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幕間3:とある家庭

 もう9月も後半なのに、今日も最高気温を更新したとかいうし、最近の暑さにはうんざりする。

 この時期は陽が落ちるのも早くなって、夕方からは風も感じるようになったけど、昼の熱気はまだ残っていて、駅から家までのそう長くもない距離を歩くだけで、電車の中で抑えられていた汗がじんわり滲んでくる。

 あと10日ほどでクールビズも終わり衣替えだけど、少しは涼しくなるんだろうか。

 ブラウスの袖は汗でぴっちり肌に張り付いてるし、額を拭うハンカチも湿りを帯びて重みを感じる。

 とにかく早く家でシャワーを浴びてすっきりしたい。


 早足で歩き、見慣れた家の近所まで来ると、あたりは薄暗くなって街灯にも光が灯っている。

 人通りもなく、どこからか聞こえる虫の音だけが私の耳に響いて、それだけがわずかに季節の移ろいを感じさせた。


 家の門を押し開け、玄関へと向かう。

 玄関の灯りはいつものように消えていて、鍵をあらかじめ取り出しておいた私は手探りで鍵穴を探す。

 相変わらずじわりじわりと吹き出る汗を拭い、差し込んだ鍵をかちゃりと開け、扉を開く。


「ただいまー」


 いつものように、返事は、ない。


 一刻も早く汗を流したいが、いつものが先だ。とんとんと階段を上がり、私の自室の横、「るり」と書かれた部屋の扉を開ける。


 そこには、今日も母が、いる。


 床にしゃがみ込み、この暑いのにエアコンもつけず足下に置いたアルバムを広げたまま、ぼんやりと座っている。


「ああ、優里。おかえりなさい」


 そう私に言う母は、しかし目は中空にあってなにかを見ているようで何も見ていない。


「ただいま。それはいいけどエアコン位つけなさいっていつも言ってるでしょ」

「ああ、うん。そうね。次は気を付けるわ」


 たぶん母は私の言うことを聞いていない。私の言葉が右から左に抜けているのは明らかだ。

 私はひとつため息をついて、母の気を引くであろう名前を口にした。


「お母さんが体壊したら、瑠璃が悲しむよ」


 その言葉に、母が過剰に反応した。


「瑠璃が、瑠璃が帰ってきたの!?」


 私はかぶりを振る。


「まだだよ」

「……そう」


 母はまた俯いて、


「あの子、いつ帰ってくるのかしらねえ」

「いつか、帰ってくるよ」

「明日は帰ってくるかしら」

「明日はどうかなあ」

「明後日は?」

「もうちょっとかかるかも」

「……あの子、くいしん坊だから、お腹空かせてないかしら」

「あちこちで買い食いする子だから、寄り道してるんでしょ」

「こんなことなら、もう少しお小遣い持たせておけば良かったかしら」

「あの子、あったらあった分だけ使うから一緒だよ」

「拾い食いとかしてないかしら」

「……クッキーくらいなら『5秒ルール』とか言ってたからあるかも」

「お腹壊さないのかしら」

「お茶飲んだら『消毒』なんだってさ」

「なにそれ」

「知らない。瑠璃が帰ってきたら本人に聞いて」


 母はため息をついて、


「そうねえ。帰ってきたら聞いてみるけど、その前に」

「?」

「しっかり叱っておかないとねえ。なんで2年も行方不明だったのか」

「……そうだね」


 ふと気づいたように、母が私に尋ねる。


「そう言えば、安藤さんの所は?衛君や海流君はまだ?」

「……安藤さんとこは、もうけじめをつけたそうだよ」

「……け、じめ?」

「まだ手続きはできないけど、お家だけでお葬式はしたそうだよ。お寺さんに相当無理を言ったみたい」


 母の顔が引きつった。


「まさか、優里」

「安藤さんとこは安藤さんとこ。うちはうち。うちはお母さんの好きにしていいよ。好きなだけ待っていい。私も待ってる」

「……そう」


 母が、安堵の息を吐く。


「それでも、いつかは考えないといけないことだから、だからお母さん」

「……うん。分かってる」


 そう言ってしょんぼりと気を落とす母は瑠璃とそっくりだ。


 私は、母がこうなるなんて全く予想もしていなかった。

 私達の両親は共稼ぎで、小さい頃から二人とも外に出ていることが多かった。

 父は仕事の都合や会社の付き合いで遅くなることもあったが、基本は早く帰ってくるし晩ごはんも家で食べる。だけど出版社に勤めていた母は帰る時間も不定期、休みの日に呼び出されることも多く、出版社の仕事だけはやりたくないなと子供心に思ったものだ。

 それでも二人が頑張ってくれたおかげで私は大学を無事卒業して就職もできたし、そのことはすごく感謝してる。あとは瑠璃が高校を卒業して、大学を出たら一息つけるだろうから、そうしたら一度皆で温泉にでも行こうと、そう言っていたのに、


 約束は、永遠に果たされなくなった。


 あの日何が起こったのか私はよく知らない。ただひどく海流が荒れていて、それを衛が必死に留めていたのは覚えている。その原因についても、私には心当たりがあった。


「お姉ちゃん聞いて!私、今日、告白されたんだよ!」

「へえ。海流に?」

「何で海流なんだよ。違う違う、まったく別の人。久住くんって言ってね」

「え!?あんた、それ」

「なに?なんで驚いてるのさ」

「あんた、それ、どうしたの?」


 瑠璃はいつものようにえへへ、と笑って、


「うん。とりあえず、付き合ってみることにした」

「ま、マジ?」

「マジ」

「……うっわー。どうしよ、これ」

「なになに、どうしたのお姉ちゃん」

「……あんた、それ、海流に言った?」


 瑠璃は首をぷるぷると振って、


「お姉ちゃんにも言ってないのに海流に言うわけないじゃん。どしたの」

「あんた、それ、ちょっとまだ誰にも言っちゃ駄目だからね」

「ええ?なにいきなり」

「うるさい。ホントにあんたはいつまで経っても面倒事しか持ってこないんだから!」

「え?わ、わたし、お姉ちゃんになんかした?」

「『はい』は!?」

「あ、は、はい」

「ホントに駄目だからね!特に、海流には絶対言っちゃ駄目!」

「……なんで?」

「あんたがそんなだからだよ!このお花畑!」

「え。彼氏出来たって報告したらなんでディスられてるの私」


 そうして、しばらく経ってから、

 瑠璃や海流、衛を含めた5人が失踪した。


 直前まで何かを争っていたのは知っている。

 瑠璃を中心に、海流と衛、瑠璃の友達の和美って子。それに少し危なっかしい感じの怖さのある男の子、たぶんあれが瑠璃の言っていた「久住くん」だろう。衛から聞いた話では衛の部活の後輩らしい。最初は瑠璃と全く合わない感じで意外に思っていたけど、一度話した時は見た目ほど怖い感じじゃなくて、丁寧な感じだったし、どこか脆そうな雰囲気もあってなんて言うか、瑠璃と彼が、お互いに足りない物を補い合っているような、そんな印象を受けた。


 おそらく、争いの原因は瑠璃を巡るものだろう。

 私も衛も海流が瑠璃を好きだったのは知っていたし、幾度となく海流の尻を叩いたけど、その度にあの子は困ったように笑うばかりで、結局瑠璃にはなんにも言わなかった。

 だから、瑠璃に久住くんっていう彼氏ができても海流には何も言う資格はないし、本人もそれは分かっているようだった。だけど、それじゃあの子があまりに不憫だ。せめて、あの子の想い位はきちんと瑠璃に伝えておくべきだろうと、衛と話し合いを始めた矢先の出来事だった。


 そうして、5人はいなくなった。


 今まで一度たりとも無断外泊などしたことのない瑠璃が、その日に限って帰ってこなかった。

 衛や海流と一緒だという油断もあって、気付くのが遅れたことも今となっては悔やまれる。

 安藤さん所は安藤さん所で、うちにいるものだと思い込んでいたらしい。私が安藤さん家に連絡をした時はもう、3人は消息をぷつり、と絶っていた。

 うちと安藤さん家の5人で捜索願いを届け出に警察に駆け込んだ時、さらに和美という子と例の久住くんの二人も同じタイミングで失踪していることを知った。

 直前の様子を知っている私にすれば瑠璃達の失踪と無関係な筈がない。が、心当たりを聞かれても5人がどこへ行ってしまったのかは全く見当がつかず、それでも話し得る内容はできるだけ警察へ話して、捜索願いは受理された。


 それからのことはあまり思い出したくない。


 高校生5人が行方不明という、色々な意味で話題性の高い事件になったことで、私達家族は好奇の無遠慮な目に晒された。犯罪に巻き込まれた可能性、痴情の縺れによる集団自殺、無責任な高校生の迷惑行為、親の育て方が、狂言が、内部犯行が。聞くに堪えない無責任なマスコミやネットでの煽りにそれでも私達が堪えられたのは、瑠璃が帰ってくればそれだけでいい、その一念があったから。


 だけど2年の月日は少なからず私達を疲弊させている。いまだ瑠璃たちの足取りはまったく掴めず、警察からは何の進展もないと聞く。家族を失った傷は癒えず、月日を重ねても痛みは消えない。中でも母のダメージは他の誰よりも大きかった。


 母は仕事を辞め、日がな一日、瑠璃の部屋で過ごしている。

 いつ瑠璃が帰ってきても良いようにと、家から一歩も出なくなった。働いている頃は誰よりも身だしなみに厳しかった母が、今は化粧も髪の手入れも碌にせず、憔悴しきってやつれた頬、うつろな目線のせいもあって見た目にはまるで幽鬼、いや、子を探し求め狂乱する鬼子母神のような、母の姿はそう見えてしまう程に荒れ果てている。


 私と父は、母の好きなようにさせることにした。

 私も今は働いているし、母が働かなくても暮らしは不自由しない。家のことは父と分担し、母の健康状態や変なことを考えたりしないように、できるだけ一緒にいるようにしている。

 本当に、面倒事しか持って来ないんだから、瑠璃は。

 帰ってきたら私も一発怒鳴りつけてやりたい。


「ねえ、優里」

「……なに」

「やっぱり、あの子はもう、帰ってこないのかしら」

「……どうして、そう思うの?」

「どうして、って。もう、2年だし」

「……帰ってくるよ」

「優里……」

「お腹が空いたら、帰ってくるよ。お母さんのご飯を食べに、帰ってくるよ」

「……そうよね、あの子がお腹を空かせて帰ってきたら。ごちそうをいっぱい作りましょうか」

「あんまり甘やかさないでよ?あの子は調子に乗せると後が大変なんだから」

「分かってるわよ」

「ほら、もうすぐお父さんも帰ってくるし。階下に下りてごはんにしよう。ほら、私も汗掻いちゃったしさ。ごはんの前にシャワー浴びておきたい」

「ああ、そうね。そろそろ下りましょうか」


 二人でとんとんと階段を下りる。


「今日はなに作ろっか」

「久しぶりだから私が作るわよ。今日はもしかしたら瑠璃が帰ってくるかもしれないし、ちょっとやる気出たの」

「そう?じゃあお願いしようかなあ。でも、あんまり張り切り過ぎないでよ?量が多すぎて食べきれないんだから」

「4人分作る癖が抜けなくてねえ」

「まあいいよ。残ったら明日のお弁当に入れるから。じゃ私、シャワー浴びてくるね?」

「ええ。ごゆっくり」


 母の言葉を背中に聞いて、私は風呂場へ向かう。

 今は一刻も早く、シャワーを浴びたかった。

 服も脱ぎ捨てるようにして風呂場に入り、シャワーの蛇口をひねる。

 勢いよく出る水が、私の頭を濡らしていく。


 ばしゃばしゃと大きく響く水音が周りの音を消して、

 そして私は、



 大声で、泣いた。


 るり、るり、かえってきてよ。

 もうみんな、限界なんだよ、

 もうあんたがいないのに、耐えられないんだよ。


 だから、

 だから、


 かえってきてよお、るりいいいいいいいい!!!!!!


 私の泣き声は、水音といっしょに、流れてきえた。

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