出勤中な男 その二
新人班目は人が良いというよりは権力に弱い男であった。
着ているスーツが上等な生地であり、立ち居振る舞いがとても偉そうに見えたことから、トイレに駆け込んだ男がエリートキャリアだと班目は見越した。
そこで班目は、自分に見下した目線を向けた男であったにもかかわらず、その男の介抱に向かったのである。
男は三つ並ぶ個室の一番手前にて、便器にかがんで盛大に吐いていた。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫じゃねえよ。ちくしょう、あの豆名め。今度俺にふざけたことしやがったら、次は娘のあそこに指を突っ込んでやる。」
この人はエリートじゃなかった。
一瞬で班目は察知したが、警察庁で豆名と言えば有名な警視であり、そんな偉い人の娘に無体な事をしようとする男を見逃せないと逃げ出さなかった。
出世願望の強い彼は、目の前の男の物言いを全て聞き取り、豆名警視にご注進申し上げようと考えたのである。
「全くよ。あのちっこい豆狸の癖に俺よりも酒が強いってどういうことだ?ちくしょう、大事な娘か何だか知らねえが、俺の指に指輪なんか嵌めやがって。俺はあいつにまだ何も嵌め込んでいないって言うのによ。まずは突っ込ませろよ、というか、認めたんだったら娘とやらせろよ、たく!アナルぐらい開発しといてやれば良かったぜ。」
再び便器に吐きだした男の左手の薬指には銀色の指輪が嵌っており、班目はここでどうすればいいのか悩んでしまった。
目の前の男は、あの豆名警視の娘の婚約者らしい。
下手な注進で婚約破棄となったら、自分の進退はどうなるのであろうか、と。
だが班目に一つだけ絶対的に確信できたのは、目の前の男が外見に反比例した屑同然だろうと言う事だった。
「手を出していないのでしたら、婚約破棄をなさったらいかがですか?」
吐いていた男は無言で体を起こすとトイレの水を流し、静かに振り向いて班目を睨みつけた。
それからその男は背広のポケットからスマートフォンを取り出して、スマートフォンに映る画像を見せつけてきたのだ。
黒髪は丸い形になるようなショートヘアで、顔周りにはシャギーを入れた髪の毛が可愛らしく跳ねている。
人形のような繊細な顔立ちには大き過ぎるぐらいの瞳が輝いていて、そのせいで彼女の風貌は妖精のように美しく可愛らしいものだった。
男は無言ですぐにスマートフォンをポケットに片付け、班目は彼が何も言わなくとも全て理解したという風に頭を下げた。
こいつとやれるんだったら、何があっても婚約破棄なんぞしないよな?
班目こそそんな気持ちだったからだ。
班目はトイレの洗面台の鏡に自分を映してしみじみ眺めた。
色白で髪の色も目の色も琥珀色で色素が薄く、顔形だって童顔でトイレに籠る男と比べれば印象なんて無いに等しい。
良い男には幸運ばかりなんだなあ、と班目は虚しく思い、再び吐き出した男を見捨てて自分の貧乏くじでしかない部署にトボトボと戻って行った。
廊下を歩きながら、確かに自分は魔法使いになれそうだ、そんな風に考えながら彼は鬱々と歩くしかなかった。
エピローグなど無かった終わり方だったので。




