山には近づかず漁業を営んでいたカロッチャ島の住民たちは山ではなく海と共に生きる人々だった。
早くで結婚して子を産んだポラリスだったが漁に出た夫と子供は急な嵐に呑まれ帰らぬ人となった。同時に愛する夫と子を失ったポラリスは、絶望の底に落ち、数年心を病んだが、両親はいつまでも引きこもっている娘を放ってはおかなかった。下を見るな、前を見ろ。もっとよく目を凝らせ。不幸なのは自分だけじゃない。自分だけの世界に引きこもるな。それが両親の愛の鞭だった。
「ポラリス、頼まれてくれるかい?山の湧き水を取ってきてほしいんだ」
「うん、待ってて」
両親の愛の鞭によりボロボロの心を更に痛めつけたポラリスだったが、両親の言い付けにより身体の不自由な老人のお世話をするようになる。年老いた老人とはどうしてこんなにも汚いのだろう。姿やにおいはもちろんだが、中身も我儘で、聞き分けがなくて、自分では何もできないのに口だけは達者で、優しくされなければすぐ拗ねる。老人の世話は嫌いだった。どうせなら赤子がいい。可愛いし、いいにおいがするし、とっても素直だ。だけど自分にはもう子供はいない。愛してくれる夫もいない。ポラリスは人目も憚らず涙を零すことが多かった。
そんな彼女に転機が訪れる。両親の死、だった。あんなに汚いと思っていた年老いた老人。我儘で傲慢で文句ばかり。それなのに、どんどん細くなる声、おぼろげになる記憶、動けない身体、感謝の言葉ばかりを述べる日々。生まれてきてくれてありがとう、生きていてくれてありがとう、見捨てないでくれてありがとう、死ぬ間際はそればかりだった。
なんてかわいいのだろう。ポラリスは笑っていた。両親は瞼の筋肉も衰え、小さな瞳に目ヤニと涙が溜まっていた。どれだけ頬をさすったかわからない。どれだけ頭を撫でたかわからない。触れると笑う年老いた両親は赤子そのものだった。
それからポラリスは人の世話ばかりをするようになっていた。人が嫌がる汚い老人の世話を率先してやっていた。喜ばれることが自身の喜びとなっていた。三十代後半で子供を産む人はこの当時いない。この年で再婚する人もいない。子供を産めない女はその存在価値さえも失っていた。それでも必要とする人はいる。汚くて煙たがられる老人が正にそうだった。ポラリスはそのために生きていた。
大きな甕を持ってポラリスは山に入る。奥へ奥へと歩を進め山の麓まで近づくと山の谷あいから流れる小さな川があった。いつも通り甕に水を汲む。行きは軽いが帰りは重い。手を滑らせて甕を落とさないように慎重に歩を進める。すると突然、背後でパァーーンと音が鳴り響いた。ギャッギャッギャと鳥たちが一斉に飛び立つ。ポラリスは手を滑らせて甕を落としてしまった。水が零れる。甕が割れなかっただけマシだ。
「なんなの?あの音」
山は危険だから近づくな。先人たちの教えだった。ポラリスは慌てて甕を拾い上げまた水が湧き出ている谷あいまで戻る。すると今度は近くでパァーーンと音が耳に響いた。耳の痛さにその場で蹲る。「やった!仕留めた!?」女性の弾む声がした。ザザザと草を掻き分ける音が近づく。ポラリスは更に身を小さくした。
「・・・え?人間?人間、撃っちゃった?」
身を小さくしていたポラリスに「もしもーし、生きてるー?」知らない声が訊ねる。ポラリスは返事をすることができず、両手で頭を覆った。「あ、生きてるじゃない」更に近づく声に身体が勝手に震える。
「熊だと思って襲っちゃった。無事?」
震える身体を制御できぬまま恐る恐る顔を上げた。自分よりも少し年上くらいの女性が大きな口で弧を描き笑っている。不気味で仕方がない。大きく震える身体によって視点が揺れる。
「あなた海辺で暮らしてる人たちね。この山に何の用?」
ポラリスは何も答えられない。「なによ、そんなに怯えて。私の顔ってそんなに怖いの?自分で見たことないからわからないわ」女は両手で顔を揉む。そしてポラリスへ視線を落とすと「ああ、あなたの瞳があったわね」と顔同士がくっつきそうなほど接近する。
「・・やっ、やめて!」
ポラリスは女を突き飛ばした。女は後ろに一回転するほど勢いよく転がり「うわ、馬鹿力!」痛そうに頭をさする。
「なになになに!?あなた誰!?」
「そっちこそ誰よ。海で暮らしてる人間が山に何の用事?」
「私は・・水を汲みに」
「なにそれ、海の水は飲めないの?」
「海水はしょっぱいから」
「ふ~ん」
女は立ち上がりさっきまでポラリスが水を汲んでいたところとは別のところへ歩を進めると、岩壁の穴から溢れる湧き水を両手で掬いゴクゴクと喉を潤し「ま、湧き水には敵わないわよね~」と清々しい顔をした。
「水を汲むのは構わないけど、もっと目立つ格好してくれないかしら?間違って人を撃ったら大変だもの」
「撃つって・・なに?」
「え?これよこれ。海で暮らす人間は銃を使わないの?」
女が背負っていた銃を胸の前に持つ。初めて銃を見たポラリスは首を傾げた。
「ああ、知らないんだ。海で暮らす人たちってのは平和なのね」
「これ、どうやって使うの?」
「火薬を仕込んで弾を飛ばすのよ。それで鹿とか熊とか猪を撃って食べるの」
「えっ!?動物を食べるの!?」
「え?食べないの?」
「食べないわよ!魚とか貝とか海で獲れるものしか!」
「ふ~ん。じゃあ食べてみる?美味しいわよ」
「いやっ!!恐ろしい!!」
「や~ね~、穢れを知らないお嬢様じゃあるまいし」
女がポラリスの肩をバシバシ叩く。ポラリスは逃げるように仰け反った。
「ま、忠告はしといたから。今度水を汲むときは目立つ格好で来なさいよ。あと、獣に襲われないように気を付けてね」
銃を持ち直した女はそのまま山の奥深くに入っていった。「なんなの・・・、こんなところに人が住んでたの?」ポラリスの身体はもう震えていなかったが力が入らなかった。たっぷり水を汲んだ甕を持てそうにない。ポラリスはいつもの半分以下の量の水を汲んで力の入らない手と足でどうにか下山した。
「ああ、それは魔女だよ」
世話をしている老婆が水を飲みながら言った。「魔女?」ポラリスは首を傾げる。
「森の奥深くには必ず魔女が住んどると言われておる。森を、山を、守っておるんだよ」
「守る?でも、動物を殺して食べていると言ってたわ。恐ろしい」
「別にむやみに殺すわけじゃない。自分が食べる分だけを頂戴するのはワシらとて同じことじゃろ。食物連鎖とはそういうことじゃ」
水を飲んだ老婆はベッドに横になる。「ワシは話に聞くだけで会ったことはないのぉ。会えたのは幸運かもしれんぞ」ふぅと息をついて老婆は目を閉じる。
「・・・怖い人じゃないの?」
「怖いのはお互い様。見知らぬ人間は誰だって怖い。向こうもポラリスが怖かったじゃろうて」
「そうかなあ?」
そんな素振りは全くなかった。普通に話しかけてくるし、笑っているし、顔もぶつかってしまいそうになるくらい近づけてきた。そういえば自分の顔を見たことがないと言っていた。水面に映る自分の顔を見たことがないのかしら。ポラリスはまた甕を持って老婆の家を出る。仕方がない、自分の顔を見せてあげよう。美しくない様に驚くといいわ。ポラリスは小走りで山に戻った。
その日、魔女には会えなかった。次の日も、その次の日も会えなかった。あれは幻?老婆も魔女に会ったことはないと、会えたのは幸運だと言っていた。どういうこと?人間じゃないの?ポラリスは流れる小さい川の上流を目指して山の奥深くへと足を踏み入れる。この先は行ったことがない。山は危険だと言われているからだ。恐る恐る、一歩一歩土の感触を確かめるように歩く。ガサガサと音がした。びくっと肩を跳ねさせたポラリスが立ち止まる。魔女だったらいい。魔女だったら言葉が通じるし襲ってもこないはず。けど、獣だったら?そのときはどうすればいい?ポラリスはその場を動けず気配を察知するしかなかった。パァーーンと音が鳴る。銃声だった。
「今度はこんなところまで来たの?あなた。そんなに私に会いたかった?」
鹿を背負った魔女が現れた。鹿は目を見開き魔女の肩から首をだらんと落としている。ポラリスは言葉にならない悲鳴を上げた。
「も~、可愛い子ぶらないでよ。あなた、自分の姿見たことある?いい感じのおばさんよ?」
「わ、私はまだ三十代よ!」
「三十代の割には萎んだ顔してるわね~」
「色々あったのよ!苦しくて悲しいことが沢山あったのよ!」
「あら、そお」
ポラリスを気にも留めない魔女が踵を返すと森の奥へと歩いていく。「ま、まって!」ポラリスは思わず呼び止めてしまった。「なに?」魔女が振り返る。背負っている鹿の首さえも自分に振り返った。飛び出そうなくらい見開かれている瞳が恐ろしい。
「あ、あなただって自分の顔見たことないんでしょ!見てみなさいよ!ほら!水を汲んできてあげたわ!!」
ポラリスは甕いっぱいに汲んだ水を魔女に差し出す。鹿を背負ったまま魔女が近づいてきて甕を覗き込んだ。揺れることなく水面にはっきりと魔女の顔を映した。「・・・・・。」じっと甕を覗き込んでいる魔女は何も言わず数秒そのままだった。
「これ?私」
「へ?」
「いや、想像と違ったわ。偽物でしょ?」
「これが真実よ!ちゃんと受け止めなさい!」
ぱしゃんと甕から水を掬って魔女の顔にかけた。「あーあ、真実なんて知ったところで面白くないわね~」そしてまた森の奥へ帰ろうとする。
「いらっしゃい。鹿をごちそうしてあげるわ」
「え」
「嫌なの?」
「う、うん」
「ならいいけど」
魔女に強引さはなかった。「ま、まって!」それなのにポラリスがまた強引に引き留める。「もう!さっきからなによ!」魔女は少々イライラしていた。
「あなた魔女なんでしょ?森を、山を守る魔女」
「それが?」
「一人なの?」
「それが?」
「私も一人なの!」
イライラして眉間に皺を寄せていた魔女の表情が緩んだ。「夫も子供も両親もみんな亡くなったわ。今は身体の不自由な老人の世話をしているだけ。身寄りはないの」どうしてそんなことを魔女相手にしゃべったのかわからなかった。けれど、何故だかスラスラ言えた。
「あなたは一人じゃないわ」
「え?」
「群れを成して生活してるじゃない。お互い助け合って身を寄せ合って生きてるじゃない。あなたと私は違うわ」
ポラリスが顔を俯かせる。はっきり違うと否定されてしまった。どうしてこんなことをしゃべってしまったのだろう。自分と同じように孤独な存在だと思い込み、そんなつらい気持ちを理解してくれる相手と決めつけ、やるせない気持ちを押し付けようとしたのかもしれない。「ご、ごめんなさい」勝手な思い込みを押し付けたことを謝った。
「あなた、名前は?」
「え?」
「な、ま、え」
「ポラリス」
「あら、名前だけは可愛いのね」
「あなたは?」
「私はキャロット。可愛いでしょ?自分でつけたのよ」
ふふっと少女のように顔を綻ばせたキャロットは「淋しいのね、あなた。ずっと一人でいる私にはその淋しさが理解できないけれど、淋しいならまた会いにいらっしゃいなさいな。どうせ暇してるから」そのまま立ち去った。ポラリスはキャロットを追おうとはしなかった。想像できたからだ。背負っていた鹿を捌く姿を。絶対に見たくない。いいおばさんだと言われても見たくはない。そしてまた下山した。
それからというものポラリスは何度も山に足を運ぶ。毎回会えるわけではないが、会えたときにはお互い他愛のない話をして一日が過ぎた。一人で生きているというのにキャロットはおしゃべりだった。「いつも心のなかの自分と会話してるもの」所謂独り言だった。
「キャロットはいつも楽しそうでいいわね」
「ポラリスはいつだって湿った空気を纏っているわね」
「最近、夢を見るの」
「夢?」
「正夢っていうの?夢で見たことが現実に起きるの」
「へえ、気味悪い」
「でしょ?だから好きで湿った空気を纏ってるわけじゃないのよ。夢がこうさせるの。とても・・気持ち悪いわ」
「あなたはどっちの世界で生きてるのよ」
「え?」
「こっちの世界で生きなさいな」
キャロットが甕の水を掬ってかける。前にポラリスがしたように。「ほら、冷たいでしょ。濡れて気持ち悪いでしょ。これが現実。夢に踊らされる前に現実の世界を生きなさいよ」キャロットが笑って言った。彼女はいつも楽しそうだった。現実を楽しく生きていた。「いいわね、悩みなんかこれっぽっちもなさそうで。いつも楽しそうで羨ましい限りだわ」浮かんだ言葉をそのままぶつけた。「楽しいわよ。毎日楽しい」キャロットは更に口角を上げて笑う。
「未来は想像するのが楽しいの。明日は何しようかしら。何が起こるかしら。またポラリスが草臥れた表情で現れるのかしら。どんな愚痴を零すのかしら」
「面白がらないでよ」
「面白いんだから仕方ないでしょ?すーぐ顔に出るんだから。見てたらポラリスの考えてることなんて大体想像つくわ」
「そう?」
「そうよ。ポラリスは周りを全然見てないのね。自分しか見てない感じ。もっと周りに目をやりなさい。色んなことが見えてくるわ。そしたら現実を楽しめるわよ、きっと。夢に縛られずにすむわよ」
不思議と肩の荷が下りた。何気ない言葉にすぎない。だけど、その言葉に何故か心が軽くなった。自分は自分の心を縛り付けていたのかもしれない。自分は不幸だと、可哀想だと、苦しいのだと。キャロットのように見方一つ変えるだけで世界は変わって見えるかもしれない。重たく感じていた身体が少し浮いた気がした。
それからポラリスはキャロットだけでなく同じ海辺で住む人たちとも交流を図るようになる。誰も面倒を見たがらない老人の世話をしていたポラリスを住民たちが毛嫌いするわけがなく優しく受け入れてくれた。子供を産めない女は存在する価値がない、そう思っていた時期もある。そう思われていた時期もある。だけど、それは一方的な価値観から生まれた歪みだった。現実はそうじゃない。どんな人間だって役目はある。生きる価値がある。
「ポラリスって預言者みたいだな」
「え?」
「色々言い当てるじゃん?性格とか、その人の過去とか将来のことまで」
「その人をよく見ていれば見えてくるのよ」
「こっええ~」
親しくなった男性がいた。漁師としてうだつの上がらない日々の悩みを聞いていたら自然と親しくなっていた。
「俺、立派な漁師になれんのかな」
「う~ん」
「うわ!その反応、無理っぽい!」
男は勢いよく立ち上がった。「なしなし!俺の未来見るのなーし!」両腕でバツをつくった男が眉を垂らして笑う。「期待して待っててよ。みんなが驚くでっかい魚獲ってくるからさ」その人懐っこい笑顔にはよく騙されていた。そう言っておきながらいつも小物どころか獲れないことも多かった。
しばらくして悪夢を見た。その男性を乗せた船が無人で帰ってくる夢だった。その夢は、過去の現実と似ていた。漁に出た夫と子供が嵐に呑まれて帰らぬ人となったあの現実と。
これは夢だ。過去の出来事を夢の中で思い出しただけだ。そう何度も自分に言い聞かせたけれど不安は拭えなかった。そういうときはいつもキャロットに会いに行く。キャロットに聞いてもらえるだけで心が軽くなる。大丈夫だって思えるようになる。そんなポラリスの心を読み取ったかのように「また相談事?」キャロットは鼻で笑っていた。
「だって怖いじゃない。私の夢は正夢になる。本当に起こってしまうのよ」
「だからー、夢に振り回されちゃダメだって。意識しすぎるからよくないのよ」
「違うの!良いことも悪いことも現実に起こるの!」
「そう思い込んでるだけじゃないの?なら、私を見てみなさいよ。ねえ、ポラリス。私の未来を想像してみなさいよ。今度私のことを夢で見てみなさいよ」
キャロットはポラリスの両肩を掴んで顔を近づけた。「ほら?私ってどんな人?どんな性格で、どんな過去を持っていて、どんな未来が待ち受けている?色々言い当てるポラリスはどんな言葉を私にくれるのかしら」ポラリスはじっとキャロットの目を見続けた。「・・・キャロットは陽気」絞り出した言葉。「誰でも言えるわ、そんなこと」笑われた。
「見えない・・・キャロットは何も見えない」
「でしょうね。ポラリスに未来を言い当てられるほど、平々凡々な人生を歩んではいないわ」
肩を掴んでいた手を離してキャロットはポラリスの額を指で弾いた。
「・・・怖いでしょう、ポラリス。見えない明日に怯える恐怖も、決められた明日に挑むことも、どちらも怖いわ、きっと」
「キャロット・・・。」
「でも、それは全てあなた次第よ。見えない未来は創るものでしょ?決められた未来は従うものなの?それとも壊すものかしら?ポラリスはどっち?どうしたいの?恐怖に怯えて縮こまるのか、それとも勇気を出して踏み出すのか。ねえ、思い出してみて。私たちが初めて出会ったあの日のこと。あなたは恐怖に縛られて声すらも出せなかった。けれど、なんでかあなたは何度も山に足を運び、怯えながらも私を探し回っていたわね。どうしてかしら?」
キャロットがいつもの楽しそうな顔でなく嬉しそうな顔で微笑む。
「あなたと・・・友達になりたかった」
気づいたときには目から涙が零れ落ちていた。キャロットが頭を撫でる。お姉さんのような優しさを見せるのは初めてだった。
「あなたが望んだから友達になれたのよ。勇気の一歩を踏み出せてよかったわね」
「キャロット・・・私は」
「大丈夫よ、ポラリス。あなたには私の未来は見えないでしょうけど、私には見えてるわ。人のお世話が大好きなさみしんぼうは、多くの人に寄り添い、その人たちの心の拠り所になって、いつまでもみんなに慕われているわ。大丈夫、怯えることない、もっと現実と向き合いなさい」
ポラリスはボロボロ涙を零した。気が付けばキャロットにしがみついていた。キャロットが優しく頭を撫でる。何度も撫でる。
「挑みなさい、ポラリス。あなたならできるわ」
**
ハッと目が覚めた。昔の夢を見ていた。昔の夢を見るのは珍しい。キャロットの夢なんてもう何十年と見ていなかった。ポラリスはベッドの隣に視線を落とす。昨日まで一緒に寝ていたロゼの姿がない。ロゼは昨日の朝早く帰っていった。自分が言い出したとはいえ、すんなりと定期船の予約が取れるとは思いもしなかった。
「ロゼの影響じゃな・・・。とんでもない夢を見せよって」
どことなくロゼはキャロットと似ていた。マイペースで、自分に真っ直ぐで、人を拒まない。話をするだけでわかってしまう。あぁ、この人は縋られた手を離したりしないんだろうな、と。
あの頃の自分は縋っていたのだ。キャロットの存在に。縋りつく自分を受け入れてくれて裏切ったりしない彼女に。だけど自分ではキャロットは助けられなかった。キャロットの未来はどうやっても見えなかった。あれだけ心の支えになってもらいながら、いつも励ましてもらっておきながら、自分には何もできなかった。息を引き取ったキャロットの顔が笑っていたのがせめてもの救いでしかない。
長い人生は不幸ばかりを重ねてきた。一瞬の喜びは深い悲しみの始まりに過ぎない。ロゼとの出会いもそうなのであろう。汚い老人を嫌がりもせず、恐れもせず、身も心も寄り添おうとしていた可愛い孫のような存在。そんな可愛い孫を身勝手な理由で縛り付けれるわけもない。一人が怖いから傍にいてくれ、なんて、五十年前と何も変わらない。一人が淋しいから、つらいから、不安だから、キャロット、傍にいて。その結果がアレだ。
ゆっくりベッドから起き上がる。顔を洗おうとしたそのときドンと地震が起きた。最近頻発に地震が発生する。まるで自分の不安とシンクロするようにぐらぐら揺れる。外に出るとまだ日は昇っていない。老人になると早くで目が覚めて困る。遠くでニワトリが鳴いた。
今まで一人だった家が広く感じる。ロゼたちは三日もこの家にいなかった。それなのに、その存在がないのがものすごく淋しい。朝の夢を思い出す。キャロットは自分のことを、さみしんぼうと言っていた。そうかもしれない。ポラリスは自分のためにレモネードをつくる。
「・・・・・いつまでたっても一人には慣れんもんだよ、キャロット」
呟きに返事はない。ふっと一人笑った。
**
更に一週間が経過した。ロゼが帰ってからあまり外を出歩かなくなったポラリスを心配してミリアがプリンを、オルドがコーヒーを手土産に家を訪れるようになっていた。
「こんなになるんだったら、帰さなきゃよかったのに」
「帰さんわけにはいかないだろ」
「えー、でもロゼちゃんもポラリスさんには懐いてたし、それにお兄さんも一緒だったら私も」
「下心がみえみえ。ミリアももっと現実を見た方がいいぞ」
「見たくない現実は見ない主義なの」
はあ、とミリアが息をつく。「いい男はすーぐ売れちゃうのよね。どうしてこうも縁がないのかしら」はあ、とまた湿った溜め息を零す。
「ポラリスさんからも何か言ってやってくださいよ」
「ミリアは選ぶ側に立っとらん」
「ひっど~い!!ポラリスさん!!嘘でもいいから慰めてよ~!!」
ミリアが机に突っ伏す。「綺麗な男性でしたね。ロゼちゃんとかいう子と一緒にいた人」ポラリスは目を細める。「綺麗なのは顔だけじゃ。心の中は誰にも見せないようにしておるんだろのぅ。アイツはいつも心がグラついておる。支えがなければ簡単に崩れてしまうだろうな」オルドの淹れたコーヒーをすすった。
「ポラリスさんのその確定したものの言い方、怖いわ」
「そうか?いつも喜んで聞いておるくせに」
「今日は一段と怖いわ。重みが増してるもの」
ミリアは頭を机に乗せたまま視線だけをポラリスにやる。「・・・そうかもしれんな。懐かしい夢を見たからのぅ」目を伏せてポラリスが小さく笑った。
「・・・・・ミリア、オルド」
「え?なに?」
「・・・・・お前たち、ワシの最後の願いを聞いてくれんか?」
顔を上げずにポラリスが呟く。いつもと様子が違うポラリスにミリアは突っ伏していた身体を慌てて起こした。オルドと互いに見合って二人は息を呑む。
「最近ずっと同じ夢を見る。・・・真っ暗な世界の中で、おばあちゃん、おばあちゃんと、ロゼがワシを呼ぶ夢じゃ」
「ロゼちゃん・・・が?」
「ずっと呼びかけてくる。ずっとずっと・・・耳を塞ぎたくなるほど・・・まるで急き立てるかのように」
「・・・大丈夫ですか?」
「ロゼは五十年前に亡くした友と似ていた。怖がりで弱虫で意気地なしなワシを励まし続けてくれた友に。・・・きっと同じだ。ロゼもキャロットと同じ。ワシの未来を見て心配しておる。・・・ロゼ、悪かった。差し出された手を振り払ってしもうて。・・・キャロット、すまない。お前さんの死から五十年経った今でも、ワシはあの頃から一切成長しとらん」
顔を俯かせていたポラリスが顔を上げる。不安げにポラリスの顔を見る二人の顔が涙で滲んだ。
「よく聞け、二人とも。この島は直に噴火する」
「えっ!?ポラリスさんまでそんな!!」
「ワシは夢に振り回されて現実を見ていなかった。一人の世界に籠らずもっと現実を見ていれば、もっと違う未来が見えていたかもしれんのにだ。・・・今ならまだ間に合う。これから先のことはこれから考えるぞ。まずは・・・生きてくれ。必ず・・・お前たちだけでも・・・生きてくれ!」
ポラリスが席から立ち上がった。ミリアとオルドの手を掴み強引に家から引っ張り出す。突然のことに足が縺れて上手く走れないミリアとオルドは戸惑いながら必死にポラリスについていく。
「ポラリスさん!」
「全員逃げろ!!山が噴火する!!全員、急いで港に逃げろ!!」
細くなった声を必死に張り上げポラリスが叫んだ。その声を掻き消すように、背後でドオォォンと山が唸る。地面が大きく揺れた。




