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徒然怪奇譚  作者: どくだみ
六夜:クリスマス・エンカウント
46/55

 運命の日、十二月二十四日の朝。

 目を覚ました七瀬が布団から顔を出したとき、カーテンの外はまだ日が昇ってすらいなかった。

 ふかふかの布団が全身を優しく包み込んでいる。その暖かさと快適さが、寝ぼけ眼の七瀬を二度寝へと(いざな)おうとしてくる。いつもなら、目覚まし時計が鳴るまでは一歩たりとも布団の外に出たりしない。

 今回も同じように、七瀬の意識は夢の世界へと舞い戻りかけた。だが寸前であることを思いだし、一気に頭が冴え渡る。


 ――今日は渚ちゃんとのデートの日だ。


 慌てて掛け布団をはねのけ、上半身を起こす。

 直後、刺すような冷気に全身を撫で回された。頭から布団を被り直したい欲求を、ぐっと堪える。寝過ごした後に感じるであろう精神的冷気と比べれば、この程度の寒さ何するものぞ。

 物事には優先順位があるものだ。この場合、デートの準備は二度寝の快楽に勝る。そしてデートの準備には、万が一にも待ち合わせに遅れたりしないよう、莫大なる時間的余裕を持たせておくべきだ。

 二度寝などに使う時間は、無い。

 七瀬は自らを叱咤激励すると、立ち上がって部屋のカーテンを開け放った。

 遠くに見える山々の稜線から、朝の光が片鱗を覗かせている。


「――よし」


 七瀬はまず朝食作りに取りかかった。

 普段なら適当に済ませたりもするが、今日ばかりはそうもいかない。何しろ昼までの栄養源たりうる食事である。その量には細心の注意を払わなくてはならない。多ければ渚との昼食を満足に楽しめず、少なければ途中で腹の虫が鳴いてしまう。

 しばらく悩んだ結果、いつも通りの無難なメニューに決めた。

 特売で買った卵二つとベーコンで目玉焼き。味噌汁を火に掛けながら、冷蔵庫から作り置きのきんぴらごぼうを取り出す。電子レンジが冷凍飯を温め終わるころにはおかずの準備も完了していた。

 お世辞にも手間がかかっているとは言えないが、大学生の平均からすればそこそこまともであろう食卓が目の前に出来上がる。


「いただきます」


 そう言って七瀬は手を合わせた。

 時間は有り余るほど残っているのでとりわけ焦る必要はない、とは言っても、やはり気持ちは先へ先へと行ってしまう。今から数時間後、待ち合わせ場所で渚と顔を合わせる時のことを脳内に思い浮かべる。

 彼女はどんな服を着てくるだろうか。

 何を纏っても変わらず可愛いであろう彼女に、果たして自分は釣り合うだろうか。

 今日の服は事前に友人たちから知見をお借りしてコーディネートしたものだ。具体的には黒のコートとデニムのジーンズ。インナーは白で統一し、赤のストールでアクセントを加えた。派手すぎず、かといって地味すぎないそれなりの出来であるように思う。

 だが渚と自分では、そもそも()の出来が違うので、追いつけるかどうか甚だ疑問である。

 そんな事を考えていたら、いつのまにか箸が止まっていた。


 ――今更気にしてもしょうがないのに。


 余計な考えをどこか遠くへ追いやるべく七瀬はテレビを点ける。

 悲痛そうな面持ちを浮かべた女性アナウンサーの姿が画面に現れた。朝に似合わぬその表情に七瀬は違和感を覚えたが、直後聞こえてきた不穏さ漂う一言で、すぐさまその理由を察した。


『――九鳥大学の学生が、数日前から行方が分からなくなっているとのことです』


 画面下で『自室に血痕。九鳥大学生、安否不明』のテロップが踊っている。

 右下に小さく映っているのは、ここからさして離れていない学生向けアパートの一つ。七瀬の行動範囲内であるどころか、買い物へ行くときいつもその横を通るくらいには身近な建物だ。

 その事実だけで、普段なら聞き流すであろう類いのニュースに、七瀬の意識は否応なく惹きつけられる。


『行方不明となった西城 陸さんの自室には、本人のものと見られる血痕が一面に付着しており――』


 食事を一時中断。読み上げられる原稿に耳を傾けながら、スマートフォンで検索をかけてみたところ数件ほどヒットした。

 それらから得られた情報を要約するとこのようになる。

 九鳥大学の男子学生が数日前から行方不明になった。心配した友人が彼の家を訪れてみたところ、室内にはおびただしい量の血がまき散らされていて、また何者かと争ったような痕跡も見られた。通報を受けた警察が、現在捜査を進めているという。


 ――物騒な世の中。


 おぞましいイメージが脳内に浮かび上がる。

 赤に塗られた床と壁。錆の匂いで充たされた血染めの八畳間は、そこで行われた惨劇の残虐さを如実に物語る。もしも自分がその中に放り込まれたら、不快さのあまり五秒と保たずに吐いてしまうだろう。

 七瀬は実際にその現場を見ていないが、ニュースサイトの文言から現場の光景を想像するのはそう難しくなかった。

 部屋に住んでいた学生は今なお見つかっていないそうだ。彼の身に何が起きたのかは不明で、無力な一市民としては一刻も早く解決して欲しいところではある。

 事件が起きたことだけでなく。犯人がまだこの近くに潜んでいるかもしれないと思うと、正直に言って恐怖でしかない。しばらくの間、夜道を歩く際は用心し、戸締まりにも気を配ることにしよう。


 朝食を終え、後片付けをしようと七瀬は立ち上がる。

 ふと窓の外を見ると、彼方から流れてきた薄い灰色の雲がゆっくりと空を覆いつつあった。


 ※


「……さすがに早かったかな」


 約束した時間の三十分前に待ち合わせ場所へ到着した七瀬は、腕時計の針を見ながら苦笑いを浮かべた。

 世間一般の流れに漏れず、九鳥大学最寄り駅の周りもクリスマス一色に染まっている。赤、黄、緑の電球が壁面を飾り付け、天井のスピーカーは山下達郎の『クリスマスイブ』を流す。行き交うカップルの数は普段の倍。もうじき自分もあの中に加わるのだと思うと、胸が高鳴ってしょうがない。

 駅の入り口からほど近い柱の一本に背中を預け、渚が来るまで待つことにする。

 ここなら周囲が見渡せる。意識を思考の海に沈めていない限り、彼女に気が付かないなんてことは万に一つもあるまい。

 しかし、考えていた以上に緊張が凄まじい。

 落ち着こうと思っても落ち着けず、しょっちゅう腕時計で時間を確認する。

 一秒は一分に、一分は一時間に間延びして感じ。早く渚に会いたい気持ちと、心の準備が整うまでもう少し待っていて欲しい気持ちが激しくぶつかり合う。

 唯一の安心材料を挙げるとすれば、少なくとも忘れ物は無いということだった。

 財布、ハンカチ、エトセトラ。そして何より重要な渚へのクリスマスプレゼント。必要な物を事前に全て書き出し、チェックを付けながら三回も確認をした。

 ただし、七瀬が最も渇望する“余裕”の二文字は、何者かが地平線の彼方へ持っていってしまったが。


「そこにいるのは七瀬じゃないか」


 聞きなれた声に振り向くと、そこには南 理恵とその恋人が、互いの腕を絡み合わせて立っていた。


「部長。それに本庄さん」

「おはよう、七瀬くん。久しぶりだね」


 そう言った恋人に続いて、南部長も片手を上げて挨拶を送る。


「グッドモーニング、七瀬」

「グ、グッドモーニング」

「うん。そして、メリークリスマスだ。こんなところで会うとは奇遇だな」


 ハイネックのロングコートとその下に見える黒のセーターが、部長の高身長とよく似合っている。化粧も心なしか気合いが入っているようで、ただでさえ眼福な外見をことさらに彩っていた。

 極めつけは、二人から放たれる直視しがたい程の幸せオーラ。数多のカップルと同様、部長らも聖なる夜を謳歌するつもりなのだろう。


「渚伝いに話は聞いてる。これから"デート"なんだって?」

「……!」


 部長の言葉に七瀬は頬を赤らめる。

 自分で連呼する分には一切の差し障りが無くとも、こうして他人から改めて言われると、どうにも意識してしまうのだ。


「ま、私らの予定も似たようなものでな?」


 部長は恋人の肩に頭を預け、幸せそうに唇の端を持ち上げてみせる。


「……見せつけてくれますね」

「なあに、普段の七瀬には負けるよ」

「何の事ですか?」

「お前は知らなくてもいい事だ」


 その笑みがいたずらっ子じみたものに変わった。人差し指を口に当て、南部長は片方の瞳をパチリと閉じる。


「男同士の友情みたいに、女同士の秘密なんてものもあるのさ。秘密は女を女にしてくれる」


 とどのつまり、自分には教えてくれないということだ。

 渚と部長は何だかんだ仲が良い。二人だけの秘め事もたくさんあることだろう。

 語感から推察するに、今回のそれは十中八九自分に関することだろうが――まあ、秘密と言われれば無理に探るつもりも無い。


「分かったな。それでも訊きだそうというならパンドラの箱を開ける覚悟をしておけ」

「箱の中身は気になりますけど、神話の二の舞を踏むつもりはないです」

「それで良い。ひとたびその蓋を開けようものなら、お前の世界は一変してしまうことだろう」


 詔を唱える時のような部長の仰々しい物言いに、朝から続いていた七瀬の緊張が少しだけほぐれた。頬が緩んで、自然と、いつも通りの苦笑が浮かび上がってくる。


「一変って、大袈裟ですよ」


 部長が満足気に頷く。


「そうそう。その笑顔を渚にも見せてやれ。向こうも緊張してるだろうからな」


 柔らかい口調に彼女なりの気遣いを感じる。七瀬は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。おかげで楽になりました」


 変に力を入れすぎてはかえって失敗する。部長はそう伝えたかったのだろう。

 リラックスすべしと頭では分かっていても、実際にはなかなか難しいものだ。けれど、その事を自覚しているのといないのとでは大きな差が生まれる。

 何となくではあるが、今のやり取りで普段の感覚を僅かながら取り戻せた気がした。


「そりゃ良かった。私としては単なるお節介のつもりだったんだが」

「それでも、ですよ。今日は楽しんでくださいね」

「七瀬もな。お前の口上を借りるなら――、そうだな。二人の間にバラの花が咲かんことを、ってとこか」

「……"熱烈な恋"でしたか。お返しに皇帝ダリアあたりを渡したいんですけど、生憎持ち合わせが」

「いい。言葉だけで十分さ」


 グッドラック。そう言って手を振り、南部長と恋人は駅の構内へと消えていく。

 それからしばらくしてバスがやってくる。

 時間帯を考えるに、渚が乗ってくるのはおそらくこのバスだ。続々と降りる客に視線を走らせると、自分の予測が正しかったことはすぐに分かった。

 渚と目が合い、軽く手を振る。彼女は駆け足で近付いてきた。


「待たせてしまってすみません」

「大丈夫。僕も今来たところだから」


 王道じみたやり取りをそつなく済ませる。

 渚はとても可愛かった。もちろんいつも可愛いのだが、今日の渚は一段と可愛さが増して見えた。

 天使か何かだろうか?


「今日はありがとね、僕に付き合ってくれて」


 七瀬がためらいがちに言うと、渚は慌てて首を横に振った。


「そんな! 実は私も、内心すごく楽しみにしていたんです」


 邪な気持ちとは無縁の無邪気さに、七瀬の心は鷲掴みにされてしまう。

 彼女が迷惑に感じていないだけで、天まで昇れそうなほど嬉しいというのに。あまつさえ“楽しみ”という言葉が聞けるとは。心が幸福で満たされて、早くも決壊してしまいそうである。

 ただだからといって、彼女の気を引く努力を怠るわけもなく。


「そう言ってくれると嬉しいな。……あー、あとね。その……えっと……」

「……?」


 ――頑張れ自分。


「……その服、すごく似合ってるよ」


 よし言えた。


「あ、ありがとうございます……!」


 コートの襟で口元を隠しながら渚は応えた。その下からは暖かそうな紺のセーターが顔を覗かせており、どことなく南部長のそれと似ている。厚めのロングスカートが冬の風を受けてサラサラと揺らいでいる。そしてマフラーは巻いていない。

 渚の雰囲気を最大限に引き立て、その魅力を何十倍にも膨らませる完璧なコーディネートに思えた。


「とある人と一緒に考えた服なんですけど……そう言ってくださると嬉しいです」

「何だろうね。いつもは見れない渚ちゃんの姿を、今見てるような気がする。僕なんて比べ物にもならないよ」

「そんなことはないです。七瀬先輩の服も素敵ですよ」

「……そう?」

「はい。いつにも増して格好いいです」


 数秒、奇妙な沈黙が流れた。

 どちらも何も口にせず、互いに互いの瞳を見つめあう。

 渚の瞳はかすかに潤んでいて、上気した頬と物言いたげに開かれた唇が、催眠でもかけたかのように七瀬から思考を奪い去った。

 遠くから聞こえてきたカラスの鳴き声で、ふと我に帰る。


「そ、それじゃあ、そろそろ行こうか……?」

「は、はい。そろそろ行きましょう」


 結局、先の会話は無かったことにして、二人は歩きだしたのであった。

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