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「分からない」
ブレイクの表情に焦りが滲む。
「……とにかく現地に行って自分の目で確かめたい。王都からスウィフト領までは馬車だと二週間かかる。馬を走らせて直線距離で向かえば一週間程度か。到着する頃には既に訪問団が国境を渡り、スウィフト領に入ってきてしまっているかもしれない……」
「何もしないよりましだ。俺も一緒に行く。明日の朝には出発できる」
「私も! 私も一緒に連れて行ってください! スウィフト領に関することでしたら他人事ではありません」
しかし、ブレイクは乗り気ではない。ジョシュアも腕を組んで思案している。
「アリシア。馬車ではなく馬を毎日何時間も走らせるのは慣れていないと男でも厳しい。今回はスピードが命だ。どうかここで待っていて欲しい」
アリシアは泣きたくなったが、ブレイクの言うことは尤もだ。
スウィフト領に行くには必ずギャレット領を通らなくてはならないし危険もあるだろう。
しかし……
「でも、スウィフト領のことは私もとても気になっています。私は別行動でも構いません。馬車で後を追わせて頂く訳にはいかないでしょうか?」
「いや……そうすると君の方が危険に晒される。人質にされたら僕達が身動きが取れなくなる。困ったな……」
ブレイクの表情が本当に困惑しているのを見て、アリシアはダダをこねてはいけないと反省した。
(今は緊急時だ。私は間違いなく足手まといになる。諦めよう)
「あの、わがままを言ってごめんなさい。分かりました。王都でお待ちしています。どうか、ご無事に、ご無事に戻っていらして下さい」
精一杯の気持ちを込めると、アリシアの目から思わず涙が一筋落ちた。
***
その日の夜、アリシアは久しぶりにスウィフト伯爵邸でジョシュアと一緒に夕食を取った。
料理長が気合を入れまくった素晴らしい食事に舌鼓を打つ。
「スゴイな。料理長はまた腕をあげたな」
「久しぶりにジョシュア様がいらっしゃるって、すごく張り切っていたわ」
アリシアが顔をほころばせた。
ジョシュアは翌日の早朝、ブレイクと第二騎士団の希望者と共にスウィフト領に旅立つ予定だ。
(またしばらく会えなくなる。寂しいな……ジョシュア様はどう思っているんだろう?)
アリシアが上目遣いでジョシュアを見ると、彼の態度が突然ぎこちなくなる。
古いタイプのロボットのように体中の関節がギシギシ音を立てているような感じだ。
花を届けたり、食事を一緒に摂ったり、とアリシアとの距離を詰めてきたジョシュアだったが、やはりまだ慣れないのか、とアリシアは少しガッカリした。
「ジョシュア様、どうか、そんなに緊張しないで下さいまし。久しぶりだし私まで緊張してきちゃうじゃないですか……」
ちょっと拗ねた口調で言うと、ジョシュアが口を押さえて真っ赤になった。
「……」
「どうして黙ってるんですか?」
「……心臓が破裂するかと思った。可愛すぎて心臓に悪い。君の隣に居られるだけで幸せ過ぎて夢じゃないかと思う」
以前は素っ気なかった相手から言われると、甘い台詞の破壊力が凄い。アリシアの心臓もドキドキして顔が熱くなる。
「あの、どうして、そんなに私のことを? 子供の頃は一緒に遊んだこともありますが、ここ何年も一緒にお茶を飲むくらいで話も弾まなかったし……何を切っ掛けに好きになっていただけたのかなって不思議です」
今更こんな質問?と思いつつ、アリシアは思い切って訊ねてみた。
「初めて会った時のことを覚えているかい? 君が一生懸命、俺の傷を癒そうとしてくれた横顔を忘れられない。泣きそうな顔をして治癒魔法を掛けてくれた」
「覚えていますわ。そして失敗した私を優しく励まして下さったのがジョシュア様でした。とてもお優しい方だなと思ったんです」
「本当か? 俺はいつも令嬢方に怖がられているんだがな」
「私は全然怖くなかったですよ」
アリシアの笑顔を見てジョシュアがはぁーっと大きな溜息をついた。
「俺はずっと君に怖がられていると思っていたんだ。君がここであんなに辛い目に遭っていたのに気がつかなかった。なんてバカだったんだろうと思う。助けられずに本当にすまなかった。どうかこれからは俺に何でも相談して欲しい。君のためなら何でもする」
「ありがとうございます。その言葉だけで十分ですわ」
ジョシュアが顔をくしゃりと歪めて泣き笑いの表情を浮かべた。
「君には笑っていて欲しい。君が笑顔を向けてくれるだけで、こんな幸福な瞬間はないと思う。毎日、君のことばっかりだ。君が隣にいてくれたら無敵になれるかもしれない。俺が望むのは君だけだ。もう何年もこうなんだ。自分がおかしいんじゃないかって思ったこともある」
ジョシュアは苦笑した。
「……愛してる。だから、俺と一生を共にして欲しい。すまない。俺はちゃんとしたプロポーズすらしていなかった」
甘い声で囁くジョシュア。
アリシアの耳に届いた言葉には誠意が込められていた。
「私も、です。だから、無事に帰ってきてくださいね」
言いながら、アリシアの瞳の表面に涙の膜が張る。
ジョシュアは幸せそうに、瞬いて溢れた一粒の涙を指で拭うついでに彼女の頬を優しく撫でた。




